2022年9月6日火曜日

神への不敬で当たったバチ

【質問】
いつも拝見させていただいております。

海外某所で神聖な場所だと深く認識せず、神聖だと言われている場所(日本でいう伊勢神宮のような神聖な場所)で悪ふざけをしたらその後意味不明な偶然が重なり、幼少期にあった辛い記憶を突然思い出して精神崩壊しました。今は立ち直りましたが神聖な場所での悪行に大変反省しています。これは悪いカルマというか自業自得の罰なのでしょうか?それとも想像主が与えた幼少期のトラウマに向き合う課題なのでしょうか?教えていただけましたら有り難いです。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず、note記事悪いカルマの解消法に書いた通り、カルマというのはすべからく克服すべき課題であり、創造主が我々に自発的な成長を促すために与えているものであって、決して悪行の罰として与えられているものではありません。

人生というのはすべからくあなた次第に作られています。しかし過去に起きた悪い出来事を「全て自分が悪いせいで与えられた罰だ」と考えて自分を責めるのは誤りです。

ゲームのバイオハザードでゾンビが出てくるのはあなたのせいでしょうか?それはあなたを主人公とするゲームの初期設定なのです。カルマとは創造主からあなただけにアレンジして与えられた有難い課題(シナリオ)なのです。創造主は全知全能なのですから、失敗・過ちを犯さないように人間を創ろうと思えば造作もないことです。しかし創造主は我々が学び成長する喜びを与えるために敢えて失敗・過ちを経験させてくれているのです。

真理とは概念に過ぎず、経験を伴って初めて意味を成すものです。真理そのものに価値があるのではなく、真理を目指す中で失敗と試行錯誤を繰り返す我々の経験にこそ本当の価値があり、それが真理を価値ならしめているのです。いきなり正解(真理)に辿り着いては意味がないのです。あなたのその「神への不敬」という失敗経験はとても価値のあるものだということです。

そして別な方の質問片思いの存在意義に詳しく書きましたが、全知全能の創造主からすれば自分を愛するように人間を創ることなど造作もないことです。でもあなたがクリエイターだとして、自分を愛するようにAIをプログラムしてそのAIから愛されて嬉しいでしょうか?そもそもそれは愛と呼ぶことすらできないでしょう。

自由意志というのは愛(感情)を存在価値ならしめるために人間へ与えられたものであり、わざと他人(神々も含む)の思い通りにはならないように作られているのです。感情を他人が強制できてしまったら感情自体に存在意義がなくなってしまうのです。

最初から神を信じるように人間を創ったら信心に存在意義はなく、信じないというネガティブな選択がデフォルト設定になっています。神は科学的に存在証明されないように周到に世界を作っています。証明されたら「信じる」ということに価値はなくなるからです。創造主は宗教に間違いを犯させ、また宗教を利用した詐欺などを横行させて、神を信じる人間は気違いだとすら思わせます。そういう中で人間が自由意志により自発的に信心を起こすからこそ信心には存在価値が生まれ、神々は嬉しくなれるのです。

あなたのその「神への不敬」による失敗は、あなたを自発的な信心へと導くものであり、あなたは導きのままに信心を起こせば良いのです。過去を悔いて反省などする必要は全くありません。それはnote記事反省してはいけないに書いた通りです。与えられた課題・経験(失敗と試行錯誤)に感謝しながら課題を克服していくことです。

問題は必ずしも解決しなくても良いのです。その問題を喜んで受け取って、それを人と共有し合い・許し合い・補い合うことで、問題はいつの間にか問題にはならなくなっているものなのです。そしてその問題は愛のマテリアルだということに気づかされることでしょう。それはnote記事問題は解決しなくていいに書いた通りです。

トラウマは「許し」によってのみ克服が可能なものです。「許し」とは創造主が人間のみに与えた最大の権限移譲であり「愛」そのものなのです。僕らは「許し=愛」を経験するために生まれてきたとも言えます。

あなたに起きた全ての出来事は主人公であるあなたにとって必要(ベスト)だから起きたことであり、過去は全て現在のあなたの人生というRPGの伏線(必然)なのです。全ては壮大な因果の中にあり、それぞれが自らのカルマと戦いながらベストを尽くした結果(やむにやまれぬ事情があった結果)で起きたことです。

人の悪い言動・行動はすべからくトラウマ(心の傷)が原因なのですから、その自分と他人の心の傷を思いやり、自分と他人の過去の悪い言動・行動(過ち)を一つ一つ許していくことです。鬱克服のカギは自分と他人を責めるのを同時にやめて許すことです。あなたを責めているのは神ではなくあなた自身だということに気づいて下さいね。そして欠点や過ちというのは我々が許し合い・補い合い・愛し合うためのマテリアルだということを忘れないで下さい。欠点や過ちは人間に例外なく与えられているものであり、それを理由に人を許さない・愛さないというなら許される・愛されるに足る人間など存在しません。

あなたの幼少期のトラウマがどのようなものだったかはわかりませんが、それをもたらした相手や自分自身を許すことができたなら、あなたもきっと神々から許されることでしょう。

人はみな創造主の分身であり、創造主はあなたに自分と他人のその尊さに自ら気づいて神のように大切に扱って欲しいのです。自分も他人も等しく創造主の子供として許し合い尊敬し合い感謝し合い愛し合って欲しいのです。そうすることが我々に全てを与えてくれている創造主に対する愛の表現であり、あなたがそれを発揮した分だけ必ず創造主の分身たるあなた自身に期せずとも返ってくるのです。

どうか既に与えられているものの価値に気づいて一つ一つ感謝してみて下さい。与えられたものに対して感謝できない人間には、何を与えても不平不満で返されることが自明なので、創造主はより多くを与えようとは思わないのです。そして逆に与えられたものまではぎ取られ続けて失い続けることで、与えられていたものの価値に気づかされるような悲惨な人生になってしまいます。

いつも言っていることですが、自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。本当の意味で大人になるということは、自分にとって都合の悪いものも(自分に与えられた課題・経験だと)愛せるようになることなのです。

2022年8月28日日曜日

この世界は人間農場?

【質問】
真也さんはヴォイニッチ手稿についてご存知ですか?こちらのブログで言っているような上位世界やプラグが抜けた感覚はありますか?(二十代前半男性)
「人間電池コードのつながる先」
https://ameblo.jp/nadarra0835/entry-12751560910.html
https://ameblo.jp/nadarra0835/entry-12751518042.html

【回答】
ヴォイニッチ手稿の存在は知っています。プラグが抜けた感じとかはないです。

大変失礼ですが、基本的に僕の質問箱は「悩み相談室」であって、暇つぶしではないのです。とりあえず「〇〇についてどう思いますか?」と聞くのなら、「質問者さんがどう思うのか」「どこがどうわからないのか」がわからないと、こちらも何を切り口にどう語っていいかがわかりません。言い方が悪くて大変申し訳ないですが、なぜいきなり僕がそのスピ系妄想ブログを読まされて一方的に感想を求められるのか意味がわかりません。

何度も書いてますが、この人生というRPGは愛と勇気を試すためのものであり、ありとあらゆる存在があなたを脅し不安にさせ、また怒らせてきます。そうでなくては愛と勇気は試せないからです。

主人公(メシア)の仕事は、人を安心させること・勇気づけることです。(他人事みたいに思わないで下さい。この世界はログインしている時点であなたも主人公です)

件のブロガーのように不安を煽る人はマトリックスのエージェント・スミスのような脇役・悪役を無自覚にやらされているのであって、それに影響されて不安に陥るということはもうその一員になってしまっているも同然なのです。ヴォイニッチ手稿の内容は誰も全く解読できていないのに、勝手な妄想で「この世界は人間農場である証拠」みたいに不安を伝染するのですから。

人生、辛い事が多いからって不平不満ばかり言って恨みで返して、この世界を牢獄・罰ゲームみたいに解釈するから、実際あなたの世界は本当にそうなってしまっているのでしょう。あなたの世界はあなたの解釈が作っているのです。

実は新約聖書にも人間に対して「収穫の時が来た」などという表現よく出てきます。それって「人間農場」そのものですよね?神はいったい我々を育てて何を収穫しようとしているのでしょうか?それはエネルギーではありません。自分でエネルギーを生むことなど造作もない全知全能の神が、人間を電池にしてエネルギーを得るなんて非効率で意味のないことをするわけがないのです。

全知全能の創造主は当然全ての真理を知っています。真理に価値があるのなら全ての真理を知っている創造主にとってこの世界を創る意味はありません。経験を伴わない真理は単なる言葉であり何の存在価値もないのです。愛も経験しなければ概念に過ぎないのです。

真理・愛に至るまでの様々な経験(失敗・紆余曲折・試行錯誤・成長)こそがドラマ・芸術であり、存在価値があり、創造主に存在意義を与えているのです。つまり創造主は我々の経験を自らの存在意義として収穫しようとしているのです。

