2023年7月31日月曜日

どうしたらモテますか?

【質問】20代・男性
どうしたらモテますか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。(女性が恋愛対象である男性向けの回答ですが、多くは女性やLGBTの方々にも通じることですし、皆さんに楽しんでいただける内容かと思います)

モテたいのは人間としてとても自然なことです。特に性欲が強く播種本能に振り回されがちな若い男性なら猶更です。人間はそのように初期設定されているのですから、あなたが悪いわけではありません。ただ初期設定というのは成長のための課題が含まれているものなのです。

どれだけモテても本命と結ばれなければ意味がありませんし、日本では重婚禁止ですから一人としか結婚できません。本命の人と結ばれて良好な関係性を維持するにはモテることが逆に邪魔になることも多々あることでしょう。なのになぜ人はそんなにもモテたくなるのでしょうか?

僕も若い頃というか、目覚めるまでは普通に「モテたい」と思っていた普通の男でした。今だからわかりますが、かつての僕は自分に全く自信がなく、他人から評価されることで自分が価値ある存在だと思おうとして、自分を偽って無理やり別な誰かになろうとする努力ばかりして、人から好かれる(褒められる・モテる)ことを主目的に人に気遣いし、謙虚さを装うただの卑屈な人間で、常に他者からの評価を求めていたのです。自分に価値がないと思っていたために、価値のない自分から評価されても全く嬉しくなれず、他人から評価されないと自分を評価できなかったんですね。つまり「モテたい」っていうのは他者評価依存ということなのでしょう。

自分で自分を愛せないから、異性から受け入れられ愛されることで自分を愛そうとするのは愚かなことなのです。自分で自分を受け入れられずに愛せないような人間が、モテようとしたからってモテるわけがありません。他者評価に依存する限り、決して本当に自信がつくようにはならないのです。他人の言うことに振り回され、自分を評価しない人・自分より優れた人がいる度に傷ついて自信を失うようになりますからね。そして自信はモテの最大要素であり、自信がない人がモテるわけがありませんから、現状自分に自信がなくてモテてない人がモテることで自信をつけようとしても、モテるようにならないのは自明なのです。

本当に素でモテる人というのは生まれ持った色気があり、自分に自信があって、ただ自分らしくあるだけでありのままを愛されるような人です。そういう人は過剰にモテることはかえって邪魔にもなるので、わざわざ苦しい思いをしてまで不特定多数の好みに合わせて自分を偽るようことはしないでしょう。

もちろんアイドルなど人気商売の人の場合は、より多数の好みに合わせて演じるのが利益に繋がる仕事なので、特にメディアの前では当然そうしていると思いますが。

努力によって外見や能力・実績を高めることに成功することで自信が高まり、また知名度が高まることによって多くの女性に知られ、それにより多くの女性に好かれるということはあるでしょう。しかしその分自分を評価しない人や否定・批判・侮辱してくる人にも数多く出会って、他者評価依存で傷つきやすい人はより傷つくことになります。そしてそのようにしてモテたとしてもそれはあくまでも一過性のものであって、早々に失われてしまうこともありますし、加齢とともにいずれは失われることが確実です。それに怯えながらモテてもいつもどこか不安で、本当の意味で自信満々で幸せにはなれないでしょう。

もしあなたの「モテたい」が単に「たくさんの女性と肉体関係を持ちたい」ってだけなのなら、女性にも性欲はあるわけですから、「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」で、相手の容姿や性格や年齢や職業など一切お構いなしで、周囲からの冷ややかな目にもめげずに次々とアタックしまくれば、数撃つうちにその方向でのスキルが身に付き、肉体関係を持ち易い相手にも鼻が利くようになり、どんなにモテない人でもそれなりにはありつけることでしょう(清潔感にさえ気を付けていれば)。※もし緊張して女性と話せないようなら、街で知らない女性に道を聞きまくることから始めてみて下さい。

ただそれは単に「性的に奔放な肉食系女子」「押しに弱く受け身な非モテ女子」「男に依存したいメンヘラ女子」(総じて霊障が原因・基本的に相手は誰でも良い)などを見つけて「時間・手間・金というコストをかけて自分から喰われに行ってる」ってだけでしょう。まぁそれはそれで一つの奉仕であり社会貢献かもしれませんが(皮肉)、本当に「モテている」わけではありません。

また他者評価依存の人は当然傷つきやすいですから「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」を実行する中で、多くの女性からひどい拒否のされ方をしながら自尊心を保つのは難しい気がします。ある意味でそれも修行だと言えるかも知れませんが、そのあたりの自分の感覚を麻痺させてゲーム感覚で楽しめないのならお勧めしません。

妊娠等のリスクがあって男性より結婚適齢期の短い女性に対して「割り切った関係を結ぶ」「あと腐れなく別れる」というのは難しいことが多く、素でモテない人が女性にガツガツしようとしたら、大して好きでもない相手に本気を装って相手側を本気にさせるような「女を騙す」アプローチをすることになるでしょうし、そんな男に騙される女性は元々心を病みやすいメンヘラ(霊障に犯されやすい人)だったりすることが多く、必然的にトラブルをたくさん抱えるようになるでしょう。そしてそういう思考・行動が骨の髄まで染み付いた人間が結婚を機にすべて清算してうまくやっていけるとは思えず、将来的な破綻が目に見えている感じがします。

