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2025年7月4日金曜日

宗教を学ぶ理由

【質問】20代前半男性 ペンネーム:そら

お久しぶりです。

真也さんにとって、宗教団体の人と関わったり、儀式に参加したりする理由って何ですか?

僕はオーストラリアに来てから色んな人と会ってそれぞれの出会いに理由があると信じていて、実際に学べたこともたくさんあります(新しい人との出会いや、その人の視点を知ることはシンプルに楽しいです)。オーストラリアに来てから出会う人で無宗教の人はほぼいなく、どの宗教かに関わらず僕はその人に目覚めてもらう役割にあると思っています。実際に宗教を盲信して、うまく愛を受け取れずに苦しんでいる人、自分を受け入れられずに自分も他人も傷つけてしまっている人など様々ですが、順風満帆な人とは深い縁にはなっていません。

僕は真也さんのノートの考え方で幸せになれたので、その考え方をあわよくばシェアしたい(相手に気づかせる形で)のですが、なかなかうまくいきません。相手には僕の信念はある程度定まっているんだけど、まだまだ色々な宗教から学べると思っているよって伝えています。

例えばキリスト教だと創造主(キリスト)を裁判官のように捉えていて、恐怖からくる愛だったり、敬虔なクリスチャンだと罪の意識が強過ぎて自分を愛せなかったりがあります。最近だとモルモン教(キリスト教から派生したもので死後はみんな天国に行けると説かれているけれど、そこには階層があってそこにいくには厳しいルールを守り、教会を拡大することに貢献しなければならない。結果構造自体はわかりやすいピラミッド型)を学んでいます。

そこでミッショナリーの人(若い世代で一定の期間積極的に宗教を広める役割を担う人)たちと何回か話すのですが、英語で色々考えて、相手がハッとするような質問をしたと思っても、いい質問ありがとう!これはこうこうかこういうことだよと、ロボットのようにモルモンの教えから抜粋してきて、説明してきます。この人たちとは日常での関わり合いがなく、僕が誘われた時に集まりに行ったり、形式的な話し合いの場に行くような感じで、少し特殊な関係性です。正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。色々な宗教を学んでいく中で、様々な発見があってそれは楽しいのですが、たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?また、メシアの三原則として相手に気づかせてあげるというのがあると思いますが、どこまで伝えていいのですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。オーストラリアでとても貴重な経験をされているようですね。あなたの御質問は僕もいつか話したいと思っていたことで、とてもありがたいことです。

ただ、「宗教を学ぶ意味」の話以前に、あなたにはもの凄く云いづらい厳しいことを言わなければならなりません。それで回答がずっと遅くなってしまっていました。ごめんなさいね。もちろん僕はいつも100%の愛で回答しているのですが、今回はどう言葉を取り繕おうにもあなたを傷つけて反感を買うのは不可避な内容なので。

まずあなたにはお伝えしたいことは、「もっと本質を見抜く目を持って欲しい」ということです。そのために、とても難しいことなのですが、「己に都合の良く現実を捻じ曲げて解釈してしまっている自分のエゴを見つめる」ということを心がける必要があると思います。

僕は宗教を悪用した詐欺・カルトを「学ぶべき宗教」とは考えていません(反面教師として以外に)。そこをゆめゆめ勘違いしないで下さい。詐欺・カルト集団で宗教は学べません。だいたいそういうところは他の宗教を同時に信仰するということを認めるわけがありませんので、そこ以外で学ぶということができなくなります。あなたが学んだ通り、自由意志を放棄したAI(NPC)みたいにされて利用されるだけです。

はっきり言いますが、モルモン教というのはモロにカルト詐欺集団なのであり、それをキリスト教の一派などと考えるのはキリスト教に対する侮辱でしかありません。そしてキリストについても聖書についてもモルモン教で正しく学ぶことなどできるわけがありません。論外です。

<絶対に避けるべき宗教(カルト・詐欺)の特徴>
■考え方や行動を強制・強要される(寄付・奉仕・勧誘活動)
■信者を脅したり不安にさせて精神的に支配しようとする
■霊感商法をやっている(心霊現象などをトリックで見せる)
■囲い込みが強く、他の宗教を同時に信じる事を禁止される
■外部に悪い実情(犯罪など)がバレないよう口止めをしている
■集めたお金の大部分が何に使われているか一般信者に知らされていない
■聖典を勝手に都合よく捻じ曲げて解釈し、大手宗教の権威を悪用する
■天啓などと言って教祖や幹部が教義を都合よく変えている
もちろんモルモン教はこの基準でも真っ黒です。

何よりあなたがそのコミュニティーに入り込んで真理を説いて目を覚まさせようとするなどというのはあまりにも無謀だと思います。そして更に無謀に思われるのは、あなたがモルモン教徒の女性を彼女にして洗脳を解いて自分の考えに染めようなどと考えていることです。それはまるで渋谷の駅前でラッセンの絵とかを法外な値段で売るエウリアンのお姉さんのギャラリーに行って仕事を辞めさせて彼女にしようとするようなもので、あまりにも無謀過ぎます。

モルモン教徒は結婚するまで性行為はご法度であり、あなたがモルモン教徒の彼女とそういう関係になりたいとしたら、あなたがモルモン教徒になって彼女と結婚して一生モルモン教徒としてやっていく以外にありません。そしてたくさんの理不尽な規制を受けながら、一生搾取され続けることになるのです。あなたの未来の子供もです。それでいいのですか?あなたの魂は「他人からルールと考え方を強制されるロボット人間になること」を受け入れるのですか?恋は盲目と言いますが、あなたのソレは愛ではなく完全にエゴだと思います。一度自分をゆっくり見つめ直して、価値の優先順位をはっきりしましょうね。

ただでさえ僕がいつも「メシア救世三原則」と言っている通り、相手を変えようとしないのが大原則なのであって、まして相手がカルト組織の人間では変えられるわけがありません。それを変えられるなどと思うのは(厳しいですが)傲慢であり、それは「自分のエゴで都合よく現実を捻じ曲げて解釈している」ということなのです。

とにかくあなたは一刻も早くモルモン教から離れるべきです。普段僕はこんな押し付けるようなことは言いません。それでも言ってるんですから、相当なことなのだと認識して下さい。


>正直言って、それだけキリストを尊敬していて、キリストについて学んでいるのに、何故キリストのように生きないで、キリストと契約を結ぶ形になるのかよくわかりません。

「それを言っちゃあおしめぇよ」って感じです。それはエウリアンの女性に「ラッセンの絵がそんなに素晴らしいなら、なぜラッセンみたいな絵を描かないで、ラッセンと契約を結ぶ形になるのでしょうか?」って言っているようなもので、ナンセンスです。


英語がまだ上達しないうちに、積極的に会話に付き合ってくれる彼らの存在はあなたにとってとてもありがたいことなのはとてもよくわかります。でもあなたがそれに依存するのは得策ではありません。彼らは誰彼構わず勧誘していて、別にあなた個人に興味を持っているわけではありません。ただ単に一人でも多く勧誘しなきゃいけないから、まだ語学ができないあなたにも積極的に絡んでいるだけです。そういう人たちとばかり関わっていたら、コミュニケーションの感覚がおかしくなりますし、あなたに入信する気がないのなら関係性が続くわけもないのです。そんな人たちのために時間を浪費し、本物の人間関係を築く機会を目減りさせるのはひどく無駄なことだと思いませんか?