あなたがクリエイターなら、自分を愛するようにプログラムしたAIから愛されて嬉しいでしょうか?それは愛と呼ぶことすらできないでしょう。全知全能の創造主が強制的にやらせたら人間に感情や自由意志を与えた意味はありません。そしてデフォルトで「愛さない」というネガティブな選択をするように作られているからこそ、愛には価値が生じるのです。愛だけでなく、人間はデフォルトでネガティブな感情を選択してしまうように作られているからこそ、それを乗り越えてポジティブな感情を選択することに価値があるのです。

体は感情の楽器です。腹は立ったりムカついたり、胸はつかえたり締め付けられたりして人間は出来事に対して感情を音のように波動で感じます。当然放っておけばネガティブな出来事があればネガティブな波動(感情)を生じます。感情は受動的なものです。放っておけばどんどんネガティブな方向に感情が流され、どんどんネガティブな出来事を引き寄せる悪循環にハマってしまいます。そのような感情に流される「出来事の奴隷」になってはいけないのです。

だからこそ我々は普段から自分なりにネガティブな事が起きても自分の成長の為に与えられた試練なのだとポジティブに解釈して乗り越えるように、能動的に自分を日々作り上げていく必要があるのです。自分という楽器を調整し、どんな時も美しい旋律を奏でられるようにいつも調律しておくことです。何が起きてもいつでも心からの笑顔でいられるように考え方の方を修正していくことが、成長するということなのです。

毎回言ってますが、自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも自分の成長のために与えられたものだと愛せるように成長していくことなのです。

実際、支配者層が金という手段で人々からエネルギーを吸い上げる世界のピラミッド化・人類奴隷化が究極まで進んでいるのは事実ですが、それはこの人生というRPGの設定なのです。世界を救うRPGはディストピアから始まらなければ成立しません。人類奴隷化計画が完成一歩前まで進むことは、大逆転劇(アセンション)前に必要なフラグなのです。あなたが目の前の人を救いそれが連鎖することで世界は救われるようにこのRPGは作られているのです。

「人間農場」結構じゃないですか?人生を与えられたことに感謝し、創造主に存在意義を与えて喜ばせるため、最後の一瞬まで人生経験・成長の物語を楽しみましょう。それが我々自身の存在価値を高めるのです。我々は創造主の一部なのですから当然です。

2022年8月27日土曜日

人生は自分で決めてきたの?

【質問】
数年前から喋る事が出来なくなってしまいました。喋れないというよりも喋ろうとすると舌に力が入って上手く言葉を発する事が出来ません。仕事も出来なくなり、一時は生きているのが凄く辛くて波動もかなり下がっていました。(今はこの出来事のお陰で目覚められたので感謝しています) 

これは自分で引き寄せてしまったのか?カルマなのか?自分でブループリントに書いてきたのか?…と頭の中をグルグルしています。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕も一時的ではありますが究極にストレスが溜まった時に声が出せなくなりました。きっと思ったことが言えず、心が納得していないことに無理やり自分を従わせなきゃいけない環境に長くいることで魂が抑圧されてストレスが限界に来ていたのでしょう。僕も結局鬱で仕事も止めました。ので、お気持ちお察しします。そして今は目覚められたとのことで、それに貢献できたのであればとても嬉しいです。

>自分で引き寄せてしまったのか?カルマなのか?自分でブループリントに書いてきたのか?
はい。全部正解です(笑)

(アバターである今生の)自分が引き寄せることも含めて、(高位自己である)自分が青写真を描いて来たのであり、それはカルマ(今生で克服すべき課題・シナリオ)でもあるのです。

創造主は存在意義もなく生じた思念体であり、唯一の存在のために究極に孤独で、全知全能のため究極に退屈です。そこで創造主の作り出した存在意義は愛なのです。愛は経験を伴わなければ概念に過ぎず存在意義がありません。

創造主は愛を経験するために敢えて自分が創造主であることを忘れ、自分が作ったRPGをアバター(主人公)に入り込んで、それぞれの見地からそのシナリオ・経験を楽しんでいるのです。

一度クリエイター目線であなたの人生を見てみて下さい。あなたが小説のシナリオを描くとして、最初から最後までただ幸せなだけのシナリオを描くでしょうか?そんなの少しも面白くないですし、そもそも不幸を経験せずに幸せを経験することはできません。だからあなたは自分という主人公に困難な課題(カルマ)を与え、それを乗り越え続ける成長の物語にするはずです。そして実際にそうなっているということです。

人生というRPGは成長の物語ですから、愚かで何もわからず最弱のレベル1の状態から始まるのは当たり前です。最初から賢く強く答えが全部わかっていたら答えを見つける喜びも成長する喜びもありません。最初から視聴者全員が正解を全部知っているクイズ番組には存在意義がありません。解答者がいきなり答えを出したら何も面白くありません。みんなが自分なりの答えに至るまでのたくさんの失敗・紆余曲折・試行錯誤の経験にこそ価値があるのです。

人生はネットゲームの如くログインしている時点で主人公なのであり、そのプレイヤーであるハイヤーセルフは創造主の分け御霊なのです。与えられたものに不平不満ばかり言い、様々な困難を恨みで返すような主人公がクリエイターやプレイヤーに愛されるわけがありません。プレイしたいと思われるわけがありません。脇役として下位次元の存在に任せて自動運転状態にされてしまいます。でもそこからの逆転劇だからこそ人生は面白いのです。僕の人生はまさにそうなっています。不幸が大きければ大きいほど乗り越えた時に感じられる幸せは大きいのです。カルマが重ければ重いほど、それは乗り越えれば大きな財産となるのです。それは「悪いカルマの解消法」に書いた通りです。

カルマがとても重く、現在大きな不幸に直面している人に「それも幸せになるために必要な過程なのです」「すべては創造主の愛によって与えられたものです」「すべては自分次第にできています」などと言うのはとても心苦しいのですが、それは思いっきり事実なので創造主の代弁者(預言者)としてそう伝えないわけにはいかないのです。

実際に会っていない・直接知らない人はNPCのようなものです。あなたが主役のゲーム上でNPCに起きることは設定であり、仮想であり、「そういう物語の設定なのだ」と思って下さい。そして実際に出会った人の幸せに貢献することに全力を尽くして下さい。乗り越えた不幸の大きさの分だけ出会った人に優しくなれる素敵な人でいて下さい。それは必ず指数関数的に連鎖していつか世界が救われますから。この世界が不幸なディストピアなのはRPGなのですから当たり前であり、あなたが幸せにするためにわざと不幸多く作られているのです。

プログラムされたこのRPG世界に偶然は一切なく、あなたに起きたこともすべて必然であり、設定であり、必要な過程なのです。自分自身も他人も一切責める必要はありませんし、後悔する必要もありません。すべてベストなことが起きているのです。自分の欠点や過去の失敗などつらい体験も全部成長の為に必要だから起きたことだと自分を許し、他人も許し、運命に感謝し、お互い前を向いて生きて行きましょう。

どこまでが仮想現実?

 【質問】
仮想現実は、この地球だけなのでしょうか?
それとも死後の世界や、他の星に生まれた所も全て仮想現実なのでしょうか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

仮想現実が何かという定義にもよりますが、「存在」の本当の姿は全て思念体である創造主のみであり、そこは僕らが目を閉じた時に垣間見れるような、思念・概念しか存在しない世界です。僕らはその創造主の思念・意識を分離された分け御霊です。それが人間というアバターを与えられて仮想現実を経験させてもらっているのであり、我々分け御霊の分離意識(自分というものが存在し、他の存在とは違うものだという意識)・自意識自体が仮想のものですから、その僕らが経験しうる全ては(僕の定義上)他の銀河でもあの世でも丸ごと仮想現実ということになります。

我々の分離意識がなくなれば我々は創造主そのもの(完全なワンネス)に戻ってしまいます。その創造主の思念・概念のみの世界こそが本物の現実と言えるでしょうが、全ての存在が完全に一つに戻ることはありえないことなので、本当の現実がどういう世界かを考えることにあまり意味はありません。創造主は唯一の存在で全知全能であることが究極に退屈で孤独で存在意義がないからこそ我々(分離意識)とこの物質世界を創ったのであり、また完全なワンネスに戻るようなことをわざわざすることはありえないのです。

分離意識はそれぞれ個性を与えられ、欠点があり過ちを犯す存在だからこそ、それを補い合うことで愛は生まれます。創造主の思念しかない状態では愛は生じ得ません。元々の姿は創造主の魂であり光そのもののような存在です。それは完全な智慧の光です。それは細かく砕かれ、磁石のように極性と波動を持ち、お互い引かれたり反発したりします。その引力こそが愛であり、それは反発力があることにより存在意義が生まれているのです。だから通常人は反発するのがデフォルトなのです。