そのように女性にガツガツして、自分がモテるということを執拗にアピールする男性というのは、大体「思春期にモテなかったことによる心の傷」があって、その傷を必死で埋めようとしているのでしょう。そういう人の必死なモテアピール・自慢話を真に受けて本当にその人がモテているのだと勘違いし、羨んで悔しがって落ち込み「あわよくば自分も」などと考えてやり口を学ぼうとするのは愚かなことなのです。アピールというのは基本的に「このように見られたい」という思いがあるのに実態がその通りではないからするものであり、実態通りなら誰が見てもすぐわかるのでアピールする必要はないのです。ネイマールも本当に痛い時はゴロゴロしません。モテアピールのシミュレーションプレーにひっかからないようにして下さいね。

そうして「抱いた女の数が男の甲斐性」といった感じで女性を「自分が自信をつけて価値を感じるための踏み台」にするような男性は、既に自分に惚れた女性に対してはすぐに用済みになり、「自分の方が相手から惚れられて仕方なく付き合っている」という感じで常に自分の優位を示そうとして相手と対等に向き合おうとせず、また惚れさせるために嘘で塗り固めた自分を愛されてもまったく充実感がなく、「釣った魚には餌をやらない」といった感じになって関係性がすぐに破綻し、ひたすら「他にもっと素敵な女性がいるのでは?」と新たな女性を追い求めるようになるでしょう。それがキリがないってことは最初からわかりきったことであり、そのうち加齢などで女性から求められにくくなったり、結婚や仕事の関係等で社会的に「手あたり次第」というのは難しくなったりして、きっとまだまだ「モテたい」と思いながら鬱屈した寂しい中年・老年時代を過ごすことになることでしょう。

もし幸せになりたいのなら、女性にモテることなんかより、結ばれた女性を運命の人だと信じ、創造主に感謝しながら全力で愛することの方が遥かに大事だと思います。モテたいなどと思ってキリなく女性を求めていては幸せになどなりようがないです。あなたが相手を世界一だと信じて愛し抜くことで本当にあなたにとっての世界一にして下さい。世界一の女性から愛されるあなたは世界一の幸せ者になることでしょう。それはモテることなんかよりずっと難しいでしょうけども、そういう修行なのだと思って下さい。

恋愛に限った話ではなく「全ての出会いは天から与えられた自分にとってベストな出会いである」と信じず、常に「他にもっと素敵な人がいるのでは?」と考えることは、目の前の人を全力で愛さないことにつながり、人からも全力で愛されず不幸になるのが自明なのです。

ただモテないことに対して本当に強いコンプレックスがあるのにそれを自分の中でごまかし、ポジティブなエネルギーに変換できずに鬱屈しながら怠惰に青春を空費し「あの時もっとやっておけば」と歳をとってから後悔するぐらいなら、若い時は人目も憚らず女性に思う存分ガツガツする方が「積極性」「人生経験」「女性の一面を知る」と言う意味では良いことかと思います。(僕も大学時代は結構やってました)それが仕事で活かされるってこともあるでしょうしね。

何事もそうですが、答えに価値があるのではなく、経験が答えを価値ならしめるのです。自分なりに間違いを犯しながら納得して前に進むことが大事なのであり、最初から伝聞情報で答えだけを求めて心から納得していないことを無理やり自分に押し付けては、経験する(生きる)意欲が損なわれて怠惰になり、残念な人生になるだけです。

多くの男性がモテようとしてカッコつけをやっちまってますが、「カッコをつける」というのは「自分」という存在に対して文字通りカギカッコをつけて無理やり任意の型にハメてしまうことです。


英語で「カッコ」のジェスチャーは”Air Quotes”で、それを自分につけるとしたら「”いわゆる自分”」みたいになって、自分がアピールしているのが本当の自分ではないような、すごく皮肉な感じになりますね。

そうして本当の自分ではない自分を演じることで、例え女性から愛されたとしても、それは自分ではない誰かを愛されているのであり、本当の自分が愛されているわけではないのですから、きっと心の充足は得られないでしょう。そしていつかそこに気づかれて破綻するのは時間の問題です。

人が幸せになるには「自分が自分らしくあること」が不可欠であり、モテたいという動機で自分ではない別な誰かになろうと努力すること自体が苦しく不幸なことなのです。「本当の自分を知られたら幻滅され嫌われるだろう」なんて思って他人を演じながら愛されても辛いだけです。

女性の男性に対する好みというのは、男性の女性に対するそれより遥かに人それぞれであり、その個性を尊重せず十把一絡げに見て、不特定多数からモテたいなどと思い「こういうタイプがモテる」と勝手なプロトタイプを自分の中に作り、自分をそこに合わせようとすれば、必然的に無理が生じて自分を見失い、そこに合わせきれない自分を嫌悪するようになり、自信などつきようがありません=モテるようになるわけありません。