>たまに自分の考え方が伝わらな過ぎて、あれなんで学んでるんだっけ?とか、フリをしながら質問を続けることで自分で何してるかわからなくなります。

彼らにとってあなたは勧誘の獲物(カモ)なのであり、あなたを教化するつもりはあっても、あなたから何かを学ぼうとするつもりなどあるわけがありません。あなたが何かに気づかせよう・目覚めさせようなんてどんなに頭をひねったところで土台無理な話であり、相手側があなたを勧誘するのが無理だとわかったら捨てられるだけです。


>真理を知った上で宗教を学ぶ理由はなんですか?

そもそもにおいて信仰というのは純粋な愛によるべきものであって、理由を求めることは目的化・見返りを求めることにつながり、純粋な愛ではなくなってしまうと思います。一言でいえば理由は愛であり、あなたが純粋な気持ちで神仏を愛せないのであれば、他人に理由を聞いて無理に愛そうと思っても愛せるようにはならないと思います。

そして人を目覚めさせられる存在になるには、当然人より目覚めていなければなりません。あなたは何かあなたや僕がもう真理に到達しているかのような書き方をしているように見えてしまうのですが、僕らが生きている限り真の悟りというものは遥か先であり、だからこそ僕らは永遠に成長を目指すことができるのです。(悟りの完成とは、世界救済の完遂・地上天国の建設の完遂なのです)。

僕にしても「自分はまだまだだ」と心から思っているからこそ、謙虚な気持ちで様々な宗教を意欲的に学び、儀式などにも参加したりしているわけです。それが僕の「様々な宗教を学び続ける理由」の根源です。

創造主は我々が人間のままでは決して真の悟りには辿り着けないよう無限に悟りのステージを用意してくれているお陰で、我々は何度も輪廻転生を繰り返して人生を楽しませて貰えているのであり、それによって我々は真の悟りを求めて知識欲・経験欲を維持することができるのです。

あなたがもし「既に自分は真理を悟っている」と思っているのであれば、それは法華経における仮城宝処を本当のゴールだと勘違いしているということです。僕はまだまだ知りたいこと・経験したいことが尽きなくあります。まだまだ真の悟りからは遠いからこそ、まだまだ経験し学ぶ意欲を得る事ができるのです。もう既に究極の悟りに至ったと思ったらそれ以上の成長は楽しめません。

あなたは僕のnoteや質問箱をヒントに自分の経験を通じて悟りを進めて下さっていることと思いますが、僕がnoteや質問箱に書いている内容は、僕が既に悟らされていることの中でも1%にも満たないのです(エッセンスではありますが)。

そしてあなたは僕がそれぞれの宗教で教えを説いたり、洗脳されている人たちを目覚ませようとしたりしているなどと思っているのだとしたら、それは甚だ見当違いです。僕はひたすら学ばせていただいているだけです。そして僕はいわゆるカルト・宗教詐欺団体には近寄りません。僕が直接的に教えを説いているのはこの質問箱とnoteのみであり、日常において他人様に向かって直接的に「教えを説こう・目覚めさせよう」などということは全くしていないのです。

悟りというのは、知識として真理(正解)知るだけでは意味がなく、経験と実感を通じて(間違いと試行錯誤を繰り返して)悟ることに意味があるのです。創造主は全知全能ゆえにそのままでは何も経験できないので、無明である僕らを通じて経験をし、それによって想像=創造を豊かに広げているのです。

あなたはまだまだ若く、経験が足りず、真の悟りは程遠いのだ(みんなから学ばせていただこう)という謙虚な自覚を持たなくては成長しようがありません。そして「自分と考え方の違う他人を言葉で説得して自分と同じ考えに目覚めさせよう」などと考えるのは本来的に傲慢なことですし、もしやろうと思ってもきっとうまくはいかないでしょう。まず他人をどうこうしようとする前に、自分の覚りを前に進めることを考えて下さい。そして日々愛を実践するのみです。

人はみんな、経験したいことを経験するために生まれてきています。一人ひとりみんな自分がプレイヤー(主人公)なのです。人間は誰でも自分なりに失敗・過ちも犯して試行錯誤しながら納得しつつ前に進みたい生き物なのであり、頼んでもないのに横から答えなど教えられたくないのです。それを無理に教えようとするのは越権行為であり、相手がしたい経験(シナリオ)を妨害する行為なので、基本的にはやるべきでないのです。正解を教えることが正解ではないということです。創造主とその分身である相手を信じ、辛抱強く待ち、耐え忍ぶことも愛です。

僕らは情報(正解・真理)を集めるために生まれてきたのではありません。経験をするために生まれてきたのです。正解・真理に価値があるのではなく、それを求めて生きる我々の経験が正解・真理を価値ならしめるのです。

創造主は全知全能であり、全てを知っています。それゆえにそのままでは何も経験できず、何も想像できず、何も創造できないのです。だから創造主は我々人間として経験を積んでいるのであり、わざと愚かに生まれて想像性(=創造性)を発揮しているのです。知らない事を補う力が想像力なのであり、全知全能のままでは発揮しようがないのです。

そして「存在」というものは元々は真理しか存在せず、全ての答えが一つに限定された状態でした。それは究極に退屈で存在意義のない状態だったのです。創造主はそこで「愚かな者に智慧を求めさせ、想像性=創造性を発揮させるという原理」と「答えを一つに限定しないという原理」によって、つまり愚かな人間の想像を実現することによって、この世の想像=創造を豊かに広げ続けているのです。

どんな愚かな考えや行為(過ち・失敗)であっても、少なくともそれは創造主にとって創造の種になるのであり、正解(真理)よりも価値があるのです。もちろんそれは揺るがない真理というものが元々存在しているからこそですが。

創造主というのは意味そのものであって、その創造の全てには意味があり、意味のないものは存在し得ないのです。悪魔や、邪教・カルト・宗教&スピ詐欺などでさえも、ちゃんと存在意義があって、創造主より善悪を超えて創造されて存在しているのです。

そして全ての存在には個性があるのであり、それは欠点や過ちと不可分です。それは神仏や宗教であっても例外ではありません。完璧な宗教などがあれば、みんながそれを信じ、試練も何もなく、信心に意味も価値もなくなります。だから良い所を学び、悪い所は反面教師としなければなりません。

人間の存在意義というのは物語の中で生じるものであり、この世に善しか存在しなければ物語など生まれようがありません。だからこの世のあらゆる存在は陰陽二元的に創られているのです。

人間に存在意義を生じさせているものこそが宗教・神話(物語)であり、そこに登場する神仏たちキャラクターなのです。我々はそれらを謙虚に学び・讃え・奉仕し、彼らに救いを発動して貰ってそれらに存在意義を与えることで、我々も存在意義を得ることができるのです。そして自分とはどんな役割(キャラクター)なのか、人生(現在進行形の物語)の中で他者と関わる中で悟り、それを更新・具現化して行く中で、主人公として自らの存在意義を能動的に掴み取ることができるのです。それが僕が日々様々な宗教・神話を学び、神仏を讃え・奉仕し、儀式などにも参加する理由の核です。

ただそれだけが理由ではありませんので、一つに限定しようとしないで下さいね。こうやって信心の理由を考えてみても、やはり後付け感しかありません。僕はそういう理由ありきで信心を持っているわけではありませんからね。

もし一つの宗教を妄信し、または宗教・神話自体を嫌悪して学ばないなら、ただ無自覚に流されて生きるだけのNPCになってしまい、主人公にはなり得ません。日本人の多くは自分を無宗教だと考えていますが、それは常識教・唯物主義・資本主義教・悪魔教に無自覚なまま堕しているだけなのです。厳密な意味で無宗教を選択するということは不可能だということです。我々は人生というRPGの物語の中で生きているのですからね。人間にとって世界はわからないことだらけであり、何も信じないで生きるということはできないのです。自分の勝手な常識・思い込みを信じているということにも無自覚な人ばかりですが。

