ラベル 修行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 修行 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年4月1日火曜日

ヒマラヤ密教の大聖者に入門

【質問】29歳・男性 ペンネーム:けいいち 職業:会社経営

初めてのご相談・質問になります。普段からShinyaさんのnoteやTwitterを読み学ばせていだいています。

私自身、小さい頃から死への恐怖や真理を知りたいという好奇心、突き動かされる感覚を頼りに読書や経験を通じ、自分なりに探究を重ね生きてきました。その中で、ユングの深層心理学やトランス心理学という学問を通じ、個人の深い潜在意識の可能性に触れ、また、神秘体験の場面で自分一人の身で悟りへ道を歩むことの難しさを感じていました。

そんな折にアヤワスカという植物を知り、Shinyaさんのブログに辿り着いて、それ以来愛読させていだいています。また、LSDの服用を通して神秘的な体験や逆に人生最大の辛い体験(ある種、それも神秘体験ですが...)も経験し、Shinyaさんの記事を見てそういった形での修行は辞める事にしました。

そしてShinyaさんが仰るように、まずは身の回りにいる人達へ慈愛の心を持って接することが一番普段からできる修行だと思い、日々自分に関わる人へ感謝し利他心を持って過ごすことを心がけています。

前置きが長くなってしまい申し訳ないのですが、ここから本題に移ります。Shinyaさんのブログを知ったのと同時期頃にある友人から相川圭子(ヨグマタジ)さんという方の存在を教えて貰い、また、パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」という本をお勧めされ、自分が今まで科学や宗教(仏教、キリスト教など)を通して学んできた事が統合された形で言語化されている事に大変驚き、ヒマラヤ密教に深い関心を抱くようになりました。

そして、自分なりに調べた結果、経歴やスピリチュアリティの世界での評価(インド最大の霊性協会、ジュナアカラにて最⾼指導者の称号を得るなど)など、信頼に足ると判断し、また、究極の悟り(サマディ)に達したヒマラヤ大聖者から力をいただける機会があるなら、一度試してみて、自分の身で持って経験してみたいと思い、入門してみる事にしました。

入門する際に、秘法やマントラの伝授と共に、ディクシャ(瞑想秘法伝授)というものがあるらしく、それを受けてみたいというのが一番大きい動機でした。

しかし、実際に入門するためにスタッフの話を聞いていくと、入門するためには〇〇万円のお金がかかることや、月に収入の〇〇%を支払わなければならないことなどを聞き、不安になってきてしまいました。

宗教には様々あり、本心から衆生を救いたいという思いで活動されている方も多くいることは知っているのですが、その一方で金銭の授受を目的とした悪徳宗教も同じだけ存在しているだけに、どうなんだろうという気持ちが拭えなくなってきました。(運営費などにかかるというロジックは分かるのですが…)

そこで質問なのですが、Shinyaさんは相川圭子(ヨグマタジ)さんやヒマラヤ密教についてご存知でしょうか?

また、上記についての判断の糧になるようなアドバイスをいただけますと幸いです。

長文になってしまい、ご負担をおかけしてすみません。どうか、ご回答いただければ嬉しいです。よろしくお願い致します。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

>相川圭子(ヨグマタジ)さんやヒマラヤ密教についてご存知でしょうか?
いえ、全く存じ上げませんでした。「ヒマラヤ密教」とかいうものにも全く興味がなく、今回あなたから質問されるまでその存在自体が僕の思考の枠外でした。

恐らくあなたはものすごく根本的な部分で僕を誤解されていると思います。僕は自分が悟りに至りたいと思って修行をしているのではなく、世界(みんなの魂)を救うために修行をしています。悟りはその手段に過ぎません。そういう考え方なので
>究極の悟り(サマディ)に達したヒマラヤ大聖者から力をいただける機会
なんて聞くと、正直鼻で笑ってしまいます(ごめんなさいね)。まず自分のプロフで「大聖者」なんて自称して恥ずかしいと思わない感性からして悟りから遠い感じがします。ましてそれでお金儲けをしているのならね。まるで稲中のテッシンみたいです(彼もまさに詐欺師でしたしね)。

もし究極の悟り=世界(みんなの魂)を救うための方法」を知っている人がいたら世界は既に救われているはずですから、それは直接人から習えるものではなく、自分で探求する以外にないものなのだと僕は思っています。人生は自分をプレイヤー(主人公)とするRPGなんですから、それは仕方のない(もとい、有難い)ことなのです。だから僕はこの世の全てを先生のように思って学んでますが、悟りについては誰か師匠的な人に弟子入りして教えを受けようとは思っていませんし、どこの宗教・スピの団体にも所属するつもりはありません。また弟子を取ったり宗教団体を作るつもりもありません。組織は腐敗が必然であり、悟りは組織化できるものではないと知っていますから。そして創造主と自分の関係は一対一なのですからね。

そしてもし世の中に「究極の悟り=世界(みんなの魂)を救う方法」を知っている人がいたとしたら、その教えを秘密にするべき理由はないはずです。みんなを救うためにはその教えを遍く伝えなければならなくなるのが自明ですしね。実際、釈迦はそうして完全無償で教えを説いて回ったのでしょう。釈迦が「秘密の教えを伝授する代わりにお金を払って下さい。払えない人には教えられません」なんて言うと思いますか?

だから僕は「〇〇万円を払って入門し、収入の〇〇%を払い続けられる人だけに秘密の教えを特別に教えます」なんて言う人を絶対に信用しませんし、そのような人にもその教え・悟りにも全く興味がありません。悟りというのは衆生を救うためのものであって、己のエゴ(我欲・保身・虚栄)のために利用するようなものじゃないんです。

「覚り」というのは文字通り「目覚め(気づき)」であり、自ら覚るべきものであって、お金を払ってその対価として得られるようなものではないのです。僕自身、真言密教から学ばせていただいていることは非常に多く、多大な敬意を持ちつつ自発的に寄付もしていますが、あなたのように「世に認められている密教の大聖者に入門すれば悟れる・神通力を得られる」などという発想はありません。悟りは登山と同じで自分の足で登らないなら意味がないものであり、例え相手がどれだけ立派な人でもその人が自分の魂の課題を飛ばしてくれるなどということは本質的に有り得ないのですから。

それに「何をすれば必ず何を覚れる」なんて事前にわかるわけがなく、事前に相手を値踏みして得られる自己利益(覚り?神通力?)をあらかじめ予測し、結果(見返り)を期待した努力をするなどというのは、(バガヴァット・ギーターが教えてくれている通り)創造主の思い(愛)に反したエゴであり、結局同じような相手を引き寄せ合ってお互いにエゴのために利用し合うだけでロクなことにならない感じがします。

ゆえに僕はアンチ権威主義であり、「権威がある人だから・周囲が大聖者扱いしていて、大金を払ってでも教えを乞う人が多いから」みたいな理由で信用するような考え方とは真逆なのです。そもそも権力者が権威を与えるということは、権力(支配)に都合が良い存在だということじゃないですか?だから権力者が権威を与えている時点で、僕なら「反面教師として以外に学ぶことは何もない」と即判断しますね。まぁ実際は本当に権力者が権威を与えているのではなく、本人が勝手にそう自称しているだけだと思いますが、どっちにしろ僕が権威に頼るよるような人に教えを請いたいとは思わないことに変わりはありません。

「さとり」は「差取り」でありそれを権威権力のヒエラルキー構造=利益構造を作って内部で権力争いをやっているような宗教団体で覚れるとは思えませんからね(だからどこの宗教団体にも属さないのです)。ヒエラルキー・利益構造を作ること自体がエゴ(分離・差別)のベクトルであり、「愛(融和・差取り)」とは真逆のベクトルなのです。

だから自分の権威をこれ見よがしに見せつけることで信者と金を集めようとする人物って僕は全然信用できないんですよね。麻原彰晃だってダライラマの権威とヨガの知識を利用して信者と金を集めていましたし。もし自分で教えを実践することでその素晴らしさを伝えられず、権威に頼って信用させるような宣伝をしてネットで地引網みたいに信者と金を集めようとしているのなら、本物かどうかの答えは自明かと思われます。

釈迦やキリストをイメージすればわかると思いますが、本物は
①自称しない
②権威を頼らない
③金を取らない
です。誰かさんはスリーアウトですね。もしあなたがどうしても行きたいのなら僕は止めませんし、結局あなたが行きたければ行くのでしょうから止める意味もありません。仮に僕が止めることであなたが難を逃れたとしても、あなたが自分で経験を積んで判断できるようにならないのなら、結局はまた別な人に騙されることになるでしょうからね。

あなたが実際その方のところに行ってみて良かったと感じるか騙されたと感じるかは僕にはわかりませんが、人生にはその人にとって一番必要な経験が与えられるのだと信じています。だからあなたが経験したいことを経験して下さい。

僕もスピ系の誰かを「この人は信用できますか?」みたいに聞かれる度に逐一調べて判断する「スピ詐欺チェッカー」みたいにして使われたくないですし、その結果責任も取れません。名指しで語ることでスピ詐欺師本人やその信者たちから敵扱いされて攻撃されても面倒臭いですしね。ChatGPTにでも聞いてみて下さい。

あなたはとても好奇心が強く、興味があることは実践してみないと気が済まない方なんだと思います。それ自体はとても素晴らしい気質だと思います。ただあなたは修行によって何か特別なを手に入れて、特別な人間になって優越感を感じ、それによって自尊心を満たそうとしている部分はありませんか?それを自覚して向き合う勇気を持たない限りは、結局また同じような誰かを引き寄せて騙されることでしょう。人は己のエゴゆえに自ら騙されるものであり、人を騙そうと思ったらそのエゴを刺激するだけで相手の方から勝手に騙されてくれるものなのです。

<さとり四カ条>
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
 
※他人の事も主人公として尊重し、目覚めを連鎖させよ
④幸せになろうとするな、幸せであると知れ
 ※与えられている価値に気づき、感謝報恩に生きよ。

日々の愛の実践より、神秘体験や神通力のようなものを求めないで下さいね。その姿勢は少なくとも僕の知る悟りとは真反対です。悟りはあくまでも日常の人間関係の中にあるものなのですから、出家や弟子入りみたいなことをして「特別な能力を手に入れなければ悟れない」みたいに考えないで欲しいです。神秘体験や神通力も含めて、その人に必要な経験は必ず与えられるのです。

今回とても厳しい回答になってしまっているかも知れず、大変申し訳ありませんが、魂の同志であるあなたへの愛ゆえですので、どうぞご理解いただけると幸いです。あなたの幸せを心から祈っています。

【関連質問】
スピ詐欺に騙されない様にするには
神通力について
友人がスピ詐欺にハマりそう
なぜ創造主教を創らないのか?
アヤワスカと霊視能力
スピリチュアル・ビジネスについて


追伸
アマギフの寄付をいただけるのは大変ありがたいですが、質問する際に回答の対価を前払いするみたいな感じで払わないようにお願いします。僕はこの活動で対価を得ようとは思っていません。だから寄付のあるなしに関わらず、常に全力で回答しています。

2025年1月6日月曜日

南無妙法蓮華経のお題目&ご本尊について

【質問】20代・男性 ペンネーム:翔太郎
真也さんのnoteやブログを、いつも拝読して勉強させて頂いています。

日蓮系の題目について質問なのですが、南無妙法蓮華経を唱える時は、本尊に向かってやった方が効果は高いですよね?このマントラのすすめの日蓮文字曼荼羅のpdfファイルを印刷して、それに向かって唱題しても良いのでしょうか?教えて頂けると幸いです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。とても光栄です。