今時は「外見が良くなればモテる」と思い込んで、必死で美顔・エステ・コスメなどに精を出しているような男性も増えているようですが、それで元々モテていない人がモテるようになるとは到底思えません。外見の好みは本当に人それぞれですし、女性もそれなりに人生経験を重ねれば純粋に外見だけで男性を選ぶ人は少なくなり、外見重視を公言するようなごく一部の知性に欠けた女性でさえも成長と共に男性の外見に滲み出たものを無意識に見るようになります。

世の女性だけでなく自分の深層心理だってそういう表面的なカッコつけばかりして中身のない自分自身をダサいと思うでしょうし、それでは自分自身を嫌いになって余計に自信を失うと思います。

そして脳というのは右脳的直観でやったことを左脳的論理で後付けで理由をこしらえるようにできているものであり、例え女性が「外見に惹かれた」と理由付けしていたとしても、それが先か後かは本人でさえわからないのです。実際、歴代彼氏のルックスが全然違うタイプだという女性は多いです。要するに女性は直観で好きになった人をカッコいいと思い込むだけなのに、不特定多数の女性の外見的な好みを推測してそこに自分を合わせようとするのは本当に無駄な努力かと思います。

女性の好みなんてものは人それぞれですし、本当に気まぐれなもので、出会い・人生経験によって変わっていく可能性も高いのです。将来具体的に自分がどういう人を好きになって付き合うのかは女性自身でさえ事前に予測できることではなく、往々にして女性は元々の好みを覆された時にこそハマるものであり、実際に付き合うのはそれまでの好みとは程遠いということも多いのです。

そしてその女性が現時点で「カッコいい」「タイプだ」と思う男性に対しても「付き合いたいな」「まぁ寝てもいいかな」「見た目は良いけど寝たいとか付き合いたいとかまでは思わないな・遊ばれそうでイヤだからパスだな」など、どこまで思うかは人それぞれです。そんな女性の言うことにいちいち振り回されるのは本当に愚かなことだと思います。

人間関係は完全に鏡であり、自分の外見に捉われている男性というのは、自分が世の女性をみんな外見のみで見ているからこそ、自分も世の女性みんなから外見のみで見られているに違いないという勝手な思い込みをしているのです。そして外見を理由に女性から傷つけられる体験を思春期から多く引き寄せてその思い込みを強化し、同時に知らず知らず外見に関することで多くの女性を傷つけ、魂の成長を怠ってカルマを積み、そうしてすべての存在の根源である創造主からの愛を受け取れずに、必然的に女性からもモテなくなるのです。

大抵全くモテない人というのは、モテない理由をそのようにして外見のコンプレックスに求めて「自分はダメだ」とネガティブな思い込みを強めて屈折し、本当は大して外見など悪くないのに「どうせ自分なんて」と自尊心が下がって、知らず知らず女性を不快にさせるような思考や行動が習慣化し、身なりや体型に無頓着になって実際に外見まで悪くなって益々モテなくなるという悪循環にハマっているのですね。そのようにして健全な恋愛をハナから諦めてアイドルやアニメなどに救いを求めるようなオタクというのは量産されるのでしょう。(外見のせいにするぐらいなら整形した方がマシだと思いますが、本質的な問題が整形で解決することはきっとないでしょう)

いかに外見が悪くてもお金持ち(ハイステータス)になればモテるかも知れませんが、モテているのはお金(ステータス)であってその人本人ではありません。お金(ステータス)がなくなれば人が離れていくのは自明であり、「紀州のドンファン」のようにお金だけ残して早く死んで欲しいと望まれるだけでしょう。それが幸せであるはずがありません。金(ステータス)に寄ってくるような女が本当に自分を愛するわけもなく、彼が友人からも家族からも嫌われて孤独で、最後は愛犬を溺愛してその愛犬に遺産を残そうとし、結局は遺産目当ての女に殺されたことは哀れでしかありません。お金持ち(ハイステータス)になってモテようと思っている人は彼の人生を見てよくよく考えて欲しいです。

そもそも不特定多数の好みに合わせてモテようとすること自体が、創造主が自分に与えし尊い個性に対する価値の否定であり、それではすべての存在の根源である創造主から愛を受け取りにくくなって、創造主の分身たる女性たちからも愛されにくくなるのは当然です。

そうやって「モテる人に価値があり、モテない人には価値がない」などと人の価値に序列をつける考え方をしているから、ちょっと女性から評価されなかったっていうだけで「自分には価値がない」などと落ち込んで自信を失ってしまうのでしょう。まず人の価値とは?を読んで、天から与えられた価値に気づいて下さいね。もしあなたが「モテれば必ず幸せ」「モテなければ必ず不幸せ」というように、幸せというものを何か条件付けして考えているのなら、その考え方こそが不幸の元凶であって、そこから改めるべきかと思います。

結婚できれば幸せになれるかのように幻想を抱き、結婚できなければ幸せを諦めなければならないように考えている人も(特に中年以降の女性に)多いですが、それも幸福の条件化であり、不幸の元凶なのです。僕らは性行為と子孫繁栄のために生まれて来たのではなく、魂の成長のために生まれてきたのであり、結婚することで成長する道もいれば、結婚しないことで成長する道もあるのです。結婚してラク(成長放棄)しようとしている人は結婚できないことが多く、結婚してもうまく行かないのです。