「自分は既に真理を悟っている」などと考え、宗教・神話について知る必要はないなどと考えることは、ナンセンス極まりないことなのです。世界・人生は物語(芸術)であり、どんな宗教・神話も、物語(芸術)としての尊さがあり、我々は尊重しながら学ぶべきなのです。それが己自身の存在・人生・世界に存在意義を与えるのですから。

それでは、あなたがカルト(邪教)・宗教&スピ詐欺から一刻も早く離れ、多くの宗教・神話を学び・讃え・奉仕し、他者との健全な関わり合いの中で日々愛を発揮し、人生を素敵な物語にして、己の存在意義を確たるものとし、存在として幸せになることを、自らも実践しつつ心から祈っています。


<関連質問>
なぜ創造主教を創らないのか?
創造主というのは存在のすべてであり、神仏(宗教・神話)も人間も森羅万象が創造主の偉大な創造物(物語・芸術)であり、創造主自身でもあるのです。神仏(宗教・神話)も人間も、自他全てに価値があるのであり、それを否定することは創造主を否定することになります。彼の創造した物語の中を思いっきり楽しませていただきましょう。

2025年1月6日月曜日

南無妙法蓮華経のお題目&ご本尊について

【質問】20代・男性 ペンネーム:翔太郎
真也さんのnoteやブログを、いつも拝読して勉強させて頂いています。

日蓮系の題目について質問なのですが、南無妙法蓮華経を唱える時は、本尊に向かってやった方が効果は高いですよね?このマントラのすすめの日蓮文字曼荼羅のpdfファイルを印刷して、それに向かって唱題しても良いのでしょうか?教えて頂けると幸いです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。とても光栄です。

※noteのコメント欄でのご質問でしたが、文字数制限が1000字と少ないので、こちらで回答させていただきました。

もし余程お金がないのであれば、最初は入り口として印刷物でも全然良いと思いますが、それで本当に気持ちを込めるというのはなかなか難しいのではないかと思います。ご本尊は日蓮系のお寺で購入してもそんなに高いものではないはずなので(高いものは買う必要がありません)、本当に信心があるのでしたら、通っているお寺で購入された方が良いかと思います。

マントラのすすめの本文中でご説明させていただいている通り、「身口意」の三蜜のうちの「身口(形)」も大事なものではあるのですが、「意(心)」が伴っていなければ、すべてが本末顚倒になってしまいます。だから「形をこのようにすれば効果が高い」みたいなことは、本質からズレるので僕からはあまり言いたくないのです。形を伝える役割は本職のお坊さんたちにあると思いますしね。

この件に限らず、僕がnoteや質問箱でお伝えしようとしていることは、常に「本質」なのであって、それを何かの効果(利益)を得るための「方法論」のように捉えていただきたくないのです。その本質というのは、人生というかけがえのない成長機会を与えられていることへの心からの感謝報恩であり、衆生みんなを救いたいという愛(菩提心)を実践することであって、「もっと利益を得る方法」ではないのです。

お題目にしても般若心経にしても、この人を救おうとするのはエゴでは?の質問者さんのように、本質がわかっていなければ、何百万回唱えようと無意味なのです。

日蓮が「南無妙法蓮華経さえ唱えれば救われる」かのように言ったのは、識字率の低い時代に衆生を救いに導くためであって、今の時代に教育を受けて育っている我々がそれを鵜呑みにしてただお題目口唱だけするのは「NPC意識」であり「主人公意識の放棄」なのです。

「南無妙法蓮華経(偉大なる法である法華経に帰依します)」という祈りに本気で「意」を込めようと思ったら、当然法華経を読んでその偉大さを理解し、本気で帰依する気持ちを持つべきなのは自明であり、本当に心からそのような気持ちを持っているのであれば、それは日々の行動(生き方)になって現れるはずなのです。その法華経から導かれる生き方というのはカルマの良化法に書いたようなことです。お題目口唱の最大のご利益はカルマの良化ですが、法華経の教えに基づく生き方をしていれば(誤読していなければ)カルマが良化されないわけがないのです。

法華経の神仏たちは偉大なので、お題目口唱という「形」だけでも、きっと素晴らしい現世利益がもたらされることがあるでしょう。ただそれは神仏がその力の顕現により本物の信心へと導いてくれているのであり、それを「ただお題目を唱えていれば現世利益が得られるのだ」と勘違いしてしまうと、いくら祈ったとしても相当長い間も何もご利益が得られない(ように思えてしまう)時期が続き、逆に不運に思えることが続いたりして、信心を試されることになるでしょう。そして多くの人はそこで挫折してしまい、自分の信心が自己利益を求めたエゴに過ぎないものであったことを自ら証明してしまうのです。何かの効果・利益(結果)を望んで祈るということは、すべてを与えてくれている存在に対して現状に不満を言っているようなものであり、「あれをするからこれを下さい」と交換条件を求めているようなもので、ナンセンスなのです。

祈りはあくまでも感謝報恩の心と菩提心(真理を求め、衆生を救おうという覚悟=主人公意識)がベースになければ本質からズレてしまいます。「ただ形(本尊に向かってお題目口唱する)だけ行って効果を期待しよう」というのではエゴの祈りにしかならず、引き寄せの法則と同じで、ご利益があるほど後で反動が来てしまうのです。

法華経要約・解説は読んでいただけていますでしょうか?どうかお題目口唱という「身口(形)」に「意(心)」を伴わせ、菩提心を起こし、「どんな結果も感謝して受け入れる」という覚悟で、ご利益など何も期待せずにただただ感謝報恩と衆生救済のために祈り、その思いを行動に表してみて下さい。それができる人が報われないなどということは真理に反することであり、有り得ないことなのです。「存在全体」に対して無償で貢献する人間に、「存在全体」からご利益がないわけがありませんからね。だから「こんなことをしても報われないのではないか?」などという心配(疑い)は要らないのです。そのような心配(疑い)は愛・信仰とは相反するものであり、せっかくの祈りがエゴ由来ということになって、神仏からの愛をうまく受け取れなくなってしまいます。お互いエゴより愛を優先し、ただただ愛を動機として日々祈り、全体利益に無償で貢献していきましょう。








2024年12月11日水曜日

カルマの良化法(身内のアル中問題)

【質問】年齢不詳・男性 ペンネーム:Tuki

僕の一家は幼少期からお酒の問題があり、酒に溺れて中毒になっている人がたくさんいます。何とか救えないものかと日々頭を悩ませていましたが、全ての問題は鏡であり、自身の成長のためにあると捉えるようになってからは、それもまた己の成長課題だと考えられるようになりました。

そもそも酒を悪として断定しているから酒を悪く思うような世界に追い込まれているのではないか?と。そしてもし全てを成長の課題として感謝できるかを問われてるのであれば、世の物事はポジティブで取るかネガティブで取るかが大事で、そこが問われているのではないかと。結局、菩提心が『核』であり、そこが確立していればならないのではないかと思うようになりました。

酒=『それによって家庭が壊れるから酒は悪』ではなく、酒によって学ばなければいけないものが浮き彫りにされたと捉えた時、そもそも酒は菩提心や信心の欠如を浮き彫りにするためではないかと僕は感じました。菩提心や信心が根底にあれば、酒を無理に辞めさせなければならないようなこの世界線は存在しないのではないかと。

今の僕のレベルではアル中を救うことは出来ていません。勿論諦めず日々悟り実践あるのみと考えていますが、依存を辞めさせることの難しさを痛感しています。

【回答】
ご質問ありがとうございます。つまり「どうすれば身内のアル中の人たちを救えるか?」「どうすればカルマを解決できるのか?」というご質問だと解釈してお答えさせていただきますね。