※noteのコメント欄でのご質問でしたが、文字数制限が1000字と少ないので、こちらで回答させていただきました。

もし余程お金がないのであれば、最初は入り口として印刷物でも全然良いと思いますが、それで本当に気持ちを込めるというのはなかなか難しいのではないかと思います。ご本尊は日蓮系のお寺で購入してもそんなに高いものではないはずなので(高いものは買う必要がありません)、本当に信心があるのでしたら、通っているお寺で購入された方が良いかと思います。

マントラのすすめの本文中でご説明させていただいている通り、「身口意」の三蜜のうちの「身口(形)」も大事なものではあるのですが、「意(心)」が伴っていなければ、すべてが本末顚倒になってしまいます。だから「形をこのようにすれば効果が高い」みたいなことは、本質からズレるので僕からはあまり言いたくないのです。形を伝える役割は本職のお坊さんたちにあると思いますしね。

この件に限らず、僕がnoteや質問箱でお伝えしようとしていることは、常に「本質」なのであって、それを何かの効果(利益)を得るための「方法論」のように捉えていただきたくないのです。その本質というのは、人生というかけがえのない成長機会を与えられていることへの心からの感謝報恩であり、衆生みんなを救いたいという愛(菩提心)を実践することであって、「もっと利益を得る方法」ではないのです。

お題目にしても般若心経にしても、この人を救おうとするのはエゴでは?の質問者さんのように、本質がわかっていなければ、何百万回唱えようと無意味なのです。

日蓮が「南無妙法蓮華経さえ唱えれば救われる」かのように言ったのは、識字率の低い時代に衆生を救いに導くためであって、今の時代に教育を受けて育っている我々がそれを鵜呑みにしてただお題目口唱だけするのは「NPC意識」であり「主人公意識の放棄」なのです。

「南無妙法蓮華経(偉大なる法である法華経に帰依します)」という祈りに本気で「意」を込めようと思ったら、当然法華経を読んでその偉大さを理解し、本気で帰依する気持ちを持つべきなのは自明であり、本当に心からそのような気持ちを持っているのであれば、それは日々の行動(生き方)になって現れるはずなのです。その法華経から導かれる生き方というのはカルマの良化法に書いたようなことです。お題目口唱の最大のご利益はカルマの良化ですが、法華経の教えに基づく生き方をしていれば(誤読していなければ)カルマが良化されないわけがないのです。

法華経の神仏たちは偉大なので、お題目口唱という「形」だけでも、きっと素晴らしい現世利益がもたらされることがあるでしょう。ただそれは神仏がその力の顕現により本物の信心へと導いてくれているのであり、それを「ただお題目を唱えていれば現世利益が得られるのだ」と勘違いしてしまうと、いくら祈ったとしても相当長い間も何もご利益が得られない(ように思えてしまう)時期が続き、逆に不運に思えることが続いたりして、信心を試されることになるでしょう。そして多くの人はそこで挫折してしまい、自分の信心が自己利益を求めたエゴに過ぎないものであったことを自ら証明してしまうのです。何かの効果・利益(結果)を望んで祈るということは、すべてを与えてくれている存在に対して現状に不満を言っているようなものであり、「あれをするからこれを下さい」と交換条件を求めているようなもので、ナンセンスなのです。

祈りはあくまでも感謝報恩の心と菩提心(真理を求め、衆生を救おうという覚悟=主人公意識)がベースになければ本質からズレてしまいます。「ただ形(本尊に向かってお題目口唱する)だけ行って効果を期待しよう」というのではエゴの祈りにしかならず、引き寄せの法則と同じで、ご利益があるほど後で反動が来てしまうのです。

法華経要約・解説は読んでいただけていますでしょうか?どうかお題目口唱という「身口(形)」に「意(心)」を伴わせ、菩提心を起こし、「どんな結果も感謝して受け入れる」という覚悟で、ご利益など何も期待せずにただただ感謝報恩と衆生救済のために祈り、その思いを行動に表してみて下さい。それができる人が報われないなどということは真理に反することであり、有り得ないことなのです。「存在全体」に対して無償で貢献する人間に、「存在全体」からご利益がないわけがありませんからね。だから「こんなことをしても報われないのではないか?」などという心配(疑い)は要らないのです。そのような心配(疑い)は愛・信仰とは相反するものであり、せっかくの祈りがエゴ由来ということになって、神仏からの愛をうまく受け取れなくなってしまいます。お互いエゴより愛を優先し、ただただ愛を動機として日々祈り、全体利益に無償で貢献していきましょう。








2024年12月7日土曜日

人を救おうとするのはエゴでは?

【質問】29歳・男性 ペンネーム:カリファ
質問箱の「自由意志は存在するか?」の記事を読んで、同じ修行者として聞きたいことがあります。記事内では般若心経が出てきましたが、つまり空の事を説いてると思うのですが、空はつまり無我ですよね?真也さんのブログを深く読んでいないので誤解していたら申し訳ないのですが、「人を救う」とか「より多くに良い影響を与える」と言うフレーズを見る気がするのですが、それは自我ではないのですか?

私は寺で修行をしましたが、常々和尚達に言われました。「人を救いたいと言うのは自我である」と。「自我を捨てて無我になる、それが悟りである」と。確かに木の様になって人生何になる?と思っていたのですが、キリストなど「人を救う!」と言う自己犠牲は大変素晴らしいのですが、確かに自分が救われていませんよね?ならばダルマの様にDMTを放出した状態で壁に9年向かうのが正しいと言う事になりますが、慧可が腕を切り落としてまで世界にその極意を伝えたから禅が今も存在している。自分の中だけで完結しては世界は広がらない。仏教聖典を読んでも中道、中道と何回も出てきますが、私はこの自我と無我の中道が修行を終えた今でもあまり分からないのです。

兎に角、聞きたい事は「愛を与えようとするのも自我ではないか?」
その行為は尊いが、無我(悟り)とは違うのではないか?

それとも愛のあるままに存在するから他者に良い影響を与えようとしなくても良い影響が出て世界はゆっくりと変革していくと言う事ですか?やはり大木になれ、と。

ちなみにお寺は臨済宗と真言宗ですが、その言葉はどちらの和尚も言っていました。しかし駆け込み寺の様な物作って実際人助けをその人達はしていたので、それは違うのか?と問うた所、私は人を助けようとして助けているのではない、仏に導かれ、そういう場所を作っただけで、多くを救おうとか社会を変革してやるとか、そういう類の自我は一切ない、と。そこで人を救う願望がある者は、自分が救われたい場合が多いと言う事を説かれました。「まずは自分を助けてみなさい」という話で「利己的になれ」とか「資本主義的な金第一の思想になれ」とかそういう話ではなかったです。ですので聞いてみました。

般若心経に関しては禅宗に居るので、朝課で毎朝読経していましたし、勉強もしましたが解釈がまるで私とは違う様です。しかしあなたのブログは面白かったです。

【回答】
ご質問有難うございます。僕は真剣な質問・悩み相談に対しては常に100%の愛で答えていますが、質問を装った「質問風批判(皮肉・誹謗中傷)」に対してはかなり手厳しいので予めご容赦下さい。

質問箱の「自由意志は存在するか?」については、つい先日noteで自由意志の仕組みと存在意義で大幅に加筆修正して載せましたので、そちらをご覧下さい。あなたの先のご質問に対する答えという意味ではそちらで100%回答になっているかと思います。

>「人を救う」とか「より多くに良い影響を与える」と言うフレーズを見る気がするのですが、それは自我ではないのですか?

>人を救う願望がある者は、自分が救われたい場合が多いと言う事を説かれました。

>「愛を与えようとするのも自我ではないか?」その行為は尊いが、無我(悟り)とは違うのではないか?

だったらどうだと言うのでしょうか?人を救おうとしちゃいけませんか?あなたはもし釈迦に会ったら同じことを言うのでしょうか?あなたはいったい仏教の何を学んでいるのでしょう?

まず菩提心を持つことが悟りの本当のスタートなのであり、菩提心というのは「衆生を救う覚悟=菩薩(メシア)を志す覚悟」で、僕に言わせればそれは「人生という世界を救うRPGの主人公を張る覚悟」なのです。そしてそれは「悟りを求め続ける(魂を成長させ続ける)不退転の覚悟」なのです。般若心経はその目覚めに導くための尊い祈りなのであり、そこに目覚める気が全くないのなら何百万回唱えようと無意味です。

もし僕が人を(積極的に)救おうとするのをあなたが「それはエゴであり、悟りとは逆行している」とか「傲慢だから止めとけ」「偉そうにするな」とか言いたいのなら、それは「大きなお世話」であり、まさに「仏(ほっとけ)」って感じです。

僕は人を救うための手段として「悟り」を求めているのであり、自分が悟りの境地に至ることが目的ではありません。そして僕の活動は無料でやってますし、あなたにも誰にも何かを押し付けたり迷惑をかけたりはしていませんので、あなたからそのように諫められる筋合いはありません。「謙虚さ」というものは自ら嗜むべきもので、謙虚さを他人に押し付けたらそれは「傲慢」であり「エゴ」そのものなのです。

あなたは人を救えていますか?自分自身も含めて。僕は日々「あなたに救われました」という嬉しいメッセージをいただいていますが、もしあなたがいくら修行しても自他共に救えず、人から救いを求められることさえないのに、僕に対して「人を救おうとするのはエゴ・傲慢では?」「自分を救えていないからでは?」と言わずにいられないのであれば、それは誰も救えていないあなたの自己正当化・嫉妬であり、それはエゴそのものではないでしょうか?

僕は「自分が救われたいから人を救おうとしている」のではなく、既に創造主によって救われたので、その感謝報恩のために、僕を救ってくれたその愛と智慧でもって「かつての自分と同じように苦しんでいる人を救いたい」と考えているだけです。そうしたら創造主からどんどん愛と智慧を与えられ、それを伝えることを使命として自覚し、それが連鎖的に遍く伝われば結果的にみんなの魂が救われるシナリオになっていると覚らされているだけです。それをあなたがエゴだと呼びたいのならどうぞ勝手にして下さい。

あなたは何か僕を歪んだ正義心(エゴ)のために何かの政治活動に情熱を燃やしているような人間だと勝手に勘違いしているようですが、僕の持論は「変わるならまず自分から」であり、「自分が日々愛(悟り)を実践してその連鎖反応の起点となること」であり、「社会システムを権力や批判によって変えようとしても逆効果にしかならない」「自分から揺るぎなく価値観を変えていけば、みんなの価値観も連鎖的に変わり、社会のシステムも必然的に変わる」ということです。社会システムの変革自体が僕の目標ではなく、それは副次的なものです。

僕にとって目的はあくまで人の魂の救済であり、悟りはその手段に過ぎないのです。人も救えない悟りに何の価値があるのかわからないので全く興味がありませんし、人を救おうとするのを動機から否定しようとして来るような方が語る悟りとか、僕からすればホント意味不明で、全く求めていません。

一時期、浄土真宗の方々もあなたと同じように「人を救おうとするなんて偉そうだ」という論調でよく僕を批判してきました。やはりあなたと同様にこちらが説明してもハナから話を聞く気がないので、憐れみつつブロックする以外にありませんでしたが。

彼らは親鸞や法然などが誤解していた通りに誤解しているのです。阿弥陀仏(法蔵菩薩)は衆生みんなが救われるまで成仏しないと誓うほど不退転の覚悟で人を救おうとする人間だったからこそ成仏したのであり、僕らはその「主人公意識」を見習って「みんなを救おう」という菩提心・大慈悲心を起こすべきであって、阿弥陀仏にすがって念仏を唱えてさえいれば自分もみんなもあの世で救われるなどと考えるのは「NPC思考」であり、ナンセンスだと僕は思います。そして「人はみんな凡夫で無力なのだから、ただただひたすら仏の慈悲にすがるべきだ」「人を救おうとするのはエゴであり傲慢だ」などと言って、自ら菩提心を起こすどころか、他人の菩提心まで否定してくるようなお坊さんや信者さんたちに対して、僕は心底呆れた気持ちを持っています。