分離された我々にはちょうど一つの小麦粉の塊を製麺してから粉をまぶして簡単には一つにならないようにする感じで無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)が与えられています。簡単に一つに戻ったら分離した意味がなくなるのです。

我々が砕かれた磁石のように個性を保ちながら数珠つなぎにまた一つ(ワンネス)に戻っていく過程が物語であり芸術であり我々の存在意義なのです。完全なワンネスには戻れませんし戻る意味もありません。与えられた自分と他人の個性を尊重し、許し合い補い合い愛し合うことが我々の存在意義です。そしてそれは流れる砂絵の如く永遠に繰り返されるのです。

我々がまた一つになるためには無明の闇(エゴ・愚かさ・迷い・霊障・不完全性)を乗り越えることです。エゴが完全になくなったら分離意識がなくなり完全なワンネスになってしまいますから、それはありえません。エゴなくして愛は生じ得ないということです。だから完全にエゴがなくなることはありません。だからこそ我々は全力でエゴとは反対方向に向かうことができます。それが愛なのです。己のエゴを極力下げて他人のエゴを満たしてあげることです。その連鎖が我々を数珠つなぎにまた一つにするのであり、その過程に生まれる物語こそが、存在意義なく生まれた創造主に存在意義を与えられているのです。我々は創造主に存在意義を与えている偉大な存在なのです。

だから我々はこの世界に自分として生まれたことに感謝しながら、成長の物語・愛の物語を楽しむことです。感謝するほど、成長するほど、愛し合うほど、創造主により存在意義を与えてより愛されて、自分自身も出会ったみんなもより幸せになるのです。全ての存在は一つであり創造主なのに好き嫌いを言えば創造主の愛から離れることになります。それで人生がうまくいくわけがないのです。あなたが出会い認識し思考・想像できるすべてが(あなた自身も含めて)その正体は創造主なのであり、例外なく愛することです。

あなたが嫌だと思うものもあなたの成長のために与えられている課題であり、それを経験させてもらえていることに感謝しながら愛することです。全ては創造主の愛によりあなたにベストなものが与えられているのです。それを不平不満で返すと創造主の愛が受け取りにくくなるのです。創造主は僕ら自身でもあり、与えられたものに感謝できないような人間に、もっと与えたいとは思わないのです。今あるものに感謝できないなら、既に与えられたものまではぎ取られてその価値を思い知らされるような悲しい人生になってしまうでしょう。

いつも言っている事ですが、自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも愛せるように成長していくことなのです。

2022年8月25日木曜日

霊と憑依体質の存在意義

 【質問】10代女性
憑依体質で低級霊に憑かれやすい人はどうしたらいいのでしょうか?
また憑依体質とはなぜ存在するのですか?

この記事はnoteに移行しました。
https://note.com/shinyays/n/na570d764e0ab

2022年8月20日土曜日

片思いの存在意義

 【質問】
真也さん、いつもありがとうございます! note、ツイッター、質問箱を繰り返し読ませていただいてます。色々な気づきがあって、起こる現象を前向きに捉えられるようになりました! 

質問があるのですが、片思いはどのような意味があるのでしょうか?

【回答】※9月5日更新
ご質問ありがとうございます。

それを理解してもらうためには創造主がどういう存在なのか・感情とはどのような仕組みになっているのかをかなり深く理解してもらわないといけなくなるため、説明がとても大変な上に伝わるかどうか全くわからないのですが、いつも通り全力でトライしてみます。

創造主は存在の全てであり、全知全能で全てが思い通りになる存在です。それがどれほど退屈なことかを我々に想像することは難しいのですが、例えば何かのRPGにおいて主人公であるあなたが全知全能だったらどれほど退屈でしょうか?すべてのルール(設定・制約)やシナリオや登場人物などすべてが無意味になり、結局それらを一から自分で再構築しなければならなくなります(つまり自分がプレイヤーではなくクリエイターになります)。それを考えれば少しはイメージできることでしょう。

僕らは創造主の分け御霊であり創造主の一部なのですから、深く瞑想したり明晰夢を見ればそのような全知全能の魂の記憶を垣間見ることができたりします。また臨死体験で何でも思い通りになってすぐつまらなくなるという経験を話す人は結構多いです。何でも思い通りになることが楽しめるのは思い通りにならない経験を思い出せるうちだけです。我々の「思い」自体が、思い通りにならないこの世の経験を起点にして構成されているものであり、それがなければ思いは生まれないのです。

僕らは思い通りにならない人生を経験し、魂の成長を楽しむために生まれてきているのであり、そのためにわざと世界は制約だらけになっており、人間には能力に制限があって、欠点が多く必ず過ちを犯すようにできています。それが個性の基盤です。「宇宙の仕組み」の冒頭に書いた通り、自分で作ったRPGは全てを忘れた上でレベル1から始めなければ楽しめないのです。

唯一の存在である創造主にとって他の存在は存在しないので、そのままでは愛したり愛されたりはできません。そもそも欠点がなく過ちを犯さない存在なので、愛を必要ともしません。欠点や過ちは愛の必要条件なのです。創造主は自らの存在意義として愛という概念を生み出し、それを経験するためにこの世界を創ったのです。

そして意識を無数に分離し、神々や人間などのアバターを創って自分が創造主であることを忘れ、欠点がたくさんあってたくさん過ちを犯す次元の低い存在として、そしてそれらを許し合い助け合い愛し合う存在として、それぞれの見地から愛・成長の物語を楽しんでいるのです。もちろんそれはあなた自身もあなたが出会う人々もあなたの知る神々も同じです。

どんな概念も経験が伴わなければそれは言葉に過ぎません。愛も経験が伴わなければただの言葉です。創造主は自らが生み出した愛という概念を自ら経験するために人間と世界を生み出したのです。あなたの人生=愛であり、世界はあなたが自分=愛を経験するためにあるってことです。

決して次元が低い=存在価値が低いということではなく、すべての存在がひとつなぎで等しく価値があるのだということは大事な点なので忘れないで下さい。神々に存在価値があるのはそれを尊敬し感謝し愛する人々がいるからであり、それは人間同士の関係においても同じだということです。

さて、インド神話にこんな話があります。宇宙の創造主であるブラフマーがサラスバティーを創り、そのあまりの美しさに妻に娶ろうとしたのですが、父親と結婚などしたくないサラスバティーは逃げ続けます。しかしブラフマーは自らの顔を四方に増やし、常にサラスバティーを見れるようにして地の果てまで追いかけます。そしてついにサラスバティーは観念してブラフマーの求婚を受け入れたのでした。

全知全能の創造主からすれば自分を愛するように人間を創ることなど造作もないことです。でもあなたがクリエイターだとして、自分を愛するようにAIをプログラムしてそのAIから愛されて嬉しいでしょうか?そもそもそれは愛と呼ぶことすらできないでしょう。

自由意志というのは愛(感情)を存在価値ならしめるために人間へ与えられたものであり、わざと他人(神々も含む)の思い通りにはならないように作られているのです。感情を他人が強制できてしまったら感情自体に存在意義がなくなってしまうのです。(だから誰かに愛されなくてもそれが初期設定であり起点なのですから凹む必要はないのです)

最初から神を信じるように人間を創ったら信心に存在意義はなく、信じないというネガティブな選択がデフォルト設定になっています。だから神は科学的に存在証明されないように周到に世界を作っています。宗教に間違いを犯させ、また宗教を利用した詐欺などを横行させて、神を信じる人間は気違いだとすら思わせます。そういう中で人間が自由意志により自発的に信心を起こすからこそ信心には存在価値が生まれ、神々は嬉しくなれるのです。

そして我々は先ほどのサラスバティーの例のように「愛さない」という選択がデフォルト設定に作られているからこそ愛には価値があるのです。尊敬や感謝などポジティブな感情というのは全てそのようになっています。やはり「尊敬しない」「感謝しない」というネガティブな選択がデフォルトなのです。

繰り返しますが他人が感情を強制できたら感情に存在意義はありません。だから感情というのは他人から強制されると必ず反発するようにできているのです。例えば「私を愛しなさい」「私を尊敬しなさい」「私に感謝しなさい」というように言われたら逆の感情が湧きますよね?もちろんそこまでダイレクトに感情を他人に強要するような愚かな人はなかなかいないでしょうが、みんな無意識かつ遠回しにやっているのです。我々は家族や恋人に愛情を当然の権利のように強要していたり、自慢話をして尊敬を強要していたり、「〇〇してあげたのに」などと恩着せがましく考えて感謝を強要していたりするように初期設定されているのです。人間は愛(尊敬・感謝)を求めて生きるようにプログラムされているのですから、これは宿命と言って良いでしょう。それは神々でさえそのように作られているのですから、愛(尊敬・感謝)を求める本能を否定することは誰にも不可能なのです。「無意識に感情を相手に強要してしまう」多くの人間関係の問題の根幹はここにあると言って良いでしょう。