僕にも家族や親戚にそのような重いカルマ(精神病の家系)があり、本当に僕自身のこととして回答させていただきたいと思います。我々人間というのは、どこかにカルマが軽い人がいるような幻想を抱いて「なんで自分だけこんな・・・」と被害者意識に陥りがちなのですが、カルマというのは人生RPGのシナリオですから、カルマが軽い人間など本当は存在せず、その人なりの苦労があるんだと思います。実際、よく知る人のカルマというのは自分と同じぐらい深いはずで、カルマが軽く見えるのは単に相手を深く知らないだけだったりするのですね。誰だって自分や身内の恥にもなるようなことはそうそう他人に言うわけないですし。

ですので、今回は質問者様と同じようにカルマ(人生の成長課題)に翻弄されてどうすべきかわからず、行き詰まって苦しんでいる多くの「魂の同志たち」のために書いていきたいと思います。決して他人事のように思わず、主人公である読者様個人に向けて伝えているのだと思って読んでいただけると幸いです。

>もし全てを成長の課題として感謝できるかを問われてるのであれば、世の物事はポジティブで取るかネガティブで取るかが大事で、そこが問われているのではないかと。

>そもそも酒を悪として断定しているから酒を悪く思うような世界に追い込まれているのではないか?と。

自由意志の仕組みと存在意義でご説明させていただいている通り、行動の選択より先んじて良い解釈(考え方・世界観・哲学)の選択が大事なのは確かです。ただしカルマ(因果)というのは人生というRPGのシナリオ・設定であり、いくら主人公次第でシナリオ(ルート)を選ぶことができるといっても、大枠での伏線や基本設定まで変えられるわけではないのです。そこを変えられたらカオスになって物語が成立しなくなります。そこを誤解されないようこれからはカルマの「解決・解消」ではなく「良化・選善」などと書くようにします。

悪いカルマの解消法に書いた通り、人生は魂の成長プログラムなのです。カルマというのは自分という主人公個人だけにアレンジされて与えられた成長課題なのであり、難しい課題はよりレベルの高い魂に与えられるのです。ですからあなたの人生のカルマが重い(苦難が多い)のであれば、それだけあなたの魂のレベルが高いということであり、まずそこに誇りと感謝の気持ちを持つべきなのです。生徒が絶対に乗り越えられない課題を出しても成長するわけがないですから、あなたに乗り越えられない課題というのは与えられていないのです。逆に簡単過ぎても成長するわけがないですから、課題は難しいのが当たり前なのです。

自分に与えられた課題が難しいからといって、自分を他人と比較し、まるでラクをして楽しく幸せに生きている人がいるかのように羨んで(幻想・罠)被害者意識に陥るのは創造主の愛に反することであり、それはカルマを悪化させる最たるものです。本当の幸せというのは苦労を乗り越えずには得られないものなのです。

あなたのおっしゃる通り、菩提心は悟りの本当の意味でのスタートであり、それが核であるのは間違いないですし、ポジティブな解釈・感謝も大切です。しかしだからと言ってただそれだけで人生のカルマ(課題)が全てが解決するわけではありません。そんなに簡単だったら物語がすぐに終わってしまいます。

確かに真理というのは悟るほどに幸せになりますし、過去のレベルの問題は問題にならなくなるのですが、同時により難易度が高い問題への挑戦権も得ることになるのですから、「悟るほど幸せになる」というは「ラクができるようになる」ということではないのです。苦労を乗り越えて成長し悟っていく過程に本物の幸せがあるのですからね。

人生は魂成長のプログラムなのですから、ラクをしたり逃げたりして幸せになれるように作られているわけがないのです。逃げ道はすべてトラップであり、先は必ず行き止まりになっているのですから、早めに「逃げ道など最初からないのだ」気づいて早めに腹を括って立ち向かった方が、早く幸せな人生になります。逃げると学校の追試験・補講のように雪だるま式に大きくなりながらどこまでも追いかけて、楽しいはずの人生という夏休みをどんどん目減りさせてしまいます。

ただそういう「逃げることで逆に苦労する」という経験も人生には必要なもので、決してムダにはなりませんから、あまり「絶対に逃げてはいけない」と自分を追い詰めて考えないで下さいね。RPGで自分のレベルに相応しくない相手と出会った時や本当に弱っている時は逃げが賢明なのと同じです。もちろんそれは「今はダメでもレベルアップしていつかは必ず乗り越えてやろう」と成長方向にベクトルを向け続ける覚悟がなければ永遠にクリアできないという点でも同じなのですが。

ゲームは真剣になるからこそ楽しめるものなのですが、さりとて深刻になってしまっては楽しめません。人生というゲームもあくまで楽しむために与えられているのですから、深刻に悲壮感を漂わせながらやるべきものではなく、真剣に取り組みながらもどこかで「しょせんはゲームなんだから」という突き放した感覚を持っておくこともまた大事なのです。それはエゴ(我欲・保身・虚栄)による執着によって人・世の中を救おうとせず、悟りから遠ざかって愛を失わないためでもあります。ただそれはあくまでも最後まで真剣にやり切ろうという覚悟(菩提心)ありきの話で(般若心経もそこを伝えようとしていたのです)、投げやり(魂の成長放棄)はダメですからね。

そして僕らが「永久に苦労し続ける宿命」とはいっても、僕らの肉体も魂も金属製品のように疲労し続けるわけではなく、毎日栄養を補給し休憩し睡眠をとって元気を養いつつ、何かの節々には達成感も味わいながら幸せに成長して行けるのですから、「この苦しみはいつまで続くのか」みたいに考えて絶望しないで下さいね。「苦労(成長)そのものを愛そう」と腹を決めれば腹が据わります。スポーツのトレーニングと同じで、苦労は受動的ではなく能動的・積極的にすることで楽しくなれるものなのです。

僕らは永久に成長を続けることが宿命づけられた存在であり、永久に成長課題(苦労)が与えられ続けて永久にラクはできませんし、将来ラクをしようという動機で努力しても絶対に報われないのです。それは宿命ですから受け入れる以外にありません。「若い時の苦労は勝手でもしろ」と言われますが、「若い時の」という一言で全て台無しになっているのです。「永久に」苦労は買ってでも(能動的に)しましょう。

僕らの魂にとって、この人生という「愛と成長の物語」の経験機会が与えられず、永遠に存在だけが続くことの方が地獄です。もしあなたがその「魂の地獄時代」を思い出せれば、今人生を与えられていることに心から感謝の気持ちが湧くことでしょう。逆にその感謝の気持ちがなく被害者意識で自殺に逃げるような人の魂は、何も経験できずに存在だけが続く無間地獄のような状態に戻されるのが必然なのです。それは自殺するとどうなるか?に書いた通りで、僕らはそちらの世界を選ばなかったからこそ今の人生を生かせてもらっているのです。

悟りとは何か?に書いた通り、究極の真理・悟りのゴール(彼岸)はワンネス(すべての存在は一つ・私=あなた)ですが、それは航海における北極星のようなもので、僕らが生きている間にそこに辿り着けるわけではありません。そこを目印として人生という航海を渡る過程(経験)に意義があるのであり、人それぞれに与えられる経験(ルート・シナリオ)が違っていて、お互いにその物語をシェアし合えるからこそ生きる意味があるのです。

人生が愛と成長の物語なく、個性の確立なく、いきなりワンネスに還ってしまっては我々が生まれて来た意味がありません。「自分はどんな存在か?(個性)」というのを、人生経験を通じて(主に人間関係と自己表現から)悟り、試行錯誤しながら更新して確立していくことが大事なのです。それがお互いのカルマを乗り越える(シナリオを更新していく)ということであり、自分も他人も許し・尊敬し・感謝し・愛せるようになっていくことであり、己の使命を果たすことなのです。僕らは死ぬと魂が純粋な概念・思念へと還るのであり、その次元において僕らは「自分とはどんな存在か?」を更新できません。僕らはそれを更新するためにこの現象世界に生まれて来ているのです。それができることにまず感謝の気持ちを持たなくてはいけません。