もしRPGで「世界を救ってゲームクリアした先人を見習って自分もクリアを目指す」のではなく「ゲームクリアした先人を崇め奉れば自分もクリアできる(世界を救える)」とか「自分でプレイしてゲームクリアしよう(世界を救おう)なんて考える奴は傲慢だ」とか考える人がいたらどう思いますか?僕の気持ちもそれと同じです。

それと僕は禅宗について文化(型)としては美しいと思っていますし、それを伝えた聖師たちにも祀られている神仏やお経にも心から尊敬の念を持って学ばせていただいていますが、現代の禅宗(だけじゃないですけど)は形骸化して本質から大きくズレていると思っています。菩提心を出発点とせずに、ただ上に教えられた通りに自分を型に押し込めるような修行をしても悟れるわけがなく、逆に悟りから遠ざかっていると思うので。ちなみに個人的に座禅・シラフでの瞑想は苦手ですし(笑)禅によって悟ろうなどとは全く考えていません。日常の人間関係での修行の方をより重視しています。

あなたはそのお坊さんたちの教えによって何も悟れていないから誰も救えてないのでしょう。正直言うと、そのお坊さんたちも本当は何も悟れず救われてなくて、教えによって人を救うことができないのに、立場上(職業上・商売上)「自分は悟っていて既に救われている」というフリをしていなければならないために、相手に揺さぶりをかけて煙に巻く禅問答のような話しかできず、困ったら「ただ座れ」とか「ただ○○を唱えよ」とか言って逃げてるんじゃないかと僕は疑ってます。きっと己の出世や保身、寺の運営維持拡大の方が人を救おうという愛より優先なのが当たり前になっているから、仏道が形骸化して空虚なものになっているのでしょう。それは法華経に予言された増上慢そのものです。

永平寺の修行風景などを見ても、いかに仏教が形骸化した虚しいものになっているかが良くわかります。恐らくは「期間限定で辛抱し、形式だけ学んで資格さえ得られれば、後は実家の寺を継いで安泰だ」とでも考えながら修行しているのでしょう。それはエゴそのものであり、そんな動機の修行では菩提心という悟りのスタート地点にすら立てるわけがなく、何も悟れるわけがありません。ヒエラルキーでの出世(権威・権力・金)を目指すような、エゴの塊で何も悟れていないのに偉そうな人間たちの元に、完全にエゴ(我欲・保身・虚栄)で聖職者になりたい若者たちが集うわけですからね。まるでコメディです。悟りというものは組織化できないものだと知って下さい。資格試験じゃないんですから、専門学校みたいにどっかの宗教に通って学んでいればいつか合格できて将来が安泰になるというようなものじゃないんです。

>キリストなど「人を救う!」と言う自己犠牲は大変素晴らしいのですが、確かに自分が救われていませんよね?

僕はもう一度死んでいるので自分の命やこの世の富や名声に執着がないだけで、別に自分を犠牲にしているつもりはないです。ワンネスへの目覚めが進むと自分=他人という感覚になり、自分への愛と他人への愛がイコールに近づき、無償で人を助けるのは当たり前になって、自己犠牲をしているという感覚はないのです。そして僕が人を救おうとするのは全ての存在の源である創造主へ愛と感謝報恩であり、そこはキリストもきっと同じだったと思います。もしあなたが「キリスト自身は救われていない」と考えているのなら、単にあなたが悟りが進んでいなくてこの世の価値観(損得勘定=エゴ)に捉われているだけだと思います。

>自分の中だけで完結しては世界は広がらない。
あなたは「自己完結型の悟りは悟りではない」ということを既に悟っているのに、誰かが本気で人を救おうとすると茶化して否定せずにはいられないのは、自己矛盾ではないでしょうか?世界は一つ(ワンネス)なんですから、自己完結型の悟りが本物の悟りなわけがありません。「とにかく自分が救われたいというエゴために無我の境地を目指す」なんて矛盾も良いところです。あなたはまだ若いから仕方がないことではあるのですが、まず己の心がいかにエゴにまみれていていかに愛がないかということに気づいていただきたいです。今の僕から見れば現在のあなたは「仏の慈悲に気づかず、他人を蹴落としてでも自分が救われたいカンダタ」です。エゴの存在によって自他を「醜い」と否定するのではなく、自分と他人の愛し方に書いたように、自他を共に許し愛せるようになって下さいね。

>空はつまり無我ですよね?

あなたは「空とは何か?」の以前に「エゴとは何か?愛とは何か?」が全くわかっていないようです。エゴ(欲)とは何か?をよくよく読んで考えていただきたいです。あなたは自我(エゴ)の対義語を無我(無心に近いイメージ)だと考え、それが悟りだと考えているから空や中道の理解を誤るのでしょう。エゴの対義語は愛なのです。

ただ単に自我を無くすだけの「無我」なら幻覚剤でも仮経験できますが、もしずっと自我がないままならただの精神障碍者であり、何も悟れるわけがなく、人を救うどころかまともに生活もできないでしょう。

エゴと愛は表裏一体のものであり、この次元においてはどちらか一方だけでは存在し得ません。人間である限りエゴは無くせないものですし、失くす必要もありません。ただエゴを無くすっていう意味での無我を目指しても、自分自身も誰も救われないのです。エゴを乗り越えて自他に差別なく愛を発揮するところにこそ魂の成長があるのであり、それがいわば中道なのです。そうやって全てが二元的に創られたこの世界を愛一元に近づけていくことが魂の修行なのです。

あなたは己のエゴにより苦しんでいる自覚があり、それを滅すれば幸せになれると思い込んでいるのでしょう。それでも結局エゴを滅することができずに余計に苦しくなって、他人に向かって「お前もどうせエゴまみれなんだろう?」と引きずり降ろそうとしているのでしょう。しかしあなたが苦しい原因は「エゴがあること」ではなく「愛が足りないこと」であり、例えエゴを滅したとしても決して幸せにはなれないのです。日々己の愛を実践から育てて行く以外に自他共に幸せになる道はありません。

世の中「諸法無我(自他全ての存在が関係性の中で存在しているということ)」だからこそ、僕は人間関係を大事にしているのであり、自分を生かしてくれているみんなのへの感謝報恩の気持ちによって無償奉仕しているのです。そのように僕がみんなに良い影響を与えようと努力しているのをあなたにエゴだと決めつけられて貶される意味がわかりません。

我を捨てたら存在意義がなくなります。僕は今生においてあなたが考えるような無我の境地など全く目指していません。我(個性)の確立が無我(愛一元・ワンネス)を価値ならしめるのであり、「自分とはどういう存在であるか?」という個性を確立し、自分でその存在を許し、尊敬し、感謝し、愛せるようになり、同時に他人の存在・個性も許し、尊敬し、感謝し、愛せるようになっていくところが、今生での目指すべきところです。

悟りとは何か?に書きましたが、人間が生きている限りエゴによる苦しみから完全に離れることができないからこそ、我々は死ぬまでエゴを乗り越えて愛を発揮する修行で成長し続けられるのです。悟りというのは今生においてどれだけ開こうと究極に達することはないようにできているのであり、それ故に僕らは終生全力で悟りを目指し続けることができるのです。例えどれだけ悟ろうと、それは更に大きな悟りの中の構成要素なのであり、それはロシアのマトリーショカ人形の如くです。そして「それでも不退転の覚悟で悟りを求め続けるのだ」というのが般若心経の最後のマントラの本来の意味です。

あなたはそのお坊さんたちの考え方に対して心から納得していないのに、結局あなた自身のお考えが非常に曖昧で何がおっしゃりたいのかサッパリわかりません。ハッキリ言うと「誰々がこう言ってました」ということで他人を盾にして自分に直接反撃が来ないようにしながら相手を皮肉って「自分の方が悟っている」と優越感を感じようとしたようにしか思えません。あなたは相手のエゴを指摘することで、あなた自身が陥っている「己のエゴによる自己嫌悪の地獄」に相手を陥れ、溜飲を下げたかったのでしょう。

しかし自分の悟りを自分の言葉・自分の背中で語れない人間が、カオナシみたいに他人の口を借りて「悟りとはこうあるべきでは?」などと上から目線で教え諭そうとする時点で失笑ものです。よくよく考え直して下さい。自分のプライドを守るというエゴのために他人の慈愛すら否定しようとする道が悟り=幸せなわけがありません。



>確かに木の様になって人生何になる?

創造主は言いました。「樹が鳥を愛するように人を愛せよ」と。大地と空から愛を受け取り、感謝の花を咲かせ、悟り(愛)を豊かに実らせ、何も結果(見返り)を求めず、鳥達が集い喜びに歌うのを我が喜びとするのです。去る者追わず・来る者拒まずで、何ものにも執着せずに。果実を差し出すのにお金とか愛情(尊敬・感謝)という見返り(自己利益)を強要したり、嫌いな鳥を拒絶したり、エゴで執着して鳥達を追いかけまわす樹では愛されません。Giving Treeのように相手の欲しいものを与えられることに喜び感謝して、相手が求めるものを与えてあげて、相手の喜びにも悲しみにもそっと寄り添って下さい。愛という果実を無償で提供すれば、愛(悟り・幸せ)の種は鳥たちがきっとどこまでも運んでくれるでしょう。

それが愛(悟り・幸せ)なのであり、あなたの「木の様になって人生何になる?」という問いに対する答えです。もしそれが自己犠牲的で何の得もない・虚しいと思うのなら仏教修業など本当に意味がないんでやめた方が良いかと思います。

あなたは本気で衆生を救おうなどとはまるで考えていないわけで、結局自分が救われたいという思いだけで修業をしているから、神仏の愛も智慧も受け取れないのでしょう。

あなたはきっと俗世の人間関係や仕事がうまくいかずに自尊心をズタボロにされて、宗教に逃げ込んだら修行生活で更に自尊心をズタボロにされ、何とか自尊心を守るために「我は真理を求める修行者である」とネットでよく知りもしない外部の人間に対して匿名で主張してマウントを取ろうとしたのでしょう。しかしそうやって自分の愚かさ・誤りを認めて乗り越えようとする勇気(本物の謙虚さ)を持たないから成長できない・悟りが進まないままなのでしょう。そういう人間性が文章全面に滲み出ています。

人生の修行の場はあくまでも俗世での人間関係にあるのです。俗世の人間関係での修行の大変さに比べたら、山や寺に籠ってする修行など、どれだけ身体的・精神的にしんどかろうと逃げに等しいと僕は思います。そして逃げ道は必ず行き止まりにできているのです。そしてあなたが何もかもうまく行かず自尊心が抑圧されて苦しい状態にあるのは、あなた自身の心に愛が足りていないからであり、己の愛を育てることから逃げて、宗教団体のヒエラルキーの上を目指して自尊心を回復しようとしたところで、救われるわけがないのです。

真理とは「自他みんなを幸せにするもの」であり、逆に言えば自他みんなを幸せにする考えに対して誰かが「それは真理ではない」と否定しようとどうでも良いことであって、僕は興味もありません。人生は魂成長プログラムであって、もし真理が人を幸せにしないものならば、誰も本気でそれを悟って成長しようとはしないでしょう。