じゃあどうすれば良いかというと「誰でも自信満々になれる方法」に書いた通り、愛(尊敬や感謝などのポジティブな感情)というものを絶対に相手には強要せず、一切見返りを求めずに無条件で自分から与え続けることです。そうすることで自然と人から自発的に愛され尊敬され感謝されるようになるのです。

あなたが出会う人はきっと許しがたい人、尊敬しがたい人、感謝しがたい人、愛しがたい人が多いことでしょう。でもそれはあなたの成長のために与えられた課題であり、それを一人ひとり克服するのが魂の成長なのです。あなたが出会う人の正体はすべて創造主の分身であることを忘れないで下さい。そしてあなた自身も本当は創造主の分身なのですから、自尊心を高く持つと同時に、出会った人を同じように尊敬して出会いに感謝して愛して下さい。

反省してはいけない」に書いた通り、「どうせ自分なんて」などと考えると行動のレベルが下がってますます自己嫌悪に陥るので、決して自分の自尊心も相手の自尊心も下げずに、どうやったら自分と相手の自尊心が上がるかを考えて実行・改善し続けて下さい。そうすれば必ず人から愛されますし、自分でも自分を好きになります。

片思いというのが過剰に苦しくなる理由は他者評価依存による自尊心の低さなのです。自分自身を愛せていないのに自分の好きな人に愛されることによって自分の自尊心を満たそうとしても決してうまくいかないのです。エゴによって自分に都合の良いものだけを愛そうとし、出会うすべての存在・出来事を許し愛せないなら、すべての存在の根幹たる創造主の愛を十分には受け取れないのです。

創造主曰く、この世界は自分で自分に都合の良い相手を探して選ぼうとするとうまくいかず、ただ無条件で人を愛した方が自然にベストな人から選ばれ結ばれるようにできているそうです。すべての縁は創造主が与えているものですから当然ですね。だから創造主(すべての存在)に愛されるような生き方をした方が素敵な縁に恵まれるのでしょう。このあたりは今独身で修行中の僕が言うと全く説得力がありませんけども。

恋がうまくいくかいかないかは最初から決まっていて、成就する時は(わざとダメにするようなことをしなければ)どうやっても成就しますし、成就しない時はどうやっても成就しないなのです。でも向こうから来ない場合はこちらから行かない限り確実に成就しません。だからウジウジ悩むよりとりあえず行くべきなのです。それはいきなり告白するという意味ではなく、コミュニケーションを取るという意味です。それだけでどうやったって好意は伝わりますから。

存在の全ては創造主であり、ひとつなぎ(ワンネス)なのです。なのに自らの愛情に条件をつけて身勝手に好き嫌いを言うから逆に他人から条件を付けられて愛から弾かれるのでしょう。創造主の愛は基本的に人を通じて与えれるものであり、自分に都合の良いものだけを愛そうとすると創造主の愛が十分に受け取れなくなるのです。

全ての存在の大元(デフォルト)は無限の可能性が無限にあるだけの、まるで芸術の素材だけが無限にあって芸術が存在しないような、とてつもなく退屈で無意味な世界です。可能性というのは結実点があって初めて意味を成すものであり、それを意味によってつなげたものが芸術なのです。

この世界は芸術を創るためのものだとも言えます。芸術が世界の存在意義を成しているのです。人生とは芸術そのものであり、全ての要素が無限では芸術には成り得ません。芸術とは人々に共通して与えられたルール(制約・可能性の制限)と可能性の結実によって作られるものなのです。これは素材を削って作る彫刻のような芸術を思い浮かべればわかるはずです。ただ素材(可能性)が無限にあるだけでは意味がないのです。

物質世界というのは人々に共通した制約(ルール)を与えて、可能性を結実・事象を具現化することで様々なドラマを生み出し、そこを起点に更に想像を広げさせて精神世界を豊かにするためにあるマテリアルなのです。

人々に共通ルールがなくてはドラマは生まれませんし、他者と何も伝達・共有することができません。トランプにしても共通のルールがあるから楽しめるのであって、一方がポーカーをやってもう一方がブラックジャックをやるというのでは成立しません。そして制約(ルール)がなく全知全能のままでは、思い(想像)を広げる起点すらがなく、存在意義のない無限のカオスになってしまいます。

だから前述の通り、元々の世界は思い通りになるのがデフォルトであり、そのままでは全ての存在に意義がなく退屈なだけなので、思い通りにならないように作られているのです。片思い(思い通りにならない経験)があることにより、両想い(願いが叶う経験)に価値が生まれているのです。この世界のすべては陰陽のように二元的に存在するものであり、両想いに価値があるなら片思いにも価値があるのです。片恋の痛みにはちゃんと意味があり、両想いになった相手をより大切にするようになるとか、人の悲しみや痛みに同情してより愛し合うことができるようになるとか、成長の為に与えらえているものなのです。そしてそれゆえに人生は芸術として成立しているのです。

そして人間はみんな個性(欠点と過ち)のある存在であり、憧れの人であればあるほど実際に付き合ったら大なり小なりそのギャップに失望するものです。片恋で終われば相手が年老いて醜くなっていく姿も見ないで済むわけで、それは自分に都合の良いものしか愛せないような人にとってある意味では幸いなこととも言えます。

片思いをしていれば実際のその人を起点に様々な想像を広げることができます。それが人の精神世界を美しく豊かにしているのであり、憧れには価値があるのです。それは「相手を自分にとって都合よく理想化して勝手に憧れる気持ち」というただのエゴのようでも、実は価値があるものなのです。思いが叶うばかりが幸せなことではありません。失恋すればそれと引き換えに憧れ(豊かな精神世界)が手に入ると考えて下さい。現実のその人よりあなたのイメージの方が絶対に美しいのですから。

そして現実のパートナーを創造主が与えてくれたベストな運命の人だと信じ、ひたすら尽くして相手と自分の自尊心を同時に上げ、相手を世界で最高のパートナーにして下さい。そうすればきっとお互いに世界一幸せになります。決して身勝手に現実のパートナーと憧れの人(自分の勝手な想像の産物)を比べて不平不満を言いませんように。「恋敵 譲れば良かった 今の妻」というサラリーマン川柳みたいな人生になりませんように。相手の欠点や過ちはあなたがそれを許し補い愛するためにあり、あなたに存在意義を与えているのです。

何度も言いますが、全ての存在はワンネスなのであり、パートナーはまさに自分の鏡であり、その人に段々幻滅したりするのは自分の成長が足りないからです。人間は歳をとって醜くなるほどより純粋な愛情を必要とする生き物であり、決してSEXや結婚などをゴールだなどとは考えず、成長を続けなければならない(愛を与え続けなければならない)定めなのです。

因果は時空を超えたものであり、常に上書き更新が行われています。もしあなたの恋がずっと実っていないのだとしたら、過去や未来で現実のパートナーと勝手な憧れ像を比較して欠点や過ちを責めて不平不満ばかり募らせて不幸にするような人だからかも知れません。

もしそれを悲しい事だと思うのであれば、魂のトレーニングだと思って出会った人を(恋愛とは関係なく)無条件で例外なくひたすら愛する日々を重ねて下さい。すべての正体は創造主であり、好き嫌いを言っていると全ての存在から愛されなくなります。周囲の人から愛されないことで自尊心が下がっているのを全部恋人に補ってもらおうとしても無理があるのです。

愛情に条件をつけて自分に都合の良いものだけを愛そうとすると、自分も他人から条件付きでしか愛されなくなり、いつか都合が悪くなれば捨てられて孤独に陥るのです。自分に都合の良いものは赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも含めてすべてを愛せるように成長していくことなのです。

実るばかりが恋ではありませんし、片思い・失恋も価値がある経験なのですが、あなたは年齢を重ねてもただ単にエゴで己の想像をたくましくしてよく知りもしない異性に勝手な妄想で憧れ、拒絶され失望させられ孤独になるために生まれてきたのか、欠点も過ちもある現実の人間(他人=自分)を心から愛し抜いて幸せになるために生まれてきたのか、よくよく考えて、幸せな人生にして下さいませ。

2022年8月14日日曜日

自然災害の予言

【質問】
富士山は最近爆発の兆しがあると聞きましたが、それは本当ですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

まず僕は預言者(神の言葉を預けられている者)であって予言者(占い師・予想屋)ではありません。

災害の日時の予言なんてまったく意味がないのです。なぜなら人の寿命というのは生まれる前から決まっていて、せいぜい死因が何になるかの違いしかないからです。キリストも「あなたたちが何を心配しようとあなたがたのうちの誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。こんなごく小さな事さえできないのに、なぜ他の事まで思い悩むのか」というように言っていましたが、まさにその通りなのです。