不幸な人というのはだいたい魂の成長を放棄しているのであり、他人に対する愛(思いやり・許し)がなく、自分が目の前の人間を全力で愛さずぞんざいに扱う「嫌な人間」になっていることに気づいてもいません。

そしてそういう人は今までの出会いを運命を信じて感謝する気持ちがなく、今が幸福じゃないからに誰かに幸福にしてもらおうとして焦って相手を探そうとするために、断られる度に自信・自尊心を失い、より魅力を失っていくのです。そのように結果(見返り=モテや結婚)を求めた努力というのは醜く、報われないようにできているのです。

何よりモテようとすることの最大のデメリットは本物の愛を遠ざけてしまうことです。もし本物の愛が「あなただけを生涯愛し抜きます」という無言のメッセージだとしたら、モテたい人というのは「不特定多数から愛されたいです(あなたに愛されても満足しません。例えあなたに愛されなくなっても他がいるので大丈夫です)」という無言のメッセージを発しているワケですからね。そういう人が魂レベルで誰かに愛されるはずもなく、例えモテたとしても自分と同じように安っぽくて軽い女性しか寄って来なくなり、お互いすぐに飽きることは自明なのです。

結局、不特定多数の女性から性的にモテる必要など全くないのに、現状モテていない人が無理にモテようとすることは、余計モテなくなる上に本物の愛も遠ざけるという悲惨な状況に自分を追いやることになるのです。

例えどれだけモテようと本命の人から愛されなければ意味がないのに、それでもモテようとしてしまうのは、女性の選択肢が多いことを「自分に価値がある証拠である=幸せである」と勘違いしているからです。常に自分が選べる立場に身を置いて、フラれても「他がいるから大丈夫」と安心し、傷つくリスクを下げたいのでしょう。

だから「モテたい人」というのは「自分が愛する前に相手側から愛されよう」「自分が取捨選択できるような優位な立場にいよう」と考えて、相手と対等に向き合って全力で愛そうとしないんですね。それは要するに自信がなく臆病であるがゆえに安全を確保したがっているワケで、それ故に本物の愛を自ら遠ざけているのです。人生は愛と勇気を試す為のRPGですから、臆病者が本当にモテるなんてことは有り得ません。

これは夢(職業)についても同じで、本命の夢が叶わなかった時のことを恐れて選択肢を増やす為の努力に時間と労力を費やす臆病者が、退路を絶って夢に殉じている勇者に勝てるワケがありません。選択肢の確保に奔走する臆病さが本物の夢も愛も遠ざけるのです。退路を確保すれば必ず退路へと追い込まれるのです。これはいざという時に死んで逃げれば良いという選択肢を常に確保している臆病者が、いつか必ず自殺して逃げるという退路へと導かれるのと同じです。だから人生というのは必ず退路を断つ必要があるのです。どっちみち人はいつか死にますし、魂は永遠です。人生はRPGなのですから、死も何も恐れず、退路を断ってただ前に突き進んで下さい。

ベンジャミン・フランクリンが「安全を得る為に自由を手放した者は、その両方を失う」と言った通り、モテ(安全)のために心の自由(自分らしくあること)を手放した人は、余計モテなくなる上に心の自由も失うのです。それは早めに気づかないと、本当の自分らしさを知りありのままに愛するということ(幸せ)がより困難になっていくのです。

冒頭に書いた通り、モテの最大要因は自信です。でもみんなどうやったら自信を身に着けられるか知らないのです。そこを僕は誰でも自信満々になれる方法において既にnoteで公開しています。それは「誰でもモテるようになる方法」とイコールなワケです。いやー、そんな素晴らしい方法を無料でみんなに教えてくれる僕は何て天使なんでしょう?(笑)この内容を真実だと信じて全て実行する人がモテない理由がありません。

大事なのは「モテよう」などという結果(見返り)は一切求めず、「自分が自分らしくあること」を最優先し、自分の個性も他人の個性も「ありのままに愛すること」であり「出会ったら無条件で常に自分から愛すること」です。ここでの愛というのは愛欲(エゴ)ではなく万人に向けた慈愛(思いやり)ですので誤解のありませんように。

そして結局は「本当にやりたいことを通して人に貢献して生きること」ということに尽きます。それなくしてモテようと愛されようと本当に幸せになることは有り得ません。やりたいことで人に貢献できていたらそれだけで楽しく幸せなのであり、女性から性的にモテる必要などないのです。そんなものはかえって邪魔ですからね。

ただありのままに自分と他人を愛し、人に貢献して楽しく幸せに生きている人は、すべての存在の根源である創造主から愛されるので、その分身たる女性たちが放っておくわけがないのです。例えどんなにブサイクであろうとも。

逆に仮にルックスが良かったとしても、仕事も趣味も全然楽しくなくて嫌々生きて嫌な人間になって人間関係がうまく行かず不幸で鬱になって人生を恨みで返しているような人は創造主の愛を受け取れず、モテるわけがありませんし、女性と付き合ってもうまくいくわけがなく、遅かれ早かれ関係が破綻します(実体験済)。モテたいのにモテないならモテようとせず、モテなくても楽しく幸せに生きればモテるのです(実体験済)。「モテ」は幸せの副産物のようなものであり、「引き寄せの法則」と同じように、目的化しない方がうまく行くのです。