それとあなたは僕とは「(空・般若心経の)解釈が全く違う」とおっしゃいますが、僕はまだ「空」や「般若心経」についてまだちゃんとnoteや質問箱では解説していません。僕がちょっと空や般若心経について言及したのを見ただけで、あなたが僕の空や般若心経に対する解釈をわかったつもりになっているのなら、あなたの悟りの進捗&理解力から察するに絶対に誤解してると思います。

もしあなたが本気で「空とは何か?」「般若心経の真意は何か?」を知りたいのであれば、僕自身は深く理解しているのでいくらでもご説明差し上げますが、あなたは「解釈が違う」と言いつつも、僕の話を「面白かったです」の一言で片づけ、議論する気などサラサラないわけですから、やはり単に僕に対して「自分の方が悟っている」とマウントを取りたかっただけだったのでしょう。あなたは明らかに「寺で修業している自分の解釈の方が正しい」「人を救おうとするなんて、コイツは絶対俺より悟れていないに違いない」という愚かな思い込みを前提として話をしていますが、己の解釈によって自分も他人も救えるほど腑に落ちた理解はできておらず、また自分の言葉で語って相手と議論して己の理解を深めようなどという気もなく、職業坊主の方々と同様に「立場上」わかったフリをしたまま「深入りしたら自分が何もわかってない事がバレてマズそうだ」と逃げるしかないのでしょう。残念なことです。

<後日記>
般若心経の究極解説を記事にしました。もしあなたが誰も救えない自分の正当化や嫉妬で僕を叩こうとしたのではなく、本気で空や般若心経について理解したいのであれば、どうぞご参照下さい。


それでは、あなたがいつか菩提心に目覚め、仏が僕を通じてあなたに慈悲を与えてくれていることに気づき、良く知りもしない相手に対して上から目線で質問風批判をしたことを心から恥じ入り、いつか衆生の皆と共に救われることを心から祈っています。



2024年10月15日火曜日

アヤワスカとLSDの違い

 【質問】40代・男性 ペンネーム:Void
アヤワスカとLSDの違いについてShinyaさんのご意見を聞かせて下さい。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

回答させていただく前に、何点かご了承いただきたいことがあります。

1.私自身は2025年のみでLSDの使用を止めており、金輪際使うつもりはなく、他人様にお勧めすることは決してありません。アヤワスカも約6年間で800回以上の経験によって僕が求めていた答えに到達したので、僕にとってはもう必要はなくなりました。LSDもアヤワスカも他人様に向けてお勧めする気は全くありません。
何よりアヤワスカもLSDも日本では違法であり、そして幻覚剤の使用には法的リスク以外にも様々なリスクがあり、僕は幻覚剤全般について反対派寄りの立場です。
特に統合失調症や双極性障害・多重人格症など自我を制御できていない状態にある人は大変危険なので絶対やるべきではありませんし、決してやらせないで欲しいです。

2.この記事の内容は全て僕の個人的な感想・解釈に過ぎません。「幻覚剤とは何か?」の前に「意識とは何か?」がまだ科学では全く解明されてないわけですし、また幻覚剤は様々な条件によって影響が変わるものなので「飲めば必ずこういう経験ができる」と保証するものではありません。アヤワスカもLSDもネガティヴな影響が出るリスクが多々あります。もちろん僕の経験も解釈も絶対的なものではないので「アヤワスカ/LSDとはこういうものだ」と決めつけて他人様に押し付けるつもりは毛頭ありません(ハゲなだけに)。

3.アヤワスカの主成分はDMTでもDMT単体で摂取するのとは全然違います。本題ではないのでその違いはここでは説明しません。

4.「幻覚剤=違法=悪」だと経験もないのに決めつけるような人には、まるで内容が伝わらないと思います。アヤワスカとLSDのいずれか、または両方を経験したことがある人で、スピリチュアルなことにある程度の知識と理解がある人向けであり、そういう人がより理解を深め、考えるきっかけにしていただくことを目的として書きました。

以上

アヤワスカは数千年続いている文化であり、土着の宗教・信仰と不可分のものです。ノウハウの蓄積がしっかりあって様々な決まり事があり、伝統的にそれが守られています。「アヤワスカとは何か?」ということが、伝統的・文化的に知られているのです。

もっともブーム以降は金などのエゴ目的でやっているエセシャーマン詐欺師が急増しているので注意が必要です。彼らは「フリ」をして稼いでいるだけの「なんちゃってシャーマン」なのであり、心からの信心・霊的研鑽はなく、アヤワスカの伝統など本当は表面的にしか知らないのです。現地では「本当の伝統は既に途絶えている」という人も多くいます。シャーマンを自称して生業にしているような人間はほぼ確実に詐欺師であり、本物のシャーマンが自らシャーマンと名乗ってネットで宣伝して高額な儀式に参加させて金儲けをするわけがありません。

まして信心も宗教的な知識・研鑽もなく、ただアヤワスカのアナログ(疑似物)を用いる自称シャーマンは確実に詐欺師であり、他人を精神的配下に置いて自分を崇拝させながら金儲けをする手段に幻覚剤を使っていて、狂って自殺する人などが何人も出ているそうなので、絶対に騙されないようにして下さい。失うのはお金だけではなく人生全体なのですから、ただの詐欺師よりもずっと危険です。

LSDはアヤワスカと比較すると近年に偶然発見されたものであり、自然由来とはいっても化学薬品の部類であって、伝統的な宗教・信仰とは結びついていません。そして「LSDとは何か?」ということが実際誰もよくわからないまま、主に幻覚遊びのために使われ、ヒッピーやレイヴなどの退廃的なカルチャーと結びつき、またオウムのような悪質な新興宗教に悪用されたりもして、事故・事件が多発し、研究も進まないままにただただ悪者扱いされて厳しく取り締まられてきた経緯があり、まだまだ文化と呼べるレベルには全然達しておらず、今後も達することはないと思います(理由は後述します)。

ごく最近は幻覚剤が精神病の治療に有効であることが注目され、一部ではサイケデリック医療の研究も進められていますが、それは精神医療のメインストリームからはまだ程遠い感じがします。またその研究における科学的なアプローチ自体がスピリチュアルな文化・信仰とは相容れないものであり、僕は個人的にサイケデリック医療の進展には全く期待はしていません。特にLSDはそれが何であるかが自分なりにはっきりわかった今となっては、LSDを精神医療に使うなどというのは狂気に感じます。心の病というのは成長課題として天より与えられているものであり、基本的には対話によって本人が自分で乗り越えて行けるように導くべきものだと思います。精神病・精神医学について

そしてサイケデリクスが精神薬の一種として=医療・製薬業界のお金儲けの手段として資本主義の内側に取り込まれて矮小なものになり、またそれが神意に反することによって悪い影響が出てしまうことを僕はとても危惧しています。スピリチュアルを自己利益的に使うことが、いかにカルマを積んで後からどれだけ凄惨な清算が待っていることになるかは、僕がこの約5年間アヤワスカ・スピリチュアリズムに関わって日々見聞きして思い知らされていることですからね。

ただ、南米以外で、幻覚剤全般が覚醒剤やコカインなどと同じように扱われて一様に厳しく取り締まられている現状には憤りを感じます。アヤワスカもLSDもそれらのドラッグとは違って快感があるわけではないですから、身体的に依存症になるような心配は全くありません(精神的に依存する人はいるかも知れませんが)。使用中は性欲もなくなるのでSEXドラッグみたいにして悪用されることもまずないと思います。

特にアヤワスカは現代医学で殆ど解決できていない精神病の問題の解決に寄与する可能性を持っているものであって、意識を変性するもの=麻薬=悪と決めつけて、他の薬物と同じように取締強化&厳罰化するのはナンセンスだと思うんですね。

アヤワスカで危惧すべきことは、知識と経験と良心のある主催者(保護者)の下で使用されず、悪用・乱用されて事故に繋がることだと思います。厳罰化するとアングラに潜り込んでそのリスクは上がってしまうので、しかるべきルールの下で限定的に許可した方が良いと個人的には思うのですが、現状、そのような限定的な解禁も日本では絶望的な状況です。

アヤワスカ茶はとにかく不味いので、何度飲んでも全く慣れず、飲む前はいつも躊躇します。その強烈な味・吐き気・不快感が障壁となるので、依存症にはなりようがないと思います。

アヤワスカは事前に食事制限があって様々な禁忌があるのですが、その制限内なら摂取前に食事しても大丈夫です。むしろ何も食べてないと吐くものがなくて浄化できず苦しくなります(嘔吐&下痢は浄化であり、必要なプロセスです)。

LSDは紙でもリキッドでもごく微量で作用しますし、ほぼ無味無臭で吐き気もありません。だからアヤワスカと違って味や臭いや吐き気が摂取の障壁とはならず、アヤワスカより遥かにカジュアルに使用されていると思います。ただしLSDは摂取前に空腹で挑む必要があり、胃に食事が残っていると全く効きません。そしてLSDもハイドーズすると吐き気があります。事前に食べてないので胃酸しか吐けず内臓が結構苦しいです。吐いても浄化されているという感じはあまりありません。そしてハイドーズだと他では経験したことのない頭や内臓の不快感もあります。

アヤワスカは効き始めに寒気が生じて、口がカタカタ鳴ったりします。体内の精霊が仕事をする時はそうなるらしいです。そして顔の半分が口になるぐらい大きなあくびが出ます。この仮想現実から目覚めようとしている感じで、僕はそのあくびが好きです。LSDもハイドーズすると独特の寒気があり体が震えますが(震えというより痙攣)、それは精霊の仕事というより身体の純粋な生理反応という感じがします。LSDではあくびは出ません。アヤワスカは血中に溶けてから吸収されて意識に作用する感じですが、LSDはより意識へダイレクトに作用している感じがします。

ブラジルのアヤワスカ界隈では、妊婦や小さい子供も普通にアヤワスカを飲んでいます。日本のYouTuberでアヤワスカを「一種の毒である」と説明している人がいましたが、アヤワスカに毒性は皆無です。恐らくアヤワスカと一緒にやることが多いカンボ(蛙の毒による浄化)の情報などと混同しているのだと思います。LSDにも毒性はないと思いますが、とてもリスクが高いので(後述します)、妊婦や子供が使って良いものではないと思います。

アヤワスカは毎日やっても大丈夫なものですが、LSDは一時的に耐性がつくので、1~2週間は間を空ける必要があります。空けないといくら摂っても全く効きません。そしてLSDは脳の受容体が吸収できる量に上限があり、一回1200ドーズぐらいが限界で、それ以上摂っても作用は変わりません。マイクロドーズについてはやったことがないのでわかりません。DMTの吸収上限についてはわかりませんが、アヤワスカを大量に飲んでDMTを過剰に摂取するというのはまず無理です(大量には飲めませんし、例え飲んでもすぐ吐いちゃいますからね)。だから健常者であればアヤワスカでもLSDでも過剰摂取による死亡事故というのは(静脈注射などをしない限り)まず起こらないと思われます。ただ錯乱などによる二次的な事故は話が別ですし、他の薬物との相互作用があれば少量でも大変危険です。

正直、LSDは絶対やらない方が良いと思います。僕は何事も自分で試してみなければ気が済まない性分でLSDを試しました(覚せい剤のように依存性が強くて人生に良い影響が何もないと最初からわかっているものを試すほどバカではありません)。僕はそれまでにアヤワスカで意識変性・自我喪失状態を何百回も経験していて、また意識・世界・脳・幻覚剤の仕組みの理解が既にかなり進んでいたので、意識変性中に何が起きてもその理由を論理的に理解できたのですが、それでもLSDの使用中は気が狂いそうになりました。いわゆるバッドトリップではなしにです(後述します)。LSDの使用は素人が自分の脳というパソコンのシステムをアドミニストレーター権限で弄り回すようなものであり、ヘタすればもう二度と正常に起動しなくなって、自分にも他人にも手に負えなくなり、人生が壊滅的になる恐れがあります。実際そういう人はたくさんいるのです。