僕らがあらゆる病気や事故などで死ぬ確率を全部合わせたらとっくに死んでいます。というか確率で考えたら生まれていませんし、この世界自体が生じていません。我々は創造主の愛なしには一秒たりとも存在できないのです。それなのに信心を持たず、理由(使命・存在意義)があって「生かされている」ってことに対して感謝と信頼の念がないから不安になるのでしょう。

もちろん災害対策というのは必要なものではありますが、災害以外の理由で明日死ぬかも知れませんし、どっちみち人間は例外なくいつか死ぬわけで、当たるか外れるかわからないたくさんの占い師や予想屋を頼って恐れおののいて右往左往しながら対策を講じるなどいうのは馬鹿げた話です。

僕は決して占いなどを否定しているわけではありません。ただ占いっていうのは本来人を幸せに導くためにあるべきもので、ネガティブな出来事を予想してそこに導かれるように暗示をかけるようなものは「呪い」であって占いではありません。もしその暗示通りに悪い出来事が起きたら、その後は常にその人の思いつきに振り回され、エゴに利用されることになるだけでしょう。

災害の予言というものは、「この人の過去の予言が的中していたことがわかった」と過去形でしか世間に知られないものであり、「この人の過去の予言の多くが的中していたから、この人の未来予言についても的中するに違いない」という安易な予想は人生というRPGのトラップであって、愛と勇気と信心のない人間を散々惑わせた挙句、結果的には必ずハズれるようにできているのです。この世界はRPGであり、愛と勇気と信心を試すためのものであって、エゴにまみれて臆病で信心のない人間が報われるシナリオなど有り得ないのです。実際「この人の予言が事前に世間に知られていたおかげで多くの人が難を逃れた」という例は一つたりともないでしょう。「世間に知られた災害予言は絶対に当たらない」と覚えておいて下さい。

世間に知られた予言者の予言より、予言者として世間に知られていない一般人の予感の方がよっぽど当たる可能性の方が高いのです。それは人生というRPGのプレーヤー(主人公)個人に向けて与えられる啓示なのですから、自分に与えられる直感の方を信じて下さい。

僕は天に対して災害の(具体的な日時や場所の)予言が与えられることを拒絶しています。なぜならもし災害のようなネガティブな出来事の予言なんてして実際にそれが起きなかったら、僕は結果的に嘘で人々を惑わしたことになり、オオカミ少年みたいに人々の信頼を失い、もっと大切な覚りの内容をみんなに伝えても信じてもらえないようになってしまうからです。それで僕自身は災害など起きて欲しくないのに、起きて欲しいような願いを深層心理で持つことになってしまうようになってしまうでしょう。そしてそのような願いがカルマを積むことになり、別な形でネガティブな出来事を具現化してしまうことになるでしょう。この世界の全ては我々の認識・解釈により生じているのですから、僕はただただ災害などの惨事が起きないように祈っています。ただ災害は遅かれ早かれ必ず起きるものですから、それによって大切な人が失われないように祈り、過去の災害で被災された方々の成仏を祈っています。

神通力についてに書いていますが、僕は「神通力」によってではなく「覚りの連鎖」によって世界は救われると思っています。浄霊以上の過度な神通力は、かえって人々を覚りから遠ざけます。それは奇跡ばかり求められて結局は弟子全員に裏切られたキリストの事例を見ればわかりますし、釈迦もいたずらに神通力を使うなと弟子をたしなめていたことからもわかります。人々がみんな他人である覚者の神通力だけを他力本願的に求めるようになったら、当人の覚りに向けた魂の成長を妨げてしまうのです。

例えば僕がキリストのように死者を生き返らせるような神通力を得てしまったら、今生きている70数億人がいつか必ず死ぬわけですから、大挙して人々が押し寄せて蘇生ばかりしなければいけなくなりますし、対応しきれなくて死んだ人全員が僕が見殺しにしたから死んだということになってしまいます。同様に僕が災害予言のような神通力を得てしまったら、僕が予言を伝えないことで被災した人は全員僕が見殺しにしたことが原因ということになってしまいます。そんなの僕個人で耐えきれるわけがありません。だから僕はそういう神通力を与えられることは拒絶していますし、例え与えられても人に言うことは決してありません。

僕の使命は奇跡によって一過性の命を救うことではなく、覚りによって永遠の魂を救うことです。死を過度に恐れるのは、信心がなく、魂の永遠性を信じず、命を一度限りのものだと思っているからでしょう。しかし何かに怯えながら「本当の幸せ」というのはありえません。だから僕の使命は人々の不安を取り除くことであり、愛と勇気と信心に導き、不安の元になっているエゴ・執着から離れせしめることだと言えます。

安心させることが天使側の仕事であり、不安に陥れるのが悪魔側の仕事です。人生は愛と勇気と信心を試すためのRPGであり、ビクビクして恐れ波動を出すことは無自覚に悪魔側に加担することになり、自分自身を主人公としての地位から遠ざけてNPCにするのです。

仏教では臆病を人間の最大の罪の一つとしていますが、それはやはり人生というのが愛と勇気と信心を試すためのRPGであり、主人公意識=菩提心(衆生を救う菩薩になる覚悟)を持つことがこの人生というRPGの本当のスタートだからです。

覚りが開けてくれば執着がなくなり、死だけでなく老いや病や別れや失敗など何も恐れなくなり、心に平安がもたらされます。恐れとは例外なくエゴ(我欲と保身)が根本原因なのです。僕らは真理(覚り)を求めて魂を成長させるために生まれてきています。そして人生というRPGはそのために愛と勇気と信心が試されるようにプログラムされているのです。だから僕は自分の覚りを進め、人の覚りを手助けすることしか考えていません。災害の予言なんかして人を惑わすことはそれと逆行する道なので、決してすることはありません。

どうか自然災害などネガティブな出来事が起きても、神の愛により我々の魂の成長のため・愛と勇気を試すために与えられているのだと愛で解釈して下さい。全ては神から与えられたものであり、与えられたものに不平不満や恨みで返すとより悪いものが与えられ、既に与えられたものまではぎとられる人生になってしまいます。全てを愛で解釈して感謝の気持ちで受け取れば、より素晴らしいものが与えられることでしょう。

自然災害は我々がどれだけ祈ろうと遅かれ早かれいつか必ず起きるものです。もしそれが起きたなら、勇気をもって無償の愛によってみんなで助け合うことです。そしてそれを試練だと信じて乗り越えることです。人生というRPGは全て愛と勇気と信心が試されているのですからね。

ですから最善の災害対策とは、エゴに埋没して「いつ大災害が起きて巻き込まれるだろうか」とビクビクして伝聞情報に振り回されながら対策を講じることではなく、愛と勇気と信心を発揮し、覚りを求めて魂を成長させ続けることであり、みんなで助け合い愛し合って、最後の最後まで悔いなく幸せに生きることです。

それでは、あなたの悟りの進捗=幸せを心から祈っています。

2022年6月28日火曜日

善と悪とは?

【質問】
善と悪は、いろんな立場や状況によって変わると思いますが、善行を積もうなどと言われたときにどのような善を行えばよいでしょう。また、善や悪とはなんでしようか。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

創造主曰く「正義=悪」だそうです。それはつまり善=悪ということでもあるでしょうね。正義は必然的に批判対象として何かを悪者としなければなりません。この世界のすべては二元的(相対的)にできていて、善悪は陰陽であり表裏一体の存在です。あなたのおっしゃる通り何が善(正義)で何が悪かは立場によって異なるものであり、相手には相手の正義があって、それは必ず衝突するのです。そして正義の大義名分は建前であり、必ずその陰で誰かがエゴのために利用しているものなのです。アメリカの起こした戦争なんか見てるとわかりやすいですね。でもだからといってそれを何が善行かを考えない・善行を積まない・何もしない怠惰の言い訳として使ってはいけません。

もし世界中の人が正義より愛を優先するなら、それだけで世界から争いはなくなり、みんなが救われることになるでしょう。だからそれが僕の世界救済に向けた価値観改革の核なのです。

>善行を積もうなどと言われたときにどのような善を行えばよいでしょう。

他人に言われて仕方なく嫌々やるようでは意味がありません。心に愛があれば、それは誰に言われずとも自発的に発揮せずにはいられないものなのです。愛は誰でも心の中に持っていて、それは出せば減るものではなく、発揮すれば発揮するほど連鎖的に(指数関数的に)増えていくものなのです。

愛は自発的でなくては価値がありません。そして見返りを求めればただのエゴになってしまいます。日々無償で無条件にただただ与え続けて下さい。自分が好きな人・正しいと思う人・可哀そうだと思う人、見返りが期待できる人だけを助けるのではなく、関わる人みんなを愛してそれを発揮し続けて下さい。

全ての行動においてエゴ(我欲と保身)を動機とせず、その純粋で無条件な愛を動機として下さい。そして常に正義より愛を優先して下さい。それを世界に連鎖させることができれば、あなたが真の主人公・メシアです。善悪の二元的な世界を愛一元に変えていくことが僕らメシアの使命です。

友人がスピ詐欺にハマりそう

【質問】
友人が悪質な自称スピリチュアル系の人物にハマりかけてます。
手口が巧妙で、いきなり金を取ると警戒される為、最初は信用させる為に無料で徐々に警戒心を解いて、深く洗脳し信者に仕立て上げたところで何らかの理由をつけて金を取り始めるんです。最初は少額で、段々と額を大きくしていくようです。
どうすれば友人を助け出せるでしょうか?
シンヤさんはこういう知識や教訓を他者に分け与えるのにお金を取ったりするエセ詐欺極悪スピリチュアル系の人間達をどう思いますか?