鬱抜けのためにも、他者評価に依存せず、結果(見返り)を一切期待せず、自分のエゴより出会った人のエゴを満たしてあげることを優先し(無償奉仕し)、自分も他人も責めたり蔑んだりするのをやめて無条件で愛し、自分で自分のことを「この人大好きだなぁ」と思えるようなエピソード(人に無償で奉仕すること)を日々重ねていって下さい。そうすれば自分を大好きになって幸せになります。そしてそんな人は必ず周囲に愛され、女性からだけ全くモテないなんてことがあるわけがないのです。

不特定多数の女性の好み通りの人物を演じてオシャレして、社会的評価の高い職業に就いて仕事がデキてお金持ちになって良い暮らしをしていれば、モテて自信満々に生きれて幸せになれるなどと考えるのは幻想に過ぎないことを僕は実体験として知っています。

そういうのは一見真実であるかのように見えても、実際は人の「モテたい願望」を利用してお金を儲けたい人達の流布するデタラメであり、「こういう人がモテる・モテない」というクソみたいな分析やランキング(伝聞情報・他者評価)などに振り回されてはいけません。それはヤクザの夜店のクジの景品みたいなもので、どれを選ぼうとそこには初めから当たりなどないのです。「モテ幻想」で社会の奴隷にならないで下さい。


自信は幸せとイコールであり、自信とモテはイコールで、誰でも自信満々になれる方法をみんなが実行したら、みんなが自信満々で幸せでモテモテになるワケで、そうなったら世界が幸福で平和になり救われることになります。つまり誰でも自信満々になれる方法とは「世界を救う方法」でもあるということです。ですから必ず読んで実行して下さい。

それでは、あなたが自信満々で幸せでモテモテになることを心から祈っています。独身の中年のクセに上から目線で偉そうにと不快に思われるかも知れませんが、これは創造主から直々に教わった真理であり、何とか否定してやろうと揚げ足を取ることに躍起にならず、信じて頂けると幸いです。この教えは創造主の愛そのものなのですから。

2023年7月29日土曜日

神通力(超能力)について

 【質問】年齢・性別不詳
何か神通力は手に入りましたか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

僕は神通力を求めて修行をしているわけではなく、また浄霊能力(本当は誰でも持っている能力)の向上以外は求めていませんし、手に入ってしまってもそれは公にしません。相手が誰かから浄霊を受けてくれてその効果を感じ、その人も他人を浄霊してあげるようになれば、それが連鎖してみんなが神々から幸せに導かれるとわかっているので、僕は浄霊以外の能力を必要としてはいないのです。

もし僕だけに特別な能力があっても、僕に多くの人が依存するようになるだけで魂を成長に導けず、それでは生まれてきた意味がありません。一人ひとりみんなに自分自身が主人公(メシア)であることに目覚めさせ、人がみんな神々を通じて人を幸せに導く能力があることを理解してもらい、それを連鎖させていかなければならないのです。

もし超能力のようなものを人に見せれば、きっと僕に与えられている覚りももっと簡単に人に信じて受け入れてもらえるのかも知れません。それ(ラク)をしたいって気持ちは正直あるんですけど、超能力は覚りの本質ではなく、むしろ覚りから人々を遠ざけてしまうものなのです。

なぜなら超能力も権力と本質は同じで、もし手に入れればそれをエゴ(金や名声や権力)のために使わないわけがないですから。エゴを満たし、自分以外の存在に何かを強制する力というのは、それ自体が真理(愛・ワンネス)に反するものなのです。だから己の器を超えて超能力や権力、それに付随する金や名声を得ようとすることは、得れば得るほどカルマを積むことになってしまいます。そうすればやがてその力も失って不幸に導かれることでしょう。そういったケースのカルマはまず自分自身ではなく家族から重大な悪影響が出るということを知っておいて下さい。悲惨です。

そして例えば仮に死人を生き返らせる能力を僕が手に入れたとします。キリストの時代に他言を禁じてさえ噂が一気に広まってみんながその恩恵を求めてキリストの元を訪れたのですから、人口77億人で情報化が進んだ今の時代、もしそんな能力が僕にあるということが知れ渡ってしまったら、世界中の人が僕を訪れ、僕はその対応だけに人生を費やすことになり、また人々は僕に超能力だけを求めて覚りなどどうでも良くなるでしょう。そして死にそうな家族のいる人たちがこぞって僕の傍に住み、気持ち悪く我先にと取り入ろうとしてくるでしょう。そして世界中の人の死因が「死に際に真也に会えなかった事」みたいなデタラメな状況になってしまうでしょう。また医療・医薬もあまり意味がなくなり、医療・医薬業界の多くのが仕事を失って業界人から恨まれることにもなるでしょう。人口が更に爆発して支配者層から命も狙われかねません。それでもし僕がうまく生き返らせられなかったり間に合わなかったりしたら遺族から恨まれ、覚りを信じてもらえなくなるでしょう。