幻覚剤全般が誰にでもおすすめできるものでないのは冒頭に書いた通りですが、特にLSDについては本当におすすめしません。精神分裂のリスクが高過ぎます。やりたい人は他人から何を言われてもやるでしょうから止める方法はありませんし、止める意味はありませんが、まだ迷っている状態なのなら絶対やめるべきです。それは経験した上で確信しています。

効き始めるまでの時間はアヤワスカもLSDも30分ぐらいですが、効果の持続時間は大きく違います。アヤワスカの効果はせいぜい2時間程度と短いのですが、悪い霊に憑依されたりなど良くない反応があった人を途中で醒めさせるのは難しいです。基本、効き目が切れるまで待つしかありません。一方LSDは効果が5~6時間以上と長く続く半面、醒めたい時には食事を摂ればすぐにストンと落ちるので、その点はアヤワスカよりもラクではあります。

アヤワスカとLSDの共通のメリットを一言で表現するなら、どちらも仮経験的に人を自我から解放することで真理に気づかせる(覚らせる)ヒントを与えてくれるものだということです。そして共通のデメリットは、精神を分裂させる(霊障に自我を乗っ取られる)リスクがあるということです。

幻覚剤を経験したことのない人にとって幻覚剤のイメージというのは「一時的に頭が狂っておかしくなる」「夢のように荒唐無稽でおかしな幻覚を見る」という感じだと思いますが、幻覚剤で経験する世界というのは各個人の脳が狂って勝手に産み出している荒唐無稽なものではなく、実際に存在する別次元の世界のチャネルと松果体というアンテナを通して繋がっているのです。そこにはこの世界と同じようにきちんと設定とシナリオがあり、一つ一つの事象に意味があり、共通性・法則性があるのです。僕らにとってそれが理解し難いというだけで、決して荒唐無稽なわけではないのです。そして僕らの認識しているこの世界も無数にある共通チャネルの中の一つに過ぎないのです。統一された設定(時空・物理規格)をみんなで共有し、多くの人と世界線(チャネル)がつながっていてヴァーチャルに出会えているために、お互いにそれを現実(一つの客観的世界)だと思って疑わないだけで、いわば幻覚(仮想現実・個人が見ている夢)なのです。

アヤワスカとLSDの両方を経験した上でまず僕が感じたことは、アヤワスカとLSDは全く次元の違うものであり、一口に同じ「幻覚剤」だからということで一括りには語れないものであるということです。その次元の違いを説明しますね。

まず宇宙の仕組みに書いた通り、我々が普段「現実」として認識しているこの世界は「我々みんなの意識=創造主」がその意識の内側に「経験の場として」創り出している仮想現実です。そして我々の意識が今ログインして滞在しているこの宇宙には2種類の次元の違う起源があるのです。それはゲーム内起源(内部宇宙)とゲーム外起源(外部宇宙)です。

例えば僕はかつて「カルドセプト」というゲームが好きだったのですが、そのゲーム内において世界は「カルドラ」という神様が創造したことになっています。それがそのゲーム内における宇宙の起源なのです(ゲーム内起源)。我々のこの仮想現実世界もそのように内部宇宙における異次元の世界(実在します)で起きた神話を元にして(設定として)創られているのです。ビッグバンなどもその設定の一つであり、実際に起こったことではなく、起きたという共通設定で我々の世界が創られているのです。とても受け入れがたいと思いますが、この世界の全てはクリエイター(創造主)によって意図して作られた創作物なのです。このあたりの話はピラミッドの仕組みと存在意義に詳しいです。


そしてその「カルドセプト」というゲームは我々の現実世界(ゲームの外側)にある「大宮ソフト」というゲーム会社によって作られています(ゲーム外起源)。ゲームクリエイターが(過去のゲームのアイデアを元にして)起案し、プログラム担当者がプログラムを・デザイン担当者がデザインをという感じで、それぞれが役割通りにシコシコと書いて作っているわけです。ゲームは全てが情報(概念・データ)でできていて、それはディスクに記録されているのであり、プレイヤーのプレイデータもまたすべてメディアに保存(更新)される仕組みになっています。ゲーム機本体もまたSONYや任堂などのゲーム会社によって創られ、それは高度かつ無機質な技術データの蓄積・具現化なのです。同じ様に、我々の仮想現実世界(物質世界)も異次元の神話の世界も、内部宇宙全体がゲームの外に広がる外部宇宙の存在たちによって今までの情報(概念・データ)を蓄積・具現化して作られたゲーム世界だということです。

アヤワスカは前者の「ゲーム内起源・内部宇宙」の次元、LSDは後者の「ゲーム外起源・外部宇宙」の次元と繋がって仮経験させてくれる感じです。ゲーム内起源の内部宇宙は「愛」に価値が置かれた(善悪などに優劣のある二元的・道徳的・勧善懲悪的な)神話がベースの物語の世界であり、ゲーム外起源の外部宇宙は「経験」に価値が置かれた(善悪などに優劣のない非二元的な)世界であり、クリエイターの根源的な製作意図(ポジティヴ・ネガティヴ両方の経験を積ませること)がダイレクトにわかる世界なのです。そのどちらと繋がるかがアヤワスカとLSDの根本的な違いかと思います。

生命の樹で表現すると、アッシャー(肉体)からイエツィラー(魂)の階層までがゲーム内起源・内部宇宙であり、ブリアー(霊)からアツィルト(神)の階層がゲーム外起源・外部宇宙という感じです。ただ一口に「上位次元」といっても様々な階層があり、その境目というのはそんなにキッチリ分かれているのではなく、重なっている部分があってモヤっとしていて、それぞれの階層にいる様々な存在が行き来したり交信したりしているのです。そして我々の魂は人間界で「どれだけ成長したか?」「どんな存在であったか?」によって、どの階層に行くか・そこでどんな存在になるかが決まるのです(魂の概念化)。

そしてマルクト(人間界)からケテル(真理・創造主意識)に至る三本の柱がありますが、アヤワスカは慈悲の柱を上り下りする感じであり、LSDは峻厳の柱を上り下りする感じです(文字通りめちゃくちゃ厳しいです)。そしてこのマルクト(人間界)における修行を通して登る道が均衡の柱、という感じです。本来的には均衡の柱を上るのが王道であり、この人間界での修行を放棄して幻覚剤に頼るだけで覚った気になるのは非常に危険ですし、それは魂的な成長には繋がらないと思います。

真言密教の曼荼羅で表現するなら、アヤワスカは胎蔵界を、LSDは金剛界を上り下りする感じです。

ただし幻覚剤の体験というのはあくまでも仮経験であり、本質ではありません。僕は直接的にアヤワスカやLSDで覚らされたわけでなく、5年程前に突如としてプログラムを脳に直接インストールされるようにして覚りが与えられたのです。僕の鬱もその覚りによって寛解したのであり、サイケデリクスは関係ないのです(だからサイケデリクスによる精神医療には不支持の立場です)。アヤワスカとはその覚醒の数か月後に出会って、既に与えられていた覚りを実感を通して再確認させられ(補助的)、更に現実世界での実践を通じてより覚りを進めさせてもらっているという感じです(だから幻覚剤による経験を論理的に理解し説明できるのです)。

僕は目覚める前にかなり年齢を重ねてしまったので、より上位に進むために幻覚剤の補助は必要悪だと考えていました(今は懐疑的です)。普通に宗教修行していたらとてもケテル(真理・創造主意識)には至れないと思っていたので。僕はあくまでもこの人間界における修行(勉学・宗教修行・肉体修業・人間関係修行など)に価値を置いているのですが、そっちの話をしてもなかなか多くの人に興味を持って貰うのは難しく、どうしても幻覚剤のことばかりが注目されて「幻覚剤で悟った気になってるイタい人」みたいなレッテルが貼られ、僕が一番伝えたい「自分もみんなも共に幸せにする・魂を成長させる覚り」がなかなか伝わらないのがもどかしいところです。

幻覚剤を遊び目的で使い、神秘体験をしているのに信仰心を持とうとせず、物質主義的・無神論的な考え方をしていて、平気で道徳に反したことをする人が多いみたいですが、その物質主義的・無神論的な考え方こそが人間に与えられた無明であり、それはまさにクリフォトの樹のような仕組みになっていて(ヴィジョンでそれを見ました)、それを乗り越えて信心を持つところに価値があるのだと思います。神秘体験を与えられていながら信心に生きようとしない人は、神秘体験を与えられていないがゆえに信仰心を持てていない大勢の人と比べて、きっと壮大なカルマを積んで後から清算させられることになると思います。

アヤワスカで意識変性に至るには、その不快感と、己と向き合い許すという苦しみを乗り越えなければなりませんが、それを乗り越えるととても神聖な感覚があり、自分も儀式参加者もみんな神様のように感じたりします(実際みんなが神の使いであり、神そのものでもあるのですが)。真理を知れば知るほどこの世界・人生がいかに壮大な愛・慈悲によって創られているかを実感し、終った後に胸から溢れるような幸福感があり、全てが愛しいと感じます。アヤワスカのヴィジョン(目を閉じて見える世界)はスモークに映し出した3Dホログラムのように朧気で(とてもクッキリ見える時もありますが)全てをネオンで描いたように美しく、それによって神話の世界を見させられている感じです。実際に神仏や曼荼羅が見えることもあり「ああ、本当にいるんだな」って実感します。見える模様は幾何学的であり、世界の創造というのが幾何学を尽くした概念の具現化であることが感覚的にわかります。

一方LSDの意識変性の方は、神聖さ・愛がほとんど感じられず、ヴィジョン(目を閉じて見える世界)はいわゆるサイケデリックの世界で、VRゴーグルで3D映像を見る感じでクッキリ見えます。創造主の想像=創造領域(ゲーム制作のアイデアの世界)なので、人間の僕には意味があまり理解できずにカオスのように感じられます。その世界は美しくも無機質で、デザインが天使と悪魔の混合のようで神々しくはなく、色づかいも原色と蛍光色がベースになっていて毒々しく禍々しい感じがします。そしてLSDにより覚らされる真理というのは善悪を超えていてあまり救いが感じられず、知れば知るほど今までリアルだと信じて疑わなかったもの(自分・他人・世界)が全て創作物だったのだと実感を通じて覚らされる感じで、幸福感は全くなく寂寥感のようなものを感じます。3Dゲームの世界を本当の世界のように思って没入している最中に、ゲームの開発者(本当は自分自身)からその制作過程をゲームの中でプレゼンされるみたいな感じで、身も蓋もないような真実を無慈悲に突きつけられるような感じです。そして現実世界での経験を伴わずに、幻覚剤によって答えだけ求めることの虚しさを痛感させられる感じです。

アヤワスカでゾーンに入ると、視界のすべて(ヴィジョンではなく実際の視界)がイデア化(理想化)される感じで、すべてが光で描いたように色鮮やかになって普段よりずっと神々しく美しくなり、特に花が別物のように美しく見えます。何度か視界全体がインド神話のようになったこともあります。欠点がすべて見えなくなりパーフェクトになる感じです。祀っている神仏などの置物や絵が動いたりもしますし、曼荼羅から仏が飛び出てきたりもします。服や壁などの柄も変わります。この世ならざるものの姿や、実在しない建物などが見えたりもします。地面や空間に丸い光の紋章が無数に見えることもあります。そこには文字も書いてあるのですが、まったく解読不能です。法華経の地涌菩薩のように無数の仏が見えたこともあります。それでも視覚が歪んで狂っているわけではないので、何かものを掴み損ねたりとか歩行が困難になったりとかするようなことはなく、意識変性中も刃物や火を使って料理したりなど、普通に生活できます。