エゴ(欲)とは何か?に書いた通り、僕らの次元において愛とエゴは表裏一体のものであり、決してエゴを失くすことはできません。エゴを失くそうとするのではなく、それを課題として乗り越えること、つまり己の執着を捨てて節度を知り、周囲の人のエゴを自分より少しだけ優先して慈愛によって満たそうとすることです。それが連鎖すればこの世界のエゴの連鎖・肥大・暴走が止められてみんなが救われるのです。それがいわば中道であって、決して単純な自己犠牲(自分への愛の不足)やエゴを滅することが悟りの道ではないのです。


究極の目標は、我々の魂が全ての存在との許し・和解を成立させて愛せるようになることであり、この全てが陰陽二元的に創られた世界を愛一元(創造主意識)に還していくその過程に悟りの道があるのです。

あなたが既に悟られている通り、カルマは愛によって成長(悟り・幸せ)を願って与えられているシナリオ・設定ですから、それを感謝して受け取って乗り越えていくべきで、カルマの存在を被害者意識・不平不満・恨みなどで返してはいけません。自分という主人公だけに与えられているオリジナルのカルマ(シナリオ・設定)があるのですから、それを他人(NPC・他のログインプレイヤー)と比べて「何で自分だけこんな・・・」みたいに不平不満を持つことは、必然的に自分自身のカルマを悪化させるのです。


ただまだあなたの腑に落ちて理解されていないように感じられることは「全ての魂が同源・同一であり、それは出会うみんなが同一人物であるが如くであり、自分が相手と全く同じ条件で生まれ育ったら、必ず同じ人間になって同じ考え方・行動をする」ということです。

本来的に「他者」というのは存在せず、本当は同一の存在(ワンネス)であるにも関わらず、僕らが孤独を感じなくて済むように魂が分離されているのです。そしてそれぞれが主人公として人生という愛憎劇・成長の物語を楽しめるように、壮大な仕組みでもって成立させられているのです。

それでも本当は同一の存在なのであり、自分も相手も同じように愛することこそが魂の成長に繋がるのです。これはとてもレベルの高い話ではあり、特に若い頃というのはみんな分離意識が強く、受け入れられないのは仕方のないことなんですけどね。僕自身もいまだにすぐに忘れて失敗を重ねていますし。

人が往々にして他人の話を聞いても「自分だったら絶対そうしない」などと考え、相手に同情できずに責めたりしてしまうのは、単なる想像力の不足であり、それは人間に与えられた無明(愚かさ・成長課題)であって、僕らはそれを乗り越えて相手に心から同情し愛せるように成長して行かなければならないのです。

あなたが出会う人の正体は、全員が創造主の分身なのであり、最初から答えを知っていながらわざと忘れて愚か(無明)になっていて、人生経験(失敗・試行錯誤・成長)を楽しみつつ、無自覚ながらあなたに何か大事なことを覚らせようとしてくれているのです。例えあなたにとってどんなに嫌な人・愚かな人で、アル中などであっても、それはあなたの愛と成長の物語を紡がせるために無償で与えられた共演者であり、尊い存在なのです。人生というRPGにおける縁というのは偶然ではなく、楽しませるために偶然だと思わされているだけで、ちゃんと一つ一つの出会いに理由(クリエイターの意図・愛)があり、すべてが伏線上の必然なのです。だから目の前の人を無条件かつ全力で愛するというのはとても大事なことなのです。

カルマというのは人生というRPGのシナリオ・設定であり、それは一筆書きのようなものであって、どこかに独立して存在している「他人のカルマ」というのは存在しないのです。我々の魂は本来同一の存在なのであり、すべての存在がお互いに補完関係にあるのですから(諸法無我)当然です。そして自分の人生においては、出会った人(登場人物)全員のカルマが、主人公たる自分を中心として繋がっているのであり、それが自分の人生という物語を形成しているのです。

あなたは自分を主人公とする主観的世界(モナド)の主であり、その中(心の中・認識世界)に存在する住民は本人のコピーAIのようなものであり、その全員(僕も含めて)があなたのために存在していて、無自覚にその伏線通りに動かされているNPCなのです。

だから相手(伏線通りに動いているだけのNPC)側を直接変えようとすることは、自分という主人公に与えられている物語の伏線の無視であり、それは絶対にうまく行かないようにできているのです。人生はあくまでも自分という主人公の成長の物語であり、そのカルマ(課題)をクリアするには、直接相手側を変えようとするのではなく、常に自分側が成長して自分の物語を進めなければならないということです。僕自身もそれを知っていながら、実際に人と接するとすぐ忘れてしまうんですけどね。答えはいつでも「誰も何も悪くないけど、自分が何とかしなければ(成長しなければ)どうにもならない」です。

あなたの「身内にアル中が多い」というそのカルマ(課題・シナリオ)を良化できず行き詰まっているのは、その人たちが悪いからではなく、だからといってあなたが悪いからでもなく、あなたが主人公として回収していない伏線があるからであり、もし改善するどころか悪化しているように感じられるのであれば、それは人生という映画の監督(創造主)から「早く伏線を回収しなさい」とケツを叩かれているということなのです。

あなたは「身内のアル中問題」という他人側に現れている一つの現象だけに着目し、それを「解決すべきカルマ」と捉えているようですが、主人公であるあなたにはもっと直接的に自分に起因するカルマ(課題)があるはずで、またそれを乗り越えていないことによってあなた自身の身に起きている負の現象があるはずです。なのに「身内のアル中問題」以外をまるっと無視して書いていないのは、あなた自身が自分の人生の問題を全部親とか身内のせいにして、自分自身を起因とするカルマ(課題・欠点や過ち)から目を背けているからではないでしょうか?

人生というRPGは、大枠のシナリオや基本設定を動かせないというだけで、基本的に全てが主人公である自分の選択次第に創られています。だから本物の主人公意識というのは、過去・現在・未来のすべてが主人公である自分の選択に起因していることを受け入れる覚悟なのであり、それを全て親や世間など自分以外のせい(=設定側のせい)にしては、せっかく主人公として自由意志(選択権)を与えられた意味がなくなり、そのような被害者意識が自分自身を「ただ設定通りに動かされるだけのNPC」にし、自ら人生を自己効力感のない「クソゲー」にしてしまうのです。

もちろんあなたはきっとその身内の問題によってたくさん辛い思い・嫌な思いをされたのだと思いますし、それを「許そう」とする努力自体はとても尊いものだと思います。しかし「この人たちのせいで自分は・・・」と自分の人生の問題を全部他人のせいにする被害者意識がベースにあると、いくら相手を許そうとしてもそれは本当の許しにはならないのです。本当の許しというのは、相手と目線を完全に同じにした上での(自分と相手を同一人物として考えた上での)心からの同情がベースになっていなければ成立しないからです。

カルマというのはその解決に順番(シナリオ・伏線)があるのです。己の問題(欠点・過ち)と真剣に向き合い、受け入れ、許し、乗り越え、愛し、成長していく過程を飛ばして逃げたままで、自分を「無辜(むこ=イノセント)の被害者」の立場に置いて「こんなアル中の人より、それを許そうとしている自分の方が立派な人間である」というような上から人を許そう・救おうとしても、それは本物の慈愛ではなく逃げなのであり、自分と同じように問題(欠点・過ち)を抱えて苦しんでいる人たちを心から許し、尊敬し、感謝し、愛することによって救うことはできません。菩提心(主人公意識)というのは、被害者意識(NPC意識)を持ったままでは本物になりようがないのです。