キリストも人々が自分に奇跡だけを求めて覚りを求めないことに憤り、最後は神通力を封印していました。神の声である聖書が予めちゃんと「こういう理由で間違っている」と教えてくれていることに敢えて逆らうのは愚かなことなのです。

ちなみに釈迦も弟子たちにみだりに神通力を使わないよう戒めていたそうです。神通力は決して覚りの本質ではなく、神通力を身に着けることで悟りを開こうなどという考え自体がエゴなのです。そして自分や誰かの神通力によって悟りのレベルを測ろうなどと考える人は、信心のなんたるかが全くわかっていないのです。

世の多くの人が神通力・超能力のようなものを求めるのは、みんな他者評価・他者比較により自信を失い、自分など価値のない存在だと思って心を病んでいるからでしょう。動機が「世の人を救いたい」という純粋な愛ではなく、それを手に入れることによって自分が救われたいとか、特別な人間になって他人に称賛されて自尊心を満たしつつ、お金を稼いで他人を支配する力を手に入れたいという魂胆によるもので、それはエゴ(分離意識)そのものであり、愛とは真逆のベクトルなのです。

スピリチュアル詐欺というのは、そういう歪んだ心理につけこんで、誰彼構わず「あなたには霊的な才能があります」などとおだて、まるで自分に仕えて金を払えば超能力が手に入るように見せかけて、セミナーや霊感商法で多額の金を騙し取ろうとするのが常套手段です。そうして騙し取った大金で成功者を装い「私は正しいから神々に応援され成功している」といった感じでうらやましがらせてカモを更に引き寄せるのでしょう。それは情報商材詐欺と同じ手法であり、引っ掛かる方も己のエゴゆえに騙されているのであり、どっちもどっちなのです。そこに自分で気づくまでは騙され続けるしかないというのは残念なことです。

この世界のテーマは「愛は地球を救う」であり、「超能力は世界を救う」ではありません。あくまでも愛(真理)を実践により伝え、世界中に連鎖させていくことです。超能力はその役に立つどころか邪魔になることの方が多いものなのです。

「救いの本質」というのは誰かの「命」や「生活」を救うことではありません。人間はどっちみちいつか死にます。キリストが生き返らせた人たちももちろんとっくに死んでます。「救いの本質」は永遠不滅である「魂」の救済であり、自分の認識世界に存在するすべての御霊・御魂をそれぞれに成長・幸福・成仏へと導くことです。

どうか自分が主人公(世界を救う存在)であることに目覚めて下さい。エヴェレット解釈の通り世界は一人一宇宙であり、あなたは自分の脳というパーソナルコンピューターの中の、自分のためだけに用意されたシナリオのゲームの中にいるのです。それがネットで他のプレイヤーと繋がっているからといって、自分を客観的世界の脇役と考えて、欠点や過ち(罪・恥)や能力のなさゆえに自尊心を下げてはいけません。そう考えてしまうのはこのゲームの初期設定であり、それを乗り越える勇気を持たなければ本当の意味でゲームが始まらないのです。

僕らは全知全能である創造主の分身なのであり、本当は同じく全知全能なのです。つまり思っただけで何でも実現できてしまう存在なのです。ただそれではつまらないから創造主は我々の能力を大幅に制限し、様々な共通ルール・限界のある世界を楽しませているのです。思い通りにいかないこの世界で、願い・祈り・努力することにより思い通りになった・成長したという喜びを僕らを通じて経験したいのです。

それなのに(みんなのために)願わず・祈らず・努力せず、魂を成長させず、超能力というチートだけを求めることは間違いなのです。逆に魂を成長させれば、能力はそのレベルに合わせて自動的に与えられるものであり、魂のレベルに合わない能力を手に入れればカルマを積み上げてかえって人生の難易度は上がってしまうのです。そしてみんなの幸せのための願い・祈り・努力はいつか必ず実ることが設定上自明なのです。

最後に創造主の声を代弁します。
「偉くなろうとするな、(すべての存在が)尊いと知れ。特別になろうとするな、特別(主人公)であると知れ。そして日々愛を実践し連鎖させることを通じてワンネス(特別ではなくなること)を目指せ」

2023年7月25日火曜日

なぜ「創造主教」を作らないのか?

【質問】性別・年齢不詳
はじめまして。

真也さんは創造主(絶対神?ゴッドオブゴッド?)の声を聞いているとおっしゃっていましたが、それであればなぜ色んな宗教を同時に信仰されているのでしょうか?

また真也さんは創造主とどのようにしてチャネリングされているのでしょうか?

そして真也さんはご自分の宗教「創造主教」のようなものを作るご予定はあるのでしょうか?また政治家になったりはしないのですか?