LSDでもゾーンに入ると花などが美しく見えたりはするのですが、イデア化しているというほどの感じではありません。そして視界が歪み、クラゲのようにフワフワ・グニャグニャ踊っている感じになります。神仏の像や絵なども生きてるみたいに表情や色が移り変わって見えるのですが、やはりアヤワスカの時ほど神聖な印象は受けないです。そしてハイドーズだと意識変性中は歩行すら困難なほどになり、視界が歪んでしまって何か物に対して自分が意図した通りに正確に触れることもできず、思考も混乱するので、その間は普通に生活することができません。だから特にハイドーズは一人でするべきではないですし、外では絶対にハイドーズしてはいけません(アヤワスカも外でやるのはダメですが)。

アヤワスカは自己の人生を振り返り、自分や他人を許すことを通じて己の愛を育て、魂的に成長するように促されている感じがします(道徳的・指導的)。自問自答のループがすさまじく、自らへの問いと同時に自分の深層心理・神我・ハイヤーセルフから答えが返って来る感じがします。

一方LSDはアヤワスカのように道徳的・指導的ではなく、魂的な成長に導かれているという感じは全くしません。むしろネガティヴな経験を通じて自分と他者・世界が存在するということの価値を覚らせる、という教訓的な部分が大きい感じがします。善悪などのポジティヴ・ネガティヴに優劣がない次元で、何でも経験して知ることに意義があり、それがクリエイターによる人間(人生)と宇宙の製作意図であると覚らされる感じです。

LSDはハイドーズすると自我が経験主体者である自分自身からほぼ完全に離れる感じになってしまうので「自分が今これを経験している」という感覚さえ消失し、醒めた後にその経験の記憶があまり残らなかったりするので、後から「いったい何のためにやったんだろう?」って思ったりします。LSDで峻厳の柱を登るように覚りを求めることの虚しさを経験することによって、現実世界で均衡の柱を登るように覚りを求めて経験を積めることの価値を覚らされている感じがします。

アヤワスカは道徳的真理を覚らされることで道徳的に正しい生き方・信心に導かれている感じがしますが、LSDは道徳を超えた真理を覚らされることで己の信心・存在意義が問われている感じがします。自我が失われる究極の混乱と恐怖の中で、神にすがるしかなくなりますしね(だから心からの信心のない人は特にLSDなどやるべきではないと思います)。

自分の意識が肉体から離れると、自分が他人のように感じて「もう戻って来れないかも知れない」というような恐怖を感じます。そこで自分の名前を思い出し、自分自身に対して「この人を愛している。何があっても絶対に最後まで見放さない」という覚悟を持ち「自分の魂は他の存在(世界)に良い影響を与えられる存在である」と確信することによって、魂(意識体の自分)が肉体に戻って来れる感じがします。

だから覚りが進んでおらず、信心がなく、「自他が存在する」ということに感謝がなく、エゴに埋没していて自己嫌悪心・被害者意識・厭世観が強くて逃避願望があり、自我を保って己を制御する力が弱くて既に半ば霊障に乗っ取られているような人は本当にLSDは絶対にやっちゃいけないと思います。本当に戻って来れなくなる可能性がありますから。

自分の主人格(一霊四魂の直霊)が肉体から消えたままになるというのは実質死んだも同じだと思いますし、自分の意識がないまま勝手に自分の名前と肉体を霊障に使われ、愛すべき人たちを傷つけて憎まれ、重大な犯罪や事故を起こして歴史に悪名を残されるかも知れないというのは本当に恐ろしいことだと思います。そしてアルコールや大麻など、無自覚に自我を霊障に明け渡してしまうものと一緒にLSDをやると、突発的に霊障が大暴れして衝動的に自殺したりすることもあり(飛び降り・車両への飛び込み・首つり・オーバードーズ・服毒など)、最近そういった事故が多数報告され、世界的にますますLSDへの規制が厳しくなってきています。

幻覚剤にはそうしたリスクがあるので、僕は遊び半分で幻覚剤を使える人の気が知れません。勝手な推測でファンの人を傷つけたら大変申し訳ありませんが、僕はhideの首つり自殺や窪塚洋介の飛び降り事故などもそれが原因なんじゃないかと思っています。それ以外でもミュージシャンなどの著名芸能人の前触れのない突発的な自殺は、アルコール・大麻・精神薬などと幻覚剤の組み合わせによる薬物相互作用と錯乱が原因であるケースがきっと多いと思います。そうしたケースでも社会的影響や名誉のために本当の原因は報告されないのでしょう。状況的に事件性がなさそうであれば、遺族も死体解剖を拒否するでしょうし、幻覚剤が検出されることもないでしょうからね。

幻覚剤によるインスピレーションを芸術・技術に生かすことで富と名声を得ていながら、それを十分に社会に還元できていなければ、カルマを積んで早死にすることになるのかも知れません。特に悪魔的な存在からのインスピレーションを好んで使うアーティストにはその傾向がある気がします。

hideは素晴らしい作品をたくさん残し、多くの人を励ましてとても社会に貢献した人だと思いますが(僕はファンです)、神に愛されるということは悪魔に愛されることでもあるのです。

アヤワスカが「許し=愛を経験するためのもの」であれば、LSDは全てが一つであるという感覚を通じて「許していないのは自分自身の方なのだな」と覚らされるものだと感じます。そして「個性というのは幻であり、本当は全てが一つであると同時に全てが全体の一部であり、全てが関係性の中で存在していて、僕ら全員が同一人物のようなものである」ということ(諸法無我)を実感として教えてくれている感じがします。きっと「自分も他人も同じ存在で、みんなが欠点と過ちのある存在なのだから、許す以外にない」ということを自ら「論理的に」覚らせてくれているのでしょう。そして「本当は他者など存在せず、害したのも害されたのも全部自分自身なのだから、許す以外にないんだよ」と。

でも僕はLSDによるこの「全てが一つである」という感覚に安堵感のようなものは感じず、むしろ酷なことのように感じます。それは「この世界の事象全てが最初からプログラム済みであり、人間はすべてNPCの如き存在で、自由意志など存在しない」という理由で「あなた(人間)に罪はない」と言われているように感じられるからです。創造主より贈られた「自由意志」という宝物は、自分の犯してきた罪や恥を「自分の意思が原因である」と認めることで受け取れるものなのでしょう。

この「全てが一つである」という感覚は、エゴが強い人が使えばエゴに振りきれてしまい、自殺願望がある人は衝動的に自殺してしまい、犯罪的ないし変態的な衝動を抱えた人・霊障に犯されている人が使えば狂気につながってしまいかねないのではないかという恐怖を感じます。だからそういう人には絶対に幻覚剤を使って欲しくないのです。「人生の試練(カルマ)というのは全て創造主の愛により我々を成長に導くためのものである」とポジティブに愛で解釈し「創造主の分身であるみんなに良い影響を与えるために生きていこう」と考えられる人だけに幻覚剤を使って欲しいのです。

恐らく幻覚剤で他人の人生まで狂わせながら金儲けしてる自称シャーマン詐欺師たちはこの「全てが一つである=全てが許されている」という感覚ゆえにエゴのタガが外れて霊障化してしまったのではないかと思います。我々は常識感覚(コモンセンス)があるからこそ、他人とコミュニケーションを取って共感し合う経験ができているのに、特にLSDでは常識感覚を失って狂人と化し、まともなコミュニケーションが取れなくなってしまう人がとても多いのです。それはその人が元々エゴにまみれていて、幻覚剤の体験を正しく解釈できるほど覚りが進んでいないからでしょう。

例えば日本人の自称シャーマン詐欺師Rも最初はまだ良心的なところがあったのに、「人間に自由意志は存在しない」などと言い出してからは金儲けに振り切れ、変態度も増して魔境落ちしていますからね。著書によって日本の界隈ではサイケデリクスの第一人者みたいに目されているAもどんどん邪悪さと変態度が増して似たような感じになっているように見えます。どちらも既に霊障に乗っ取られ済みな感じで、儀式後に自殺者が出ても全く立ち止まれず、こちらが何か忠告したところで聞く耳を持つような状態ではありませんので(以前再三忠告しましたが完全に逆効果でした。狂っている人は「今自分は狂っている」ということは自覚できないので当然ですが)「それもその人の宿命で仕方がない」と心の底では許しながら祈る以外にありません。どうか愛と信心の欠如した自称シャーマン詐欺師の餌食にならないで下さいね。

自由意志については自由意志の存在意義と仕組みで詳しく解説していますが、人間にはちゃんと自由意志が与えられているのです。じゃなきゃ人生に意味などありません。自由意志というのは自我に対して与えられているものなのですから、幻覚剤で自我が外れれば「自由意志は存在しない」と感じられるのは当たり前のことであり、それをもって本当に「人間に自由意志は存在しない」などと勘違いして魂の成長を放棄して魔境落ちしてはいけません。

アヤワスカの覚醒は脳の覚醒というより霊性の覚醒であり、自分自身(神我・ハイヤーセルフ)との対話という感じが強いです。この現実世界で己がエゴによって積み上げてきた罪・恥・劣等感などのゆえに、己と向き合うのはとても苦しいことなのですが、自分も他人もイコールの存在として許して乗り越えられると、しみじみと幸福感を感じます。終わった後は疲れて眠くなることが多いです(なかなか寝付けないこともあります)。逆に言うと自分自身と向き合うことを拒否している段階にある人は、アヤワスカをやるべきではありません。気持ち悪くなるだけで何も起こらないか、あるいはネガティヴな影響が起きてネガティヴな方向に導かれてしまうリスクが高いからです。

LSDの覚醒は純粋に脳の覚醒であり、ハイドーズすると脳細胞が一旦「量子もつれ状態・ニュートラルな状態」になって量子波動化する感じがします。それは脳が一旦サナギ状態になるようなもので、一時的に思考がひどく混乱して普段通りにモノを認識して思考することが全くできなくなります(確かに現実世界にいるのに夢の中に閉じ込められているような感じになります)。

LSDの覚醒では相対・論理の限界の次元に達して思考のループが起こり、論理的に考えようとすれば考えようとするほど論理がひっくり返って深みにハマる感じで混乱がひどくなり、自分は狂人になってしまったんじゃないかと恐怖します。それでも「今の自分はまともである」という自己正当化意識があり、夢の中でそれが夢だと気づけないように、今の自分がまともでないということを自覚はできません。自分の肉体は確かにみんなと同じ現実世界にあるはずなのに、意識は自分の悪夢の中に閉じ込められて出られない感じになってしまいます。狂っている時に「自分は狂っている」と認識できる意識は自分の中にないのです。それはシラフの時でも自分がおかしくなっているのを自覚できないということですから、それがひどく苦しく恐ろしく感じ、考えるのをやめたくなります。「統合失調症というのはきっとこういう感じなんだな」と覚らされます。そしていかなる時でも自分が他の存在に対して良い影響を与えられるように気を付けなければならないのだと覚らされます。無自覚に人を害してはならない、と。

恐らくこれは生命の樹の峻厳の柱の「ゲプラー(意思)」と「ホド(思考)」を繋ぐパスである「吊るされた男」を通るプロセスであり、今までの自分の信念が全部ひっくりかえされて自分で信じられなくなるような感じがします。まるで全人生・全人格を自分自身から否定されるような感覚です。