【回答】※2025年02月11日更新
ご質問ありがとうございます。

スピ詐欺は本当に増えてますね。ネット上もスピ詐欺系の広告・スパムが多くて僕もうんざりしております。

最初から高額な料金を請求すると騙しにくいのは詐欺師たちも学習しているので、大抵は無料・低料金を謳っています。しかし諸々実費がかかっているのに、それを回収しないというのはありえません。何らかの形で回収せず赤字が続けば継続しようがないですからね。最初が無料ならその分回収しなければいけない経費が嵩んでいるはずです。

今の社会は「人の存在(感情・愛)」より「お金(権力の分譲券・強制力・能力の指標)」を価値としていて、お金が生き延びるため・将来の安心のため・自尊心を保つための手段になっているのですから、悪いことをしてでもお金を稼ごうとする人がたくさんいるのは必然です。だから社会の価値観・システムを主人公である自分が起点となって変えて行かなければならないのです。それはお金の時代の終らせ方に書いた通りです。

スピリチュアル・宗教というのは、お金を目的とする時点で純粋なスピリチュアル・宗教ではなく「スピリチュアル・宗教を利用したお金儲け」なのです。もちろん必要最低限の経費を何らかの形で回収しなければ活動の継続は難しいわけですが、決してお金(費用の回収・利潤の追求)が目的化してはいけないのです。このあたりについてはスピリチュアル・ビジネスについてに書きました。スピリチュアル・宗教に限らず、我々は本物と偽物(詐欺)をしっかり見分ける目を持たなければいけません。そして世の中は偽物だらけだからこそ本物には価値があるのです。

ちなみに僕の救済活動は自己利益を目的としていないので、最初から最後まで無料です。販売も勧誘も一切ありません。自発的な寄付は感謝して受け取りますが、こちらから対価を要求することはありませんし、寄付するしないで人を差別することはありません。僕は清貧を愛していますし、乞食でも生活できていますからね。まぁ信じる信じないは相手側の自由ですけども。

今はモノが売れない時代であり、「人の悩みにつけこんで不安を煽り、それを自分たちが解決できるかのように偽ってお金を騙し取ろうする人」が増えているのは自然なことかと思います。お金を儲けるために必死なのですから、彼らも一見するともっともらしく素晴らしいことを主張しています。そうじゃなきゃ誰も騙せませんからね。しかしどんな薬も一滴の毒を含めばそれは毒なのです。


本物の霊能力というのは神々が世界を救うためにその人を通じて発揮する愛の力であり、エゴ(我欲・保身・虚栄)とは対極にある力なのです。逆にエゴ(我欲・保身・虚栄)により発揮しようとする霊能力は「呪い」の如きもので、必ず人を不幸に導くものなのです。だからその人の霊能力が本物であれ偽物であれ、それをエゴのために使おうとしている時点で、お互いに不幸になるのは自明だということです。

騙す側もエゴ動機なら、騙される側もエゴ動機なのです。「お金を払うことで霊的な問題を解決しよう」「霊能力者から霊能力を得て特別な人間になろう」などと考えているわけで、それはエゴ動機であると共に成長拒否なのですから、双方ともに負のカルマを積み上げることになり、遅かれ早かれいずれは破綻します。

霊能力というのは本来愛の力なのですから、その力が本物であればあるほど(強ければ強いほど)、それをエゴのために使うとかえって多大な負のカルマを積み上げることになるのです。例え今生ではうまく儲けて逃げ切れたとしても、魂は永遠ですから、いずれ必ず清算する時がきます。どれだけ時間差があったとしても、因果応報という宇宙法則は絶対なのです。

本当に神を信じて守られているという確信があったら虚栄や将来の不安や自尊心のために蓄財する必要などなくなりますから(実際僕は貯蓄ほぼゼロです)、清貧でない霊能者に本物の信心などあるわけがありません。愛よりエゴを圧倒的に優先するプロセスにいるのは明白でしょう。キリストが「神と金の両方に仕えることはできない」と言った通りです。それに騙されるのは、金を払って自分(信者)だけが救われればいいというエゴが愛より圧倒的に強いプロセスにいる人たちなのです

さて、なぜあんなにも胡散臭いスピリチュアル・宗教の詐欺にハマる人がいるのでしょうか?それはみんな自尊心を病んでいて鬱状態だからです。現代の競争社会において、今はみんな他者評価に依存させられ、自尊心が下がるように社会的に洗脳されているので、必然的にみんな(程度の差こそあれ)心を病んでいるのです。

人の価値とは?に書きましたが、今の社会ではお金(を稼ぐ能力)が価値とされていて、人の存在そのものが価値とされていません。みんな「お金を稼ぎ続け、能力を他人に認められ続けなければ、自分の価値が認められない・社会から排除される」と考えるようになって他者評価依存になっています。しかしそうなると自分より高い能力の人を知ったり、何かに失敗したり、自分の能力の衰えを感じたりする度に自信を失うことになります。能力を自身の根拠とすると自信を失い自尊心の病気になるのは必然なのです。精神疾患の多くは自尊心の病気(自己嫌悪)であり、その友人も自尊心を病んでいるのです。だから相手が詐欺師であろうと何だろうと、とにかく自分の存在を承認してくれて自尊心を高めてくれる人に依存するのです。そして霊能力を手に入れることで自尊心を満たそうとしているのです。それはエゴなのですから、うまく行くわけがないのは前述の通りです。

今の世の中、自尊心というものを「他人より優位を示すことでしか満たせないもの」だと勘違いしている人ばかりであるがゆえに、他人からの評価によって常に自尊心を揺るがされて余裕のない人ばかりです。みんな能力に自信がないために「自分は正しい」ということを価値としなければならなくなり、そのために常に他人の欠点や過ちをあげつらって責めなければならなくなっているのです。そしてそれが鏡のように自分に返って来て結局お互いに自尊心が下がるという「負の無限循環」を起こしているのです。だから誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、お互いの自尊心を上げ合う世の中を、主人公である自分がその起点となって実現していかなければならないのです。自尊心と他尊心は正比例するものであり、同時にしか上がらないものだと知って下さい。

そして自尊心のレベルと行動のレベルは正比例するものであり、悪癖のある人というのは、それが悪いと知らないのではなく、自尊心が低くなっているために「どうせ自分なんて・・・」と考えて自分を大事にできないために、その悪癖(自分イジメ)がやめられないのです。だからその悪癖がいかに良くないかを説明し、説教することによって止めさせようとしても、かえって相手の自尊心を下げ、ますます悪癖に走らせるように追い詰めていくことになります。そうなると余計に自尊心を上げてくれる人に依存せざるを得なくなり、ますます詐欺師の餌食となりやすくなるのです。このあたりの話は反省してはいけないに書きました。

人は自尊心が高くなれば、自然と悪い行動は取らなくなります。だから悪癖を止めさせようとするよりも「どうやったら相手の自尊心が高くなるか」を考えて日々実践し続けることが大事なのです。それは誰に対してもです。人の自尊心を上げるためにすべきことはたった二つだけで、
「①心からの笑顔で挨拶し、相手への承認が自然と態度に表れるようにすること」
「②相手の話を否定せず、肯定的・同情的に聞くこと」
なのです。
これは罪悪感との向き合い方など、僕が本当にいつも伝えようとしていることです。

あなたはその友人をいつも笑顔で存在を承認し、否定せずに真剣に話を聞けていたでしょうか?身近な友人を内心見下すことで、自分の自尊心を保とうとはしていませんでしたか?そういうのは態度に出て相手に覚られて自尊心を下げ、同時に自分の自尊心も下げてしまうのです。我々の魂は同一・同源であり、違う役を演じているだけで同一人物のようなものですから、他人に対する思考・行動は全部自分に返って来るのが必然なのです。