【回答】
ご質問ありがとうございます。

あははははは・・・・。とても面白いご質問ですね。

僕らは創造主の創りし壮大な神話の舞台に立っている役者のようなものです。そして創造主というのはその舞台における監督であり劇作家みたいなものですね。

その神話の舞台において役者である我々が困難な場面に直面した時に「監督様、助けて下さい!」「劇作家様、もっと幸せなシナリオにして下さい!」などと劇中でお願いしたらどうなるでしょうか?きっと興ざめでしかないでしょう。そしてもしそれによって監督や劇作家が本当に役者を直接助けてしまったら、舞台そのもの全てに存在意義がなくなってしまうでしょう。

この人生というRPGは神話なのですから、役者である僕らはこの劇中においては監督や劇作家ではなく彼に創造された劇中の神を信じ・学び・祈り・救いを求めなければ神話(芸術)にはならず、全てに存在意義がなくなってしまいます。

それがおわかりいただければ、僕が(創造主とコンタクトを取りながらも)既存の諸宗教を信じて学んでいる理由がおわかりいただけるかと思います。新たに「創造主教」のようなものを作る気が全くないことも。

この人生という物語を与えてくれた創造主(監督・劇作家)に対して僕らができることは、役者として物語を楽しみ・感謝しながら、与えられた配役(使命)を全うすることだけです。

あらゆる宗教は創造主が我々にヒントを与えて真理に導くために存在しているのであり、答えそのものではありません。一つの宗教を答えそのもののように考えて妄信しては道を誤るのが必然なのです。

僕の使命はすべての宗教に通じる真理の探究であり、それによって世界中の魂を救い、物語を完遂させることです。新たな宗教を作って乱立する宗教の一つとなって「教祖様」などと崇められながら偉そうに説法して信者をお金儲けと権威誇示のために利用することではありません。

そしてこの使命はきっと他人事ではなく、あなたにとっても同じなのです。もしあなたが脇役NPCではなく主人公として生きるのであれば。

多くの人が誤解していますが、創造主というのは本当に存在の全てであって、創造主ではないものというのは存在していないのです。創造主の視点からすれば「自」と「他」という概念すらがなく、我々も・動物も・自然も・非生命の物質も・時空も、その中のあらゆる事象も、概念次元とそこにいる神仏たちも、森羅万象の全てが創造主自身なのです。人間が創造したと思われているものも、全て創造主が人間を通じて創造したものです。人間は創造主が経験をし、想像=創造を広げ、人生という経験機会をより豊かにするため存在しているとも言えます。創造主を愛すると言うことは、全ての存在と和解し、愛するということです。自分も他人も動物も自然も非生命も出来事も「人生という物語全体を」愛するということです。存在・事象の全てが創造主の偉大なる創造であり、彼の存在意義なのですから。そして彼の創造のすべてはあなた個人を楽しませるために与えてくれたものなのですから。

個性というのは欠点や過ちと不可分です。欠点があるからこそお互いに必要性が生じ、過ちがあるから許し合うことができ、愛し合うことができるのです。創造主は何も欠けたものがないので、必要性自体が生じません。だからこそ創造主は我々にただ与えるだけの偉大なる贈与者なのであり、僕らは感謝する以外に創造主のために直接的にできることはなく、もしその感謝を形にするのであれば、個性ある(欠点や過ち)存在として生まれた神々や人々(全ては創造主の分身)に奉仕して、その個性(欠点や過ち)を許し合い・助け合い・愛し合うことのみです。

個性(欠点や過ち)があるのは、遥か上位次元の神々であっても同じ事です。神々でさえも個性があり、欠点もあれば過ちも犯すのです。まして人間が作った宗教団体であれば言うにも及びません。完全無欠であれば存在意義を失うのです。

神々や宗教の個性(欠点や過ち)を理由に信心を持たないというのであれば、信心を持つことは不可能です。多くの人がそのようにして神々や宗教の欠点や過ちを理由に信心を持とうとしませんが、それは宗教について学ばない怠惰な自分の自己正当化であり言い訳なのです。

完全無欠の創造主が物語中に登場して強制的に創造主を信じさせては、誰もそれを「信じない」という選択肢を持ちようがありませんから、信心に意味・価値はなくなります。「信じる」という選択を価値ならしめるために、創造主は人間が神を信じないように、むしろ宗教など信じる人間は気違いだとすら思わせるようにこの舞台を設定しているのです。その初期設定通りに信心を持たないままであれば、人生の主人公にはなりえないのです。宗教の欠点や過ちが気に入らないのなら、自分が様々な宗教を原典から学んでその欠点や過ちを補えば良いのです。

創造主をいわゆる「善神」のように誤解し「この世には悪い存在・出来事がいっぱいあるから、創造主なんているわけがない」などと考える人が多いですが、善だけでは物語になりません。善も悪も含めて本当に全ての全てが彼の創造なのです。創造主などいないという考え方も創造主の創造であり、唯物主義・無神論というはクリフォトの樹により設計された人間の無明(愚かさ)なのです。それは成長課題であり、プレイヤー(主人公)である我々はまず自らが目覚め、みんなが目覚める連鎖を起こしていかなければならないのです。


>また政治家になったりはしないのですか?