それは「創造」というものが「答えを一つに限定しない」という原理で広げられているものであり、そのためにそれまでの答えを否定させるプロセスが必要なのでしょう。全ての創造は創造主が「内なる己を知るため・愛を経験するため」に創造したものであり、「自己正当化」というのは深い内観・許し(愛)に反する意識であって、それに対してLSDはとても厳しいのだと思います。

だから深く内観し、自他を許す以外にないのです。このプロセスでは何もかもが信じられなくなり、狂気と恐怖を感じます。そして本当に神にすがりながら薬効が切れるのを待つだけになります。人の価値とは?に書いた通り、「人の価値とは、考えが正しいか間違っているかではなく、存在そのものにあるのだ」と心から思っているのでなければ、このプロセスによって自尊心は壊滅的になってしまうでしょう。

LSDの覚醒は知能が覚醒するというよりは意識の拡張によってアカシックレコードとのつながりが覚醒する感じで、混乱を超えた先には「一時的に」この人生というゲームのクリエイター側の感覚になって、何もかもを当たり前のように知っている感じになります。しかしそのようにして覚らされた宇宙の仕組みやシナリオなども、その時は「当たり前」だと感じているがゆえに何かを「覚った」という自覚がなく、現実世界に戻った時には意識が切り替わっているためにほとんど忘れてしまっていて持って帰れません。どれだけ持って帰れるかは、この現実世界においてどれだけ悟れているかに依ると思います。

それでもゲームソフトがゲームの全ての情報・可能性を網羅し内包しているように、脳は本当はアカシックレコードと直結していて、答えを全部最初から知っているのであり、
・魂が人生で失敗と試行錯誤を通じて成長を楽しめるように
・魂が想像=創造性を発揮して人生を芸術として楽しめるように
・魂が物語の中で「愛とは何か?」を経験的に覚れるように
敢えて我々の魂(意識)に対して答えを隠しているのだということには気づかされます。

LSDの覚醒が終わった後には、脳が量子コンピューターのように欲しかった答えを出してくれている感じがするのですが、そこに至るまでの混乱がひどいですし、LSDが覚らせる真理というのは善悪を越えた次元のものなので、覚らされることに幸福感が全くなく、寂寥感のようなものがあり、苦難を乗り越えてその混乱の汚泥の中から真理を手にしたという充実感もありません。それゆえ「違法だから」という理由ではなく「明らかに道徳的に良くないことをしている」「チート行為である」という罪悪感があります(アヤワスカでそれはありません)。そしてLSDもアヤワスカ同様ひどく疲れますが、LSDは脳自体の覚醒なので、終わった後は疲れているのにかなり長時間眠れなくなるのがキツいです。

アヤワスカもLSDも共に意識が虚数時間の次元と繋がるものなので、時間感覚がおかしくなり、時間が全然進まなくなることが多く、時々は逆に急激に進んでいたりします(雲があり得ないスピードで流れるのを見たりしました)。またどちらも夢のように醒めた後で記憶が残りにくく、無作為に残された動画の切り抜き画像のように断片的にしか思い出せないのですが、次の意識変性時にはまた思い出したりします。

アヤワスカの意識覚醒状態では外界の対象に対して五感(六感)が鋭敏になり、直接触れていないものの温度まで感じたりします。視覚が美しくなるのは前述した通りですが、音楽もいつもよりとても美しく聞こえます(アヤワスカでかける曲は普段聞いても素晴らしいです)。アヤワスカの意識変性中は音楽を耳で聞いているというよりは自分の意識に対して直接響き渡っているという感じで、音楽がどこから聞こえているかがわからなくなったりします。だから儀式で嫌いな曲・うるさい曲がかかるとツラいです。時々は同じ曲でも普段とは全く別な曲に聞こえたりします。一人で儀式をしている時に僕が好きな激しい音楽を聞くと脳内物質がギュルギュル脳内を巡っているのを感じます(痛快です)。そして幻聴もあり、別次元の存在の声が聞こえたりもします。臭いにも敏感になるので、儀式で自分に合わないインセンスやアロマが使われているとキツいです。また、毛布の中でする自分のオナラで鼻が曲がりそうになったりします(笑)

そしてアヤワスカでは「共感覚」が強く出ることがあります。数字・文字や音楽・思い出に色感や触感や温度感や味覚があったり、概念上の存在の形や名前が視覚的に見えたり、色々です。これはLSDでは今のところあまり感じられていないです。

僕はLSDの使用の際にはいわゆるサイケデリックな音楽と映像を使うことが多いのですが、意識変性中はそのサイケな音楽や画像・映像がとても素晴らしく心に響く感じがします。僕は個人的にそれらをシラフで視聴してもあまり素晴らしいとは感じません。そしてアヤワスカの時にLSDの時と同じサイケデリックな音楽や映像を流すと冒涜的な感じがして不快にすら感じます。

LSDのハイドーズ中は一時的に分離意識がほぼ失われ、意識(主体)が対象(客体)と一体化してしまって意識的な距離が取れなくなります。それで例えば僕が環境セッティングに使っているプロジェクターの映像なども直接心へ滝のようにズドドドと流れ込んで来る感じがします。これは恐怖を伴うものであり、勇気を試されている感じがします。

アヤワスカの場合は同じようにプロジェクターの映像を見る時でもまだ「自分」と「映像」が別の存在であるという分離意識が確実に残っているのですが、LSDのハイドーズ時にはその分離意識(自分と他の存在との境界線)がほぼ消失し、「自分」が「映像」を見ているのではなく、自分がその映像の一部になっているという感じになります。現実感(普段の思考)が完全に失われているので、臆病な人がやったらきっと気が触れるほどの恐怖を感じるだろうなと思います。それと同時に、普段は心が傷つかないように無意識に対象との距離を取っているものなのだなと覚らされます。

意識変性(拡張)中というのは思考が即視覚化される感じで、怖いと思ったら怖いという意識がどんどん拡張されて恐ろしい経験をします。だから臆病な人がやったら本当に気が触れる可能性があるので絶対やるべきじゃないと思います。僕は一度もバッドに入ったことがないですが(厳密に言うと一度だけネガティヴな経験をしていますが)、バッドに入る人は基本的に「あなたはやるべきではない」という警告だと思って下さい。


「LSDを友達に勧められてやってみたら楽しかったから量を増やしてみよう」などと安易に考えるのは非常に危険です。LSDハイドーズでの混乱と恐怖は想像を絶するものであり、一度経験したら「経験前に戻る」ということは絶対にできません。マトリックスのレッドピルのように「不可逆のものである」と事前に強く認識すべきです。この記事をアップしてから、LSDの経験後に「後遺症で幻覚と妄想に苛まれ、鬱・統合失調症・コミュニケーション障害状態になっている人」や、サイファーのように「こんなことなら目覚めなければ良かった(摂取前に戻りたい)と後悔する人」からの相談を連日のように受けています。LSDは絶対に興味本位などの安易な気持ちでは手を出してはいけないものだと思いますし、もし迷っている人がいるなら絶対やめるべきだと思います。

LSDはゲーム外起源の次元とつながるものなので、この物質世界というのが創造主の意識の内側にプログラム構築されたものであることがよくわかります。僕ら各分離意識(分け御霊)はそれぞれ別な宇宙を与えられていながら(一人一宇宙)、時空の座標と物理規格が世界線を共有する者の宇宙同士で統一されているために、僕らはネットゲームで他のログインプレイヤーに出会うようにして一つの客観的世界に一緒にいるような感覚になれているのです。だから「認識者の認識によって事象が結実し、それが各認識者の世界で連動する」という量子の仕組みは必然のものであり、それは各分離意識(分け御霊)をそれぞれ主人公として同時に成立させるためのものだとわかります。そして「本当は他者など存在しない(すべてが自分自身である)」と覚らされるのです。


「個性は幻であり、僕らはみんな同一人物のようなもの」なのですが、その「僕ら」というのは歴史上・神話上の存在なども全て含まれます。アヤワスカの場合は内部宇宙(物語の内側)の神話的存在たちと意識内で実際に会ったりします。そして宇宙人のような存在と(他者として)会ったり交信したりすることもあります。彼らはみんな人類の霊的成長を促してくれている感じなので、僕は全く恐怖を感じません。

儀式では恨みを持った悪霊や動物霊、低次元の神や邪悪な宇宙人などネガティヴな存在とつながったり憑依されてしまう人も時々いるのですが、彼らもあくまで「物語の内側(内部宇宙)」の存在なので、僕からすれば「まぁ神話なんだからそりゃ色んな役があるだろうし、悪役もいるわなぁ」って感じで、憑依されている人を見ても(人外の存在を直接見ても)僕は全く怖いとは思いませんし、それを浄霊して成仏に導き憑依を解くのが儀式における僕の役割の一部です。


一方LSDハイドーズの場合は異次元の存在に「(他者として)会う」のではなく、自分がその存在に「なる」という感覚があり、意識が外部宇宙(超高次元)の存在(ブッディー体やアートマ体)とつながるというのはそういうことなのだとわかります。例えば僕がエメラルド・タブレットで教えらえた通りにトート神の名を呼んだら(シェークェーテート・アーレーリーチ・ヴォーマーリーテス)、トート神が僕の意識内にやって来るのではなく、自分の中のトート神意識が目覚めて自分がトート神になり、トート神の思考・記憶を部分的に知っている感じになります(あくまでも「感じ」であり、仮の体験です)。

このあたりの話は詳しく話すと気違い扱いしかされないでしょうからあまり詳細を書くつもりはないですが、意識がどんどん拡張していくと分離意識が希薄になり、あらゆる存在が自分であり、誰にでも(何にでも)成り代われるという感覚があることはお伝えしておきます。仏教の現一切色身三昧ですね。人間とはNinguém(ポルトガル語で「誰も~ない=Nobody=肉体のない魂的存在」の意)であり、みんな(Gente=Everybody)の一人ひとりが我々(A Gente=We)なのです。


そのようにあらゆる情報が自分の中に引き出せるのは、脳がアカシックレコードとつながっているからであり、そのアカシックレコードというのはどこか遠くにあるのではなく、素粒子の一つ一つが全てアカシックレコードなのであり、そこには宇宙の全情報が記録されているのです。素粒子は「モナド」でもあり、モナドは物理的ではなくデータ的(概念的)存在で、それが宇宙のすべてを構成しているのです。「単一電子論」で提唱されているように、世界はたった一つの素粒子によって構成されているのであり、それがすべての経験を集めている創造主自身なのです(本体そのものではなく媒体ですが)。

だから宇宙が更新される時には超時空的に一気にすべてが更新されるのです。つまり僕らの意識が「今」経験させてもらっているこのゲーム世界は常に最新版でありベスト版だということです。僕らにその完全性が理解できないというだけで、本当は全てが完璧(成長経験の場として・ゲームとして・芸術の素材として)なのです。僕らがイメージするような完全性というのは成長性・ゲーム性・芸術性・創造性がなくて何も面白くなく、それだけが存在しても存在意義がないのです。

あなたは恐らく「モナド」などという最小単位の存在に宇宙の全情報があるなんて信じられないと思いますが、概念の次元に物理的な大きさは関係ないのです。※モナドが何かわからない方はネットで調べて下さい。