「鏡の法則」という本では、「自分と親との関係を見つめ直し、生み育てて貰ったことへの感謝を伝えたら、自分の子供が学校で受けていたイジメがパッタリとなくなった」「それからどんどん自分と家族の人生が好転していった」という例が紹介されていますが、本当にカルマというのは人(プレイヤー)の目線ではどこでどうつながっているのかわからないものなのです。

僕はまだ会ったこともない他人のカルマ(課題)まで見えるような三昧は得ていませんので、あなたが目を背けているカルマ(課題)が何なのかは全くわかりません。そもそも「自分のカルマ(課題=人生のテーマ)は何か?」を見つけること自体が本人に与えられた課題なのです。カルマがどこでどうつながっているかはなかなか見えないものだからこそ「自分のカルマは何か?」を自分で考えながら一つ一つ試行錯誤して乗り越えていくところに魂の成長があるのであって、それを直接的に他者(NPC)から教えられては魂の成長には繋がらないのです。

ただ己のカルマというのは、自分にとって一番痛くて向き合いたくないところにあるだけで、本当は自分自身が一番よくわかっているものなのです。それと向き合いたくないがゆえに「自分のカルマがわからない」と思い込み、「自分は目を背けている」と認識することからも目を背け、何か悪いことがあっても偶然のせい・他人のせいにして自己防衛・自己正当化しながら逃げてしまっているだけで。

しかし僕らは同一人物のようなものですから、自分が一番痛くて向き合いたくないカルマ(課題)というのはだいたいパターンが決まっているのです。

■自分が本当にやりたいこと・使命(夢)から逃げ、保身のために惰性で生きている
 怠惰・臆病によって転機(チャンス)を逃し、せっかく創造主から用意されている
 未来の素晴らしいシナリオを自ら拒否してしまっている
■誰かを恨み、憎み、許せていない・愛せていない 見下したり責めたりしている
■恩を仇で返したり、自分が害してしまった相手に謝罪・贖罪できていない
■他者評価依存で自己嫌悪が強く、自分イジメをしている(自分自身への愛の欠如)
■被害者意識を持ち、厭世観が強く、信心と感謝報恩に生きていない 慈愛が足りない
■自分の欠点や過ちを乗り越えようとせず、運命・偶然や他人のせいにして呪っている
■身内にべったりで、優れた人・苦手な人・新しい人との出会いを避けている
■何かに依存している 引きこもっている(傷つくことから逃げている)
などです。

まぁ他にも結構あるのですが、すべて「魂の成長拒否=伏線の回収拒否」なのであり、分けて書くのが難しいほど全部繋がっているのです。

で、あなたに心当たりは・・・ないはずがないですね?僕らは同一人物のようなものなんですから、当然僕にもあります(だからお互い励まし合って乗り越えて行きましょう)。

こうやって回答をしている僕自身もまだまだ成長過程にあり、常に己のカルマを乗り越えようとしているのです。くれぐれも「自分は完全に悟っている」などと上から目線で何かを偉そうに教えようとしているかのようには誤解しないで下さいね。僕も他人様に言うだけのことはやっていますが、もちろん完璧にできているワケではありません。もし完璧にできたら成長要素がなくなって幸せを感じることができず、話が終わってしまいますからね。

かつての僕は完全に自業自得で不幸になっていながら、特別な努力もなく突然悟りを与えられて幸せに導かれたので、僕を幸せにしてくれたその悟り・導きを無償かつフラットな目線でシェアすることで、それを受け取ってくれた人たちもまた幸せに導かれるように努めているだけなのです。僕の目的はあくまでも人を幸せに導くことであり、決して偉そうに誰かの問題点をあげつらって責めて傷つけたいわけではないのです。

魂成長プログラムである人生において「魂の成長拒否=伏線の回収拒否」が不幸に導かれるのは当然(因果応報)であり、それは決して創造主の意地悪ではなく、自発的に気づいて成長するように導いてくれているのです。この世界に偶然は一つもなく、すべてが必然であり、カルマ(課題)を他人と比べて不平不満を言ったり、偶然のせいにして逃げたり、自分以外のせいにして被害者意識に陥っていては、その解決には導かれないのです。

<霊的カルマの解決法>
あまりにも重く解決が難しいカルマを抱えている場合、大事なことは自力のみで解決しようとしないことです。それは信心への導きだと考えられるからです。神仏をすがり、神仏への愛を示し、心身の清潔を日々保つようにしてみて下さい。僕からどこの宗教ということはお勧めしませんが、どこかで浄霊は一度受けてみた方が良いと思います。明らかに怪しい宗教は避けつつ、ご自身が縁を感じる宗教を頼ってみて下さい。これについてはnote記事を削除してしまったので、別記事で詳しくお話しさせていただこうと思っています。

アル中の人との接し方=人との接し方・生き方
ここまでを全て踏まえた上で、具体的な「アル中の人との接し方」を書いておきますね。
真理というのは万能であり、これから書くことはアル中の人だけでなくあらゆる人との付き合い方・生き方に共通する真理なので、「人との接し方」「人としての生き方」と一般化していただいても全く差し支えのないものです。もしあなたがここに書かれていることをあらゆる人間関係に応用して実践し、生きる指針として下さるのであれば、みるみる人生のカルマが良化していくことでしょう。

さて、お酒は大抵みんなが飲んでいるものなのに、アル中になる人とならない人がいます。違いは何だと思いますか?・・・それはアル中になる人たちが、人生の問題(カルマ)への対応策として「問題そのものから逃避しよう」という意識が強いことであり、たまたま身近にあって手軽な逃避手段がお酒だっただけで、もし身近にドラッグがあって手軽に手に入っていたらきっとドラッグ中毒になっているのです。そしてそのような逃避(成長拒否)がカルマを悪化させることは、ここまで再三述べて来た通りです。

人は分離意識(魂の光を分ける無明の闇・愚かさ)によって、相手の問題を「アル中」のように恣意的に具体化することで「自分は違う」「相手の問題であって自分の問題ではない」と考えてしまいますが、自分が出会う人の問題というのは(抽象度さえ上げれば)必ず自分にも当てはまるものなのです。

だから抽象度を上げて「鏡の法則」に当てはめてみれば、やはりあなた自身もカルマから逃げているために、そういう逃避(依存)傾向が強い人との出会いを通じて、拡大鏡のようにあなた自身の姿を見せられているのではないかと思います。

酒にしろドラッグにしろ「自分が自分であること」に耐え難くなって「自分」というものの経営権を悪しきスピリットたちに明け渡すものですから、依存症になっている人たちはもう主人格による自我のコントロールを失っているのです。このあたりの話は憑依現象(霊障)についてに詳しいです。

その人の主人格は酒やドラッグが悪いことぐらい十分わかっていてやめられないのですから、「やめた方がいい」などと言ってもやめるわけがなく、心が反発して逆効果にしかなりません。その人の主人格が本気で心の底から「やめたい」と自発的に思うように導けなければ、例え一時的にはやめさせられたとしても、ただやりたいのを我慢しているだけでしかなく、我慢というのはマグマのように蓄積するものですから、いずれ爆発するのが必然なのです。

人生は自分をプレイヤー(主人公)とするRPGであり、それは自分なりの考えに従って過ち・失敗を繰り返し、試行錯誤して納得しながら前に進むのでなければ楽しくないですし、魂の成長にも繋がらないのです。