人生というのは自分を主人公とするRPGであり、クリエイターは「経験(出来事や人との出会い)」を通じて大切なメッセージに気づかせようとしてくれているのです。もうお気づきのことかと思いますが、あなたが考えなければならないことは、「他人側をどうするか」ではなく「自分がどう考え、どう実践するか」です。他人はNPC側(設定側)なのですから、あなたが直接変えようとしても決して変わらないようにできているのです。変わるべき・成長すべきは常に主人公たる自分なのです。

どうか正義より愛を優先して実践することを常に心がけて下さいね。もちろんスピ詐欺は悪いことなのですが、騙される人に説教なんかして「相手側を変えようとしても」ますます相手の自尊心を下げて嫌われ、ますます詐欺にのめり込ませることになるだけでしょう。

人生というゲームは、プレイヤー(主人公)たる自分が、失敗と試行錯誤を繰り返し、自分で納得しながら前に進むのでなければ楽しめないものなのです。その友人の人生の主人公はその友人なのであり、求められてもいないのに他人が答えを教えるのは楽しみを妨害する行為であって、相手の心が反発してしまうのは当然なのです。

だからあなたがその友人に「あいつは詐欺師だ、騙されるな」などと説得しても、きっと心が反発して嫌われるだけになることでしょう。悪い男に騙されて恋に落ちている女性に、その男の悪口を言ったところであなたが嫌われるだけで、本人が騙されていたことに気づいた後でも決して感謝されることはないのと同じ事です。

「何を信じて生きるか?」が「自分とは何者であるか?」を決めるのであり、それは人生の選択の要なのです。「何を信じて生きるか?」を他人の意見によって決めては意味がないのです。何を信じるにせよ、信じないにせよ、その結果責任を負うのは主人公である自分自身ですからね。人間にとって人生はわからないことだらけですから、人は何かを信じずに生きるということはできません。「何を信じて生きるか」という選択が「人生そのもの」とも言えます。何も信じてないと思っている人は、自分が自分の常識を信じているということの自覚さえないだけなのです。

「何を信じるか」という判断を「何が正しく何が間違っているか」というアプローチで考えると必ず失敗します。それは信じる信じないの基準に書いた通り、それを信じることによって自分も周囲もみんなが幸せになるかどうかでわかります。逆に自分も周囲もみんなが幸せになる思考・行動であるなら、それを誰かから「間違っている」と言われようとどうでも良いことです。

あなた自身は何を信じて生きていますか?それを信じることによって幸せになっていますか?自分と関わる人を幸せにできてますか?あなたに関わる人はすべてあなたの鏡であり、主人公であるあなた次第なのです。だから関わる人のカルマはすべてあなた自身のカルマでもあるということです。

あなたが何を信じているか(自身の価値観)によって、あなたが幸せそうにしていたら、あなたの周囲の人はあなたがどうしてそんなに幸せなのか気になって尋ねるようになり、周囲の人たちもそれを信じるようになるでしょう。

あなたが他人の自尊心を上げられる人なら、みんなから愛されて周囲の人も幸せになっているはずです。だからあなた自身が自分の価値観により幸せになり、周囲の人をどんどん幸せにできる人間になっていくほど、周囲の人が詐欺に遭うような問題は起きにくくなるでしょう。

その友人は「常識的な世界観」に魅力がなくて息苦しく、そこにいると自尊心が下がって自分自身が無価値に感じられて不幸だからこそスピリチュアル詐欺にハマっているのでしょう。その友人を元の常識的世界観へ無理やり引きずり戻そうとするのではなく、あなた自身が主人公としてもっと魅力ある幸せな人生観・世界観を持って自尊心高く生き、周囲の人間の自尊心も高められる人間へと成長していかなければならないのです。人生観・世界観に魅力があれば、あなたの認識世界(仏国土)にどんどん人が集まってきますし、逆ならどんどん遠ざかって行くものなのです。

人生というRPGはすべからく主人公であるあなた次第に作られています。相手を無理に変えようとしても絶対にうまくいきません。自分自身が変わること(成長すること)が大事です。

2022年6月22日水曜日

潜在意識の浄化方法

【質問】
いつも真也さんの文章を読ませてもらっており、とても感謝しております。ありがとうございます。

○潜在意識の浄化の仕方が知りたいです。
巷で色んな見解があり、何が本当かわからないです。

○夢や目標は持った方が良いでしょうか?


【回答】

潜在意識の浄化というのは、エゴから愛に目覚める事なのです。まず人生の主人公として、衆生を救う菩薩・メシアとして目覚めることです。それなしに潜在意識を浄化しようとしたところで、目的がエゴですから、効果は知れています。むしろ器が育ってないのに劇的に良い事を引き寄せてしまったら、それは莫大な借金のようにカルマを悪化させます。

夢や希望もそうです。世界=自分であり、衆生を救う=出会った人みんなを救うという意識がなければ、夢や希望もエゴに過ぎないもので、仮にそれが現実になっても幸せになることはあり得ません。

どうか方法論に囚われないで下さい。目的が愛でなくエゴではダメなのです。

仏教では六波羅蜜や十波羅蜜などというありがたい教えがありますが、それはそれを行じるほどにエゴから少しずつ離れて愛に目覚めるためのものなのです。それこそが潜在意識の浄化なのです。

心を誰に見られても良いようにしてみて下さい。創造主は存在の全てであり、あなた自身でもありますから、すべてを見ています。自分と他人を責めるのを同時に止めて許し、和解して下さい。我慢は心では許していないので和解ではありません。

お金儲けのためのスピリチュアルに騙されないで下さい。彼らもお金を儲けるためですから必死に良い事を言いますが、目的がダメなものはダメなのです。

>夢や目標は持った方が良いでしょうか?
逆に夢や目標がない方が良いというのはありえないでしょう。人生というのは成長を楽しむためのRPGであり、夢や目標がなければ事象に振り回されるだけになってしまいます。

自分を主人公(メシア・菩薩)とする「世界(衆生・あなたの仏国土の住民)を救う」RPGなのですから、目覚めさえすれば、夢や目標は自ずと明らかにります。主人公の夢や目標が「世界を救うこと」であるのは自明で、人による違いは「どのように」世界を救うか(ロールプレイングのロール)です。自分に与えられた特質と、己のカルマ(課題・シナリオ)が経験から見えてくれば、それがおのずから見えてくるでしょう。


2022年6月21日火曜日

信じる信じないの基準

【質問】
私は、キリスト教を信仰してます。あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?真理は愛だとすれば、幸せになれることを信じれば、それは真理になるということでしょうか?


【回答】2025年1月2日更新
ご質問ありがとうございます。

>あなたが信じるかどうかの基準は、正しいかどうかではなく幸せになれるかどうかということですか?

はい、基本的にはそうですね。

何が正しく何が間違っているか?(何が正義で何が悪か?)というアプローチでは必ず対立・争いが生まれます。

何をどう考えどう実践するのが自分と相手とみんなに対する愛(思いやり)か?どうすればみんなが幸せになれるか?それを考えることが真理(ワンネス)への道だと思います。常に正義より愛(思いやり)を優先すれば対立は生まれないのです。そして世界中の人が正義より愛(思いやり)を優先したら世界が救われるのは自明です。

キリストは「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」と言ったそうですが、それが真理かと思います。つまりそれを信じ実践することによって実際に自分も周囲もみんなが幸せになるかどうかで、その考えが良いか悪いか(正しいか間違っているか)がわかるということです。全ての存在は一つ(ワンネス)なんですから、誰かが幸せになるために誰かが不幸になるような考えが真理なわけはないのです。

仏教には「八正道」という大事な教えがあるのですが、何が正しいかわからなければ実践しようがなく、無意味です。「正しい」という言葉を「みんなが幸せになる」という言葉に置き換えて考えれば、何が正しいかがわかるのです。

みんなが幸せになる真理を、誰かが真理だと認めなかろうと、それはどうでも良いことです。それが本当に真理なのであれば、自分が揺るぎなくその真理通りに実践できる人間にさえなれば、遅かれ早かれそれは他人にも受け入れられ、いつか世界の果てまで連鎖してみんなが幸せになるのです。それはガンジーの非暴力・不服従運動の成功を見てもわかることでしょう。

真理というのは実践さえすれば必ずみんなが幸せになるとわかるものなのですから、相手がそれを真理だと自ら悟りさえすれば自発的に従う以外の選択肢はなく、他人に押し付ける必要はないのです。逆に何かを他人に押し付けようとする時点で、それは真理から外れているのです。ガンジーの非暴力・不服従運動も、もしそれが政治力によって(心から納得していない人にまで)強制されるようなものであったら、それは成功していなかったはずです。

エゴ(欲)とは何か?に書きましたが、真理とは愛であり、エゴを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があり、ワンネスへの道があるのです。