LSDハイドーズで自分と他の存在との境界線がほぼ完全になくなって一体化すると、壊れたテレビのチャンネルが勝手にグルグル回るように世界がループします。世界の認識自体をグルグル繰り返しひっくり返される感じになり、例えば現在自分が部屋の中にいるのか、自分が脳内に創り出した部屋という幻想の中に自分がいるのかわからなくなります。そういう感じの世界認識がひっくり返されるループが繰り返し繰り返しグルグル起こるのです。それは意識が次元(事象)の交差点であるブラックホールを通るからなのでしょう。一つの素粒子が一つの宇宙であり、一つの宇宙が一つの素粒子であるという感じで、物理的な大きさが意味を失ってイラストレーターの画像のように主体者である自分の任意の状態になり、その任意の主体者たる自分の自我が抜けているために、宇宙認識の基準点・位置感覚が失われて無限ループが起こるわけです。それは「モナドとは何か?」を体験的に教えられている感じがします。ただこれは本当に精神的にキツくて気が狂いそうになります。

LSD体験というのは、僕らのいる仮想現実世界の制作会社にアクセスするようなものなので、その仕組みがよくわかります(当人の元々の理解の進捗度に依りますが)。そしてそれはまさに仏教の大千三千世界そのものだとわかります。仏教の宇宙観はこの仮想現実世界の仕組みを如実に表したものなのです。下の画像の風輪がゲーム機のモーターであり、金輪が束ねられたデータディスクであり、その表面がディスクのデータを光のリーダー&ライターで読み込んで3Dホログラムのように映し出したこの現象世界であり、鉄囲山が地球の重力圏(高さ=重力で視覚化されている)であり、須弥山がブラックホールであり、それがデータ宇宙を束ねていると同時に次元の交差点でもあるのです。世界は意識の数だけフラクタルに存在しているのであり、時空の座標・物理規格が共通設定として各意識(各モナド)で世界線として共有されているために、僕らはネットゲームにおけるログインプレイヤー同士のようにして、お互いの認識世界でヴァーチャルに出会うことができているのです。

アヤワスカでもLSDでも、この現実・人生にはシナリオがあり、すべてが必然で偶然は存在せず、設定としてすべてが完璧な法則性の元に成り立っているのが感じられます。ただアヤワスカはゲーム内のシナリオ(ファンタジー)を見させられる感じで、LSDはゲームの外の次元におけるこの世界の制作過程を見せられる感じでやはり次元が違います。アヤワスカは竜宮城のようなゲーム内の神話の世界ですから、それはとても楽しく幸せや愛を感じる体験で、醒めた後は「もっとあそこにいたかった」と毎回思わされます。ところがLSDでは自我を喪失する恐怖と混乱が強く、「全知全能・完全無欠・唯一無二にして無始無終で永遠の存在である創造主の孤独・退屈・存在意義のなさ・絶望(5億年ボタンの様な状態)」の記憶を思い出させられる感じで、醒めた後には「戻って来れて良かった・現実世界って完璧に良くできていてありがたい」と毎回思わされました(僕はそのためにやっていた感じでした)。

LSDはそのように「クリエイター側の意識」を仮経験させられることで、この現実世界において僕らが当たり前のように感じている「自分がいて、他人がいて、世界がある」「自分はこの世界における庶民の一人である」「みんなとコミュニケートすることができ、共感・同情し合い、許し合い、助け合い、愛し合うことができる」という感覚と、それを支える仕組みの存在が全然当たり前のものではなく、創造主からのかけがえのない贈り物(Present:現在&Gift:才能)であり、途方もなく素晴らしく有難いものだと覚らされる感じです。そうすると本当にこのリアルの人生においてどんな苦難や不幸があろうとも、「自分」という存在と「人生」という経験機会を創造主からいただいていること自体に根源的な感謝と幸福を感じられるようになります。

上位次元をこの次元より素晴らしい世界だと思い込み、それを経験することで優越感を感じようとしている人が多いみたいですが、次元の上位下位というのは価値の上位下位ではなく、上位次元を仮経験することでわかるのは「全てが全ての構成要素である」ということです。そして上位次元というのはこの次元をより素晴らしくするために存在しているようなものであり、この次元の価値がわからず・感謝せず、自尊心の低さ・厭世観ゆえにこの次元を嫌って逃避したいと考えているような人が幻覚剤を使うとロクなことにならないと思います。

世界は決して誰の意思も介在せずに勝手に生じ、物質⇒生命・意識が誕生して進化しているのではなく、元々完全である概念⇒創造主意識が経験の場としてこの現象世界を構築しているのであり、全知全能である創造主が世界をより完全な(より成長性・ゲーム性・芸術性・創造性があって面白い)ものに進化させ続けているのです。そして無数にある次元・世界の中でも、この我々の世界(人生)が最も素晴らしい体験機会であり、もっと良い世界などどこにも存在していないのです。我々の父たる創造主は一人息子である我々分離意識たちに常に最新版で一番面白いゲームをさせてくれているのです。我々の多くはそこに全く感謝しておらず、ゲームの困難さ・苦しさゆえに怨みで返していますが、我々は最高の経験機会を与えられているのであり、それはとてもありがたいことなのです。

僕はそこに心から感謝しつつも、同時にある意味でどこか絶望に近い感覚も持っています。それはやっぱりまだどこかで「この世界が自然発生したものであり、偶然が存在する」「自分と他人は別の存在である」「死は存在の終焉であり安らぎである(魂は永遠ではない)」というところに逃げたい自分がいることと、「この世界よりもっと素晴らしい天国みたいな世界があるのではないか」と期待してしまっていることが原因かと思います。そういう天国みたいな世界はこのゲームクリアのご褒美として用意されてはいるのですが、それはただ幸せなだけで何の成長要素・ゲーム要素もないエンドロールのような世界であり、達成感を感じた後はすぐつまらなくなって、我々はわざわざこの困難多きゲーム世界にまた自分の意思で来ているのです。忘れているだけで。

僕らには「孤独で退屈で存在意義のなく絶望的な状態が永遠に続く」のと「この人生(魂の成長経験)という最高に面白いゲームを永遠にプレイし続ける(創造し続ける)」のと二つしか選択肢がなく、前者を選ぶ理由はありませんから、実質後者を選ぶ以外になく、後者を選んだからこそ我々は今こうして存在しているのです。だからやはり僕は感謝と絶望の両方を感じてしまいます。どのみち終わりはないのですから。

アヤワスカは「己の存在意義を自ら覚らせてくれる」感じがしますが、LSDは逆に創造主から「己の存在意義を問われている」感じがします。hideのeyes love youの歌詞にある通り「存在の意味を教えてくれと すがり叫ぶ 鏡の中の己」という感じです。そしてこの「己」というのはこの物理世界で肉体を持つ「自分」だけでなく「自分の意識・認識世界全体」のことであり、ひいては全存在のことであって、それが存在する意義は何なのか?と創造主(=全存在)から問われている感じです。世界はその答えを得るために永遠に創造され続けるのだということがわかります。そしてその答えは創造主の分け御霊である自分が主人公として人生を通じて自分の言葉で語れなければならないのであり、「他の分け御霊さん、お願いします」と他人にマイクを譲ろうとしては主人公として成立せず(笑)存在意義がありません。創造主と我々の関係は常に一対一であり、誰かの背中に隠れることはできないのです。

僕らは「自分」というかけがえのない存在を与えられた代わりに、「存在意義」を卒業論文のように創造主に提出しなければならないのです。ただそれは創造主から提出を強制されているのではなく、本当は僕ら自身が創造主なのであり、僕らは自らが創った「自分」と「自分の世界」が存在することの意義を自ら明確にする以外に選択肢はないのです。僕らは忘れているだけで、僕らの魂はそこに同意して生まれて来ているのであり、「自分とは(世界とは)どういう存在なのか?」を更新するために生まれて来ているのです。

「意識拡張(宇宙との一体化)の最果てには何があるか?」というと、もちろんそれはケテル(創造主意識)があるのです。創造主は僕らを通じて経験を集めているわけですから僕らの心の奥底まで全部が見えている(=一緒に経験している)のですが、僕らの側から創造主は見えません(不可逆視)。もし見えたら我々は創造主の分け御霊・経験主体者として存在し得ません。そもそも創造主というのは意識体であって姿かたちがあるわけではないので視覚的に見ることは不可能ですし、我々も含めて全ての存在が創造主意識の現れなのであり、主体者である創造主以外は何も存在しないのですから、創造主の一部である我々が創造主を客体として認識すること自体が(定義上)不可能なのです。それはピラミッドの存在意義と仕組みに書いた通り、トランプに様々な数字(個性)があっても裏返せばみんな同じ柄であるが如くであり、個性を与えられている存在の我々には、自分の背中にいる創造主(すべての個性の集合体)が見えないのです。

ケテルの前には鏡(八咫鏡)があり、波動を上げ切れていない(覚りきれていない)現在の僕らの意識では創造主意識とは一体化できないようになっています。現世での人生修行・魂の成長を終えて覚りを完成させずに(ゲームクリアせずに)そこに至ろうとするのはチート行為であり、それはRPGでまだレベルが十分でなくシナリオをちゃんと回収していないのにいきなりラスボスのダンジョンに乗り込むようなもので、ものすごく恐ろしく感じられる上に全然先には進めずボコボコにされるのは必然だとわかることでしょう。当然それを防止するための柵があり、それを超えようとした時にはペナルティーがあるのです(意地悪ではなく、それも愛です)。

だからもしあなたが幻覚剤や瞑想などでケテルの手前まで意識を拡大できたとしたら、例えそれがどれだけ心地よく感じたとしても、それ以上意識を拡大しようとしてはいけません。魂(一霊四魂の直霊)が肉体に戻って来れず、統合失調症みたいになる可能性があります(まぁその前に「帰れ」って言われて現実に戻されるでしょうけども)。

もしあなたの意識がその鏡(八咫鏡)の前まで至ったなら、自分が創造主自身であり、全てを創造したクリエイターであるということに気づかされるでしょう。あなたは自分で創ったRPGを楽しむために分離意識となって自分が創造主であることを忘れ、人間というアバターを使ってこのゲーム世界にログインし、自分がプレイヤー(主人公)としてログインしていることさえ忘れてしまっているのです。どうかこのRPG世界におけるプレイヤー(主人公)として目覚め、あなたが描いたシナリオの行く末に全責任を負い、世界を救いに導いて下さいね。そしてこのRPGの物語・創造を楽しみ、己と世界の存在意義を覚り、いつかクリア(悟り・世界救世の完成)して創造主の元に笑顔で帰ってあげて下さい。

もし幻覚剤の経験で混乱している(意味がわからなくて困っている・後遺症に悩んでいる)という人や、誰にも理解されそうになくて孤独を感じているという人は、是非僕に相談して下さいね。宿命だと思っているので、いつでもお待ちしています。

僕はアヤワスカもLSDも強烈な「人生という自作の推理小説の強烈な伏線回収剤」であり、「森羅万象が自分自身なのだと覚らされるもの」であると今は確信的に悟っています。だからエゴによるネガティブな動機(現実逃避・暇つぶし・幻覚遊び・金儲け・他者に対する精神的支配など)では、決して幻覚剤を使用しないで欲しいと心から願います。本当に狂う可能性が高いので。

「創造主(=全存在)の起源・仕組み・存在意義」については、現在記事を書いているのですが、途方もなさ過ぎて終わりが見えません。みんなに理解してもらえるようにはとても書ける気がしないのですが、いつかは書籍化したいと思っています。

【関連質問】
LSDの後遺症について
幻覚剤による妄想か真実か
極度の人見知り(大麻・LSD)


後悔・自己嫌悪ばかりで努力できない

【質問】20代・男性 ペンネーム:ロダン 普段noteを拝見させていただいて「宇宙の仕組み」「ピラミッドの存在意義と仕組み」の二つは、これまで読んできたnoteの中で一番衝撃的かつ興味深い内容で、何度も読み返してしまうほどの内容の素晴らしさでした。 これまでの人生、何か成し遂げた...