だから人間(プレイヤー=主人公)の心は、自分がプレイしている最中に脇からああだこうだと聞いてもないのに答えを言われれば、無意識に反発してしまうように創られているのです。(自分で考えることを放棄して他人の考え・常識に依存すればNPCになってしまいます)

人の「感情」の重要な存在意義の一つは「自由意志」を価値ならしめることにあり、それゆえ誰かに選択を強制・強要されて自由意志が犯されそうになると、必ず反発するようにできているのです。人は他人から正しいことを言われれば言われるほど傷ついてその人を嫌いになり、嫌いな人の言うことには逆らいたくなるのが人のサガなのですから、こちらの言うことが正しければ正しいほど相手をより間違った方向に進めてしまうのです。

だから己の劣等感解消のために「自分は正義である=価値がある」と考えるような「独善的で愛のない正論吐き」というのは害悪でしかなく、また「間違っている人はいくら傷ついても構わない」と考えるような無慈悲な正義感(エゴ)の連鎖が世の不幸の元凶なのです。

もし正解(真理)に価値があるのなら、最初から全ての答えを知る全知全能の創造主が僕らに人生を与える意味がありません。経験(失敗⇒試行錯誤⇒成長の過程)とそれに伴う感情が、答え(真理)を価値ならしめるのです。そして自分の経験・感情をみんなと共有し、同情・共感し合いながら(慈愛)、一緒に物語を紡いでいけることこそが人生の価値なのです。だからこそ僕らには人生が与えられ、わざと無明(愚かさ・分離意識)が与えられているのです。

それを踏まえ、以下の三カ条が創造主直伝の人の導き方を伝えておきます。これはとても大事なことなので、目に付くところに書き写しておいて下さい。

<主人公救世三カ条>
①指摘せず気づかせる 
 正しさより思いやりを優先し、相手を傷つけない 
②教えず覚らせる
 自分の愛の実践・成長を通じて背中で語り、相手に覚らせる
 例え話でヒントを出し、答えを相手に言わせる
③自らの学びとする 
 相手の問題(愚かさ)は、創造主から主人公である自分へのメッセージ
 相手のカルマは自分のカルマの鏡

世の問題(カルマ)というのは、突き詰めればすべからく「愛の不足」が原因であり、逆に言えば全ての問題の解決策(カルマの解決法)は「愛」なのです。僕らは「愛とは何か?」を経験的に知るために生まれてきているのですから、当然と言えば当然です。

反省してはいけないに書いた通り、依存症など「悪いことがやめられない人」というのは、自尊心が下がって「どうせ自分なんて・・・」と自分イジメをしていて(自分への愛不足)、他人のことも思いやれない(他人への愛不足)から孤独で、それゆえに悪いとわかっていることがやめられず、ますます依存対象に逃げるしかなくなっているのです。だから無理やり止めさせようとしても、ムダどころかますます自尊心を下げて逆効果になるのです。

だから相手(ゲーム仲間・人生の共演者)がプレイヤー(主人公)として自ら間違いに気づいて、人生というゲームを勇気を奮い起こして良い方向に進めるように、己の愛によって導かなければならないということです。

そこで相手に「自分に自信を持ちましょう」などと言って相手側を変えようとしても、相手の自尊心が上がるわけがありません。結局、主人公である自分が愛を実践して自他に与え、相手の自尊心を自然と上げられるように成長して行くしかないのです。

相手は自分自身の鏡なのですから、自分自身がカルマから逃げていたら愛も勇気も与えられるわけがなく、文字通りお話(物語)になりません。あくまでも変わるべき(成長すべき)は主人公たる自分なのです。

だからまずは自分自身が「出会った誰に対しても決して差別したり見下したりすることなく、誰かと比較することなく、欠点や過ち・罪や恥を許し、かけがえのない存在として尊敬し・感謝し・愛する」ということを実践し成長することです。そうすればあなたも自分自身のことを他人と比べずに許し・尊敬し・感謝し・愛せるようになります。

「愛を実践して相手に与える」というのは、恋人でもない人にいきなり「愛してるよ」などと言ったり、あれこれわざとらしく親切にして世話(おせっかい)を焼いたりすることではなく、おべっかを使って相手におもねり褒め倒すことでもありません。そういうのは「嘘」の含まれた「演技・アピール」であり、無理があるのでお互いに気持ちが悪くなるだけです。それは愛の表現として適切ではありません。

愛を表現する(=相手の自尊心を上げる)のに必要なことは、以下のたった2つのことです。

「1⃣ 心からの笑顔で挨拶すること」
まず、誰かに会ったら例外なく相手が笑顔になるまで笑顔をやめないことです。最初はぎこちない作り笑いになったとしても全然構いません。

ただ本当に大切で難易度が高いのはこの「心から」という部分です。もし相手を心から許し尊敬し感謝し愛せていれば、それは否応なく態度に反映されます。逆にもし心の中でほんのちょっとでも「この人嫌だな・会いたくなかったな」とか嫌ったり見下したりするようなネガティブな感情を持っていれば、いくら態度だけを取り繕おうとしても、会った時の一瞬の表情に出て、お互いに「ひょっとして嫌われているのでは」と疑心暗鬼に陥るのです。そして好きな相手から嫌われて傷つかないように、相手の欠点や過ちをあげつらって「こちらの方が相手を嫌っているのだ」と考え、それもお互い態度に出たり共通の知人から伝わったりして関係性が劣悪になるのです。

そのように何事も心が伴っていなければ逆効果なのであり、だいたい人が心を病む原因というのも、そのように「自分が心から思ってもないことを、無理やり自分自身に押し付けて強制すること」にあるのです。

我々はみんな同一人物のようなものであり、我々の統合意識(≒深層心理)というのは一つであって、そこに対して嘘や隠し事やごまかしは一切通用せず、全てがバレバレなのです。そして人生というRPGはその全てを知っている統合意識(創造主意識)によって厳格なルール・設定を元に運営されているのです。だから自分の演技を上達させて態度を取り繕うのではなく、相手を心から許し愛せるように・統合意識(創造主意識)から愛されるように、自分の考え方のほうを変えることが大事なのです。

最初は無理のある作り笑顔だったとしても、心が伴ってくるうちに段々と本物の笑顔になっていきます。そうして自分が無条件に人を愛せるようになり、出会いそのものが嬉しくなってくれば、誰と会っても自然と笑顔になるのです。

その心からの笑顔よって相手は「自分は存在を肯定されている」「愛されている」という無言のメッセージを受け取るのであり、それが相手の自尊心を上げ、自ら悪癖(依存症)を断って前に進む勇気を与えるのです。

「この人を大切にしたい・裏切りたくない」という本人の思いが依存対象より強くならなければ、依存というのは断ち切れないものなのです。「どうせ自分なんて(誰にも愛されない)」と思っていたら、退廃的な行動に歯止めが効かず、依存を断ち切れるわけがありません。

人は自尊心を上げてくれる人を愛し、下げる人を避けるようにできているものなのです。例えどれだけ相手がこちらのことを悪く思い、例えどんな悪い態度を取ろうとひるむことなく、ただただ愛すること(許し・尊敬し・感謝すること)が大切です。どんなに嫌って意地悪をしてもあくまでも自分を愛し抜こうとする人間を嫌い切れる人などいないのですから、こちらが人を愛し抜く覚悟さえ持てば、人から嫌われることを恐れ相手の顔色を伺ってビクビクする必要などないのです。そうすればいつでも自信満々で堂々としていられます。そして相手は自尊心の高いこちらに愛されることで、相手側の自尊心も自然と上がるのです。相手は自分の鏡ですから、それ以外にうまくいく方法などないと思って下さい。