創造主曰く「正義(正しい・正しくないの判断)=エゴ」とのことです。正義は必ず攻撃対象としての悪を必要とします。しかし相手には相手の正義があって必ず争いが生まれるのです。そして正義は必ずエゴの隠れ蓑になっていて、誰かが必ず自己利益に誘導しているものなのです。アメリカが正義を語って戦争を煽り、他国を侵略して軍需産業で儲けつつ利権を奪っているのはその典型でしょう。正義を押し通せば争いはなくなりません。愛が天使であり、正義は悪魔なのです。世界中のみんなが正義よりも愛を優先させれば争いはなくなり、それだけで世界は救われるのです。

人生は魂成長のプログラムであり、真理を実践すればするほど成長し幸せになるように世界は創られているのです。もしそうでなければ誰も真理など求めず、成長しようとはしないでしょうから、人生は魂成長のプログラムとは成り得ないのです。創造主が世界をそのようにプログラムするわけがありません。

僕は色んな宗教を同時に学んでいて、イエス・キリストのことも心から信じています。ただどこかのキリスト教系の宗教団体を信じているわけではありません。キリスト教という正義を隠れ蓑にしたエゴの連鎖がどれだけ悲しい歴史を積み上げてきたかはご存知の通りです。もちろんキリスト教は歴史上長きに渡って信者数が多いからそれが目立つだけであって、他の宗教もそこは同様です。この世界のあらゆる存在には個性があり、それは欠点や過ちと不可分です。どんな宗教・どんな神様にも個性があり、そこに欠点と過ちはつきものなのです。だから一つの宗教だけを妄信し、自分で主体的に考えるのをやめれば、必ずどこかで道を誤るように世界はできているのです。だから色んな宗教を学んで共通する真理を探すことが大事なんだと思います。信仰というのは自分で考えることの放棄ではありません。だから僕はどんな神や宗教家の言う事でも心から納得できなければ従いません。

同時に僕は神様も人も出会ったみんなの個性を尊重し、愛するように心がけています。もちろんとても難しいですけどね。出会ってもない人は愛せません。逆に出会った人ひとりひとりを例外なく無条件で愛することができるようになっていけば、出会いさえすれば愛せるように成長しているわけですから、それは世界中の人を愛せるようになったことに等しいのです。

いつでも本物の笑顔が僕らのコンパスです。船が北極星を目印に航海するように、本物の笑顔を目印にしてみんなが幸せになるように進めばいいのです。ベクトルさえあっていれば道を誤ることはなく、どれだけ時間がかかってもいつかは目的地に辿り着けるということです。

「信じることの意義」にも書きましたが、我々はわからないからこそ何かを信じることができ、逆に何かを信じずに生きることはできません。「自分は何も信じていない」という人は自分の勝手な常識を信じていることを意識もしていないだけです。「何を信じるか」が「自分とはどんな存在か」を形作るのです。人生は己が何者かを知り表現するための芸術であり、「何を信じているか」がその人の存在そのものなのです。

全知全能の創造主は真理を全て知っていて、何かを信じるということができません。我々はわざと無明の闇を与えられ、真理がわからず迷い・苦しみますが、そうして人生経験を積んで真理に辿り着くからこそ真理には価値が生じるのであり、真理は存在するだけでは概念に過ぎず、何の価値もないのです。だから真に価値があるのは真理そのものよりもそこに至るまでの我々の経験・物語であり、だからこそ全知全能の創造主はわざわざ大変な苦労をして無知で愚かな人間とその人生・世界を創ったのです。概念は経験を伴わなければただの言葉に過ぎませんから。

>真理は愛だとすれば、幸せになれることを信じれば、それは真理になるということでしょうか?

その考えを元に実際に実践してみて誰も幸せにならないのに、その考えを真理だと信じること(思い込むこと)によって真理にできるわけではないです。真理というのはあなたや誰かが信じる信じないに関係なく無条件に真理として存在しているのです。それは人間が思い込みでねじまげられるようなものではありません。

僕は真理に近づくのを感じるほどに僕も周囲もどんどん幸せになっているのを実感しているので、真理とはみんなを幸せにするもの=愛だと確信しています。

自殺をきっかけに目覚める人がいるのはなぜ?

【質問】年齢・性別不詳
私の知り合いにも自殺未遂をして一回死んで戻って生き返った人がいますが、その人はその日を境に他人の感情が読めるという特殊能力と霊が見えるようになったそうです。悟りも得られたと言いました。その方は自殺をしたい人を止める人になりました。自殺をきっかけに向こうの世界で悟りやら特殊能力が得られるという現象が起きる人がいるのはナゼですか?



【回答】
人にはそれぞれ役割・使命があり、人生には因縁・シナリオがあるようです。僕もあなたのその知り合いも最初からそういう役割・使命であり、そういう因縁・シナリオだったということでしょう。

基本的に自殺とはエゴに埋没して生きた結果の逃避行為であり、自分であれば殺しても良いと考える事自体が究極のエゴです。そしてそれは大きな過ちであり、絶対にやってはいけないことです。

でも創造主からその大きな過ちを許されて救われた僕は「一度捨てた命を救われたのだから、残りの人生はエゴのためではなく自分を救ってくれた創造主のため、世の為人の為に生きようと決心したのです。つまりある意味で自我を超越したのです。

だから人に偉そうに説教したいからとか、有名になりたいとかお金持ちになりたいとか自分の宗教に勧誘したいとかそういうエゴの動機で今の活動はしていません。純粋にかつての自分と同じように苦しんでいる人を救いたいのです。

時間は循環するものであり、過去が未来に影響を及ぼしているだけではなく、現在・未来の思念・行動が過去に影響を及ぼしてその原因になっていることもあるわけです。創造主は僕が未来にそのようにエゴを捨ててみんなのために生きる志を持つ人間だとわかっていたからこそ、僕に許しと救いを与えてくれたのでしょう。そしてメシアとしての使命を果たすのに必要な覚りや能力をどんどん与えてくれているのでしょう。

盲人の目を開かせたキリストが言った「私が救ったのではない、あなたの信仰があなたを救ったのだ」という言葉はそういう意味です。その人が救われたのは信仰心を持つ前であり、救ったら信仰を持つ人間だからこそキリストを通じて創造主から救われたのです。

自殺すれば覚りが与えられるとか特殊能力が身につくというわけではありません。そこを絶対に勘違いしないで下さい。普通は自殺すればただ死んでしまうか、運よく未遂で終わっても何の能力も得られず、むしろ障害が残る可能性の方が高いと思います。特に苦しいことから逃れたいというエゴの自死は最悪です。クリエイターから主人公として与えられたPRGなのに、勝手に主人公をゲーム機ごと壊すのことですから、クリエイターからすればそれ以上に悲しいことはなく、殺人以上の罪なのです。

ただ僕やあなたの知人のシナリオ上、自殺がトリガーになったことが共通していたというだけで、自殺すれば覚りが開けるように短絡的に考えるのは、昔話「はなさかじいさん」の老夫婦の犬が「ここ掘れわんわん」で小判を見つけたのを、「この犬に探し物をさせれば自分も金持ちになれる」と考えて、犬を横取りした隣の意地悪じいさんのような発想かと思います。

自殺についてはこちらの記事「自殺・安楽死するとどうなるか?」に詳しいです。

創造主は絶望の淵から希望を与えて、人を救うことで自分が救われるように・自らの意志で覚りに向かうように導いてくれているのです。だから人生は素敵なのです。

ネットゲームにログインしている人が全員主人公であるがごとく、本当は人生を与えられた一人一人が主人公でありメシアなのです。あなたが主人公なのだってことを絶対に忘れないで下さい。他のログインプレイヤーと覚りの進捗を競い合うのではなく(神通力やその他の能力の高低で優劣を感じるのではなく)ただただ物語を愛して、ゲームクリア(世界救済)に向かって下さい。みんなの魂を救う連鎖を起こして下さい。

あなたももし信仰心を持ち、覚りに向かう菩提心を起こし、すべての人を救うメシア(主人公)を志すのであれば、きっと成長段階に応じた覚りや能力が与えれれることでしょう。主人公として目覚めなければ、自分が生き延びるためのつまらない能力しか与えられず、人を救う能力が成長していかないのは当然のことです。

そして既に与えられたものの価値に気付き、自分の魂の成長のために常にベストなものが与えられていると信じて愛で解釈して、どうか感謝に生きて下さいね。感謝=幸せであり、感謝の心がすべての存在の源たる創造主に存在意義を与えているのですから。

後悔・自己嫌悪ばかりで努力できない

【質問】20代・男性 ペンネーム:ロダン 普段noteを拝見させていただいて「宇宙の仕組み」「ピラミッドの存在意義と仕組み」の二つは、これまで読んできたnoteの中で一番衝撃的かつ興味深い内容で、何度も読み返してしまうほどの内容の素晴らしさでした。 これまでの人生、何か成し遂げた...