このあたりの話は誰でも自信満々になれる方法に詳しく書いています。

あなたが出会う人はみんな、天から派遣されて無償であなたが主役の人生に出演してくれている共演者であり、創造主の分身であり、あなたの愛と勇気が試されているのだということを忘れないで下さいね。

「2⃣ 相手の話を一切否定せず、肯定的・同情的・共感的に聞くこと」
特に男性は「問題解決型」の脳をしていて、「どうやったら問題を解決できるか?」という姿勢でしか人の話を聞けない傾向があります。だから「気持ちを理解し欲しい」相手に対して余計なアドバイスなんかして、相手を否定し傷つけることになってしまうのですね(僕もいまだによくやります)。


人の話を聞く時には「相手に心から同情・共感する(同じ経験と気持ちを味わう)」ということに主眼を置いて目的化して下さい。相手の話を一切否定せず、余計な提案やアドバイスなどもせず、ただただその気持ちに寄り添うのです。そうやって相手と経験・感情を共有して下さい。そうすれば相手は自ら問題に立ち向かう力を得るのです。問題は解決しなくていいに書いた通り、そこにこそお互いの魂の成長があるのであり、それこそが愛であり、人生(他者が存在すること)の価値なのです。


例え今現在において相手の気持ちがよくわからなかったとしても、一生懸命わかろうというベクトルで努力することです。その思いだけでも相手に伝われば、とりあえずは大丈夫なのです。

しかし特に負けず嫌いな人は「相手の話を肯定的に聞く」というのを「自分が相手の意見に従うこと=負け」みたいに考えてしまいがちで、相手の一つの意見がただ気に入らないというだけで心が反発し、自己主張をして相手を否定し、お互いにお互いを否定し合ってケンカになって嫌い合うようになることが多いです。

日常会話というのは裁判ではないのですから「どっちが正しいか」なんてことはどうでも良いことなのです。大事なことは「同情・共感(愛)」の方であり、それは「相手と同じ目線に立って同じ経験・感情を共有する」ということなのです。

相手の気持ちに同情・共感したからといって、こちらが相手の意見に従う必要は全くありません。だから相手と意見が違ったとしても(相手が明らかに間違っていたとしても)相手を否定して傷つける必要などないのです。それなのにただ「意見」が違うってだけで、お互いに「存在」まで否定し合って、気分を悪くしながら関係性を壊して愛を失うのはバカげたことであり、もしそれを純粋に損得勘定(エゴ)で判断したとしても大損でしょう。

討論というのは正論を盾にしたエゴ(正義)とエゴ(正義)のぶつかり合いであり、例えその場で相手を言い負かして溜飲を下げたとしても、ただ愛を失うだけの「勝者なき虚しき戦い」なのです。そのように自分や相手に対する愛(思いやり)よりも正義(何が正しいか・悪いかの判断、建前)を優先して相手を責めて傷つけ、鏡のように内心では自分自身を責めて傷つけてしまうことが、人間の不幸の元凶(無明・愚かさ)なのです。


相手の意見・考え方がどれだけ間違っていて気に入らなくても、「あなたはそのような経験をしてそのような考え方になったのですね。私は同じ経験をしていないのであなたの考え方には同意しかねますが、あなたがそのような考え方になる気持ちはとても良くわかります」という感じで(あくまで心の中での話で、これを相手に直接言う必要はありません)心から同情・共感し、それを態度で示すのです。心から思っていることならわざわざアピールしなくても態度に表れますけども。


相手と目線を同じにするには、あらゆる想像力を駆使し、相手ことを自分と同一人物(自分自身の過去世や未来世)であるかのように考えることです。このあたりの話は自分と他人の愛し方などに詳しく書いていますが、とても大切なことです。


アル中の人は確実に鬱傾向にあり、霊障に自我を犯されてエゴに埋没し、被害者意識と自己嫌悪と厭世観に満ち、ネガティブで傷つきやすくなっていて、またその自覚もないのです。そしてこちらが一番傷つくことや腹が立つことを(霊障が見抜いた上で)ピンポイントで言ってくるわけですが、それは創造主がその人を使って主人公であるあなたの愛を試しているのです。それに対していちいち傷ついて腹を立てて反論して相手を否定し返していたら戦争ループ状態になり、ネガティブの波動共鳴が起きてどんどん関係性が破滅に向かってしまいます。それでは天から "Mission Failed" ということにされてしまいます。
霊障というのは智慧の光を覆う無明の闇(愚かさ)ですから、それに憑りつかれて鬱になっている人というのは、本当にどうしようもなくネガティブで愚かな考え方をしていて、こちらが「問題解決型」の姿勢で聞いていると、心底呆れて腹も立ってきます。鬱の人はそのネガティブで愚かな考え方を自分では絶対に正しいと思っていて、こちらが何か意見を言うだけでも「自分は存在を否定された」と感じて傷ついてムキになって反論してきます。そうして傷つかないようますます人を避けてどんどん孤独になってしまうのです。

だから鬱の人を相手にする時は本当にただ聞きに徹して、できるだけ自分からは発言しない方が良いです。決して相手を変えようとせず、自分が誰に対しても同情し愛せるように成長していくことです。そのために与えられている試練なのですから。

すべてはあなたという主人公個人に対して与えられているカルマ(課題)なのだということをくれぐれも忘れないで下さい。腹が立つことや傷つくことを言われても、自他への愛を動機に耐え忍んで下さい。

この人生というRPGは愛と勇気を試すためのものですから、創造主がシナリオを通してあなたを怒らせたり不安にさせたりしてくるのは当然なのです。だから常に正義(どっちが正しいか)よりも慈愛(思いやり)を優先して下さいね。ネガティブにこちらを否定してくる相手もやんわりと受け止めてあげて、その「ネガティブな気持ち」「他人を否定したくなる気持ち」に同情するのです。

それは特に問題解決型の脳をしている男性にはかなり忍耐の要ることなのですが、人生は修行なのですから、正面から立ち向かう以外にありません。相手にもそのようなネガティブな考え方・性格になるだけのやむにやまれぬ事情(歴史、傷⇒自己防衛)があるのですから、そこに対する同情・慈愛なしに相手を救うことはできないのです。

「人との接し方」よくよくご理解いただけたでしょうか?人は「心からの笑顔」と「心からの同情・共感」により、自尊心を得て、自ら問題に立ち向かって前に進む勇気を得るのです。絶対に忘れず、いつも見えるところに書き出して、日々どのぐらい実践できたか自分でチェックしてみて下さい。最初からうまくできないのは当たり前ですから途中で決してめげず、不退転の思いでやり抜いて下さい。人生が音を立てるようにして良い方向へと劇的に変わっていくのを感じられるはずです。

最後に、この人生というRPGのプレイヤー(主人公・メシア)として目覚め、このゲームのカルマ(シナリオ・設定)から逃げずに立ち向かおうとしているあなたに、創造主から直々にいただいた言葉を託しておきます。これもできるだけ目につくところに書き写しておいて、常に思い出して忘れないようにして下さい。

<さとり4カ条>
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
幸せになろうとするな、幸せでああると知れ(感謝報恩に生きよ)。

それでは、お互い己のカルマと正面から向き合って乗り越えながら、幸せに生きていきましょう。あなたの幸せを心から祈っています。

※本文中に参照として載せなかった継父との関係」「罪悪感との向き合い方」「運命への呪いもぜひご覧いただけると幸いです。

後悔・自己嫌悪ばかりで努力できない

【質問】20代・男性 ペンネーム:ロダン 普段noteを拝見させていただいて「宇宙の仕組み」「ピラミッドの存在意義と仕組み」の二つは、これまで読んできたnoteの中で一番衝撃的かつ興味深い内容で、何度も読み返してしまうほどの内容の素晴らしさでした。 これまでの人生、何か成し遂げた...