僕は政治家になるつもりは全くありません。権力に近づくこと自体を考えていません。権力とか組織とかはそれ自体が腐敗の元であって大っ嫌いなので。「真理は組織化できない」というのは創造主直々に教えられた真理の一つです。

もし僕や誰か良い人が政治家になれば、あなたが努力しなくても世の中が勝手に良くなっていくとお考えなのならそれは怠惰であり、主体性(主人公)の放棄(NPC思考)です。

政治(権力)というのは強制力であり、真理ではないからこそ(愛ではなくエゴだからこそ)相手にそれを強制する力が要るのです。そして権力を手にした人間は正義を盾前にしながら必ずエゴのためにその権力を使うのです。金は権力の分譲券ですから、それを手にした人間がエゴのために使わないわけがないのです。

例えどれだけ世の中を良くしようと考えている人でも、その理想を政界において実現するためには権力を握らなければならず、権力を握るためには支持と金を集めなければならないと考えるでしょうし、そのためには支持者のエゴを満たさなければならず、己の欠点や過ちを隠し嘘をついてでも多くの人の支持を得なければのし上がれません。そうしているうちに権力に溺れ、のし上がったらのし上がったでその権力を全くエゴのために使わないということはありえず、どんな正義も権力を得ることを正当化するための建前に過ぎなくなってしまうのです。僕はそれを予めわかっているので、権力を求める(政治家になる)気はないのです。

もしあなたが本気で「政治を変えれば世の中が良くなる」とお考えなら、ぜひ好きな政治家の選挙の手伝いでもしてみて下さい。きっと如実に現実がわかりますから。政治が世の中(人心)を良くするのではなく、世の中(人心)が良くなれば政治は連動して自動的に良くなっていくのです。

真理というのは体験を通じて理解さえすれば自発的に従う以外の選択肢をなくすものであり、強制力など要らないのです。真理というのはそれは見つけた時点で勝利は確定しているようなもので、あとはそれを実践を通じて伝えていくのみなのです。

逆に何かを他人に強制すればたとえそれが真理であっても伝わらないものなので、あくまでも相手に自由に選択させなければならないのです。ガンジーの非暴力・不服従運動でも、もしそれが他人から強制されるようなものだったら成功はしなかったでしょう。

電車の(乗客の)ドアは左右に作られ、前後には作られません。それは前後に(乗客の)ドアを作ってはいけないという法律があって会社がそれに従っているわけではなく、それが道理だと誰でもわかるからです。前後に(乗客の)ドアがあっては乗客が牽かれてしまうリスクが高くなりますからね。しかし人類という列車はそのようにして同胞である乗客を轢き殺しながら進んでいるのです。僕らはその愚かさに気づき、気づかせなくてはいけません。

僕に助言を与え導いてくれている創造主は、自らが「創造主である」と名乗っているわけではありません。この世界を創造した存在でなければ知り得ないことを教えてくれているから僕が便宜上その存在を「創造主」と呼んでいるだけです。それは名前ではありませんし、その存在の呼び方・解釈の仕方は「至高者」「ワンネス」「宇宙意識」「サムシング・グレート」など人によって様々であり、別に統一する必要はないと思います。そして彼は存在のすべてであって姿・形があるわけではなりません。きっと創造主は僕に対して僕よりも上位次元の存在(ハイヤーセルフ)を通じて語り掛けて導いてくれているのでしょう。

僕は別にチャネリングのような、何か特別な手法を通じて創造主とつながっているわけではありません。そもそもすべての存在が創造主自身なのですから、創造主と繋がっていない存在などありません。違いはその繋がりを感じられるかどうか、その導きに従えるかどうかです。

僕が他の多くの人より創造主との繋がりを感じられるようになったのは、きっと他の多くの人よりエゴから離れられたからだと思います(自殺未遂を機に、全財産と仕事を放棄し、奉仕のために生きる決意をしました)。そして人生の苦難に対し、自分や誰かや運命を呪うのを止め、成長課題として感謝するようになったからだと思います。全知全能の創造主は僕がそうなることを予め知っていたがゆえに、時機を見計らって僕を助け、悟りを与えて下さったのでしょう。

敢えて「手法」というならそれ(自殺未遂、全財産放棄、完全無償の奉仕、主人公・救世主としての目覚め)ですが、それをみんなに求めることはできませんし、そもそも僕は創造主とのチャネリングなどという「結果・見返り」を求めてそれをしたわけではなく、もしそういう「結果・見返り」を求めて真似したとしても多分うまくいかないと思います。

もし僕と同じ事をして「創造主と全然繋がれないし救われない」などと苦情を言われても困りますし、またそこまでやらなければ創造主とは繋がれないなどと誤解を受けても「自分はそこまでして覚りなど目指そうとは思わない」と言われるのが目に見えていますから、他人に僕と同じことをするように薦めることはしていないのです。特にイチかバチかみたいな感じで自殺を決行されることは絶対に避けたいですし。

だから僕にとっては「手法」的なことを教えることよりも、僕が創造主からいただいた貴重な覚りをどう人に連鎖させていくか、それの方が大事なのです。そして主人公として目覚めさせることはその根幹です。

質問箱には「真也さんから教わるより、創造主から直接教わりたい」「創造主は真也さんを通じて教えるより直接みんなに教えた方が簡単なのでは?」という感じの御意見ご要望や疑念の声も時々いただきます。そう考えてしまうお気持ちはよくよくわかるのですが、それでは僕が存在意義を失います。僕がみんなの代わりに大変な思いをしながら覚りをいただいて命がけでシェアしているのですから、あなたが全財産放棄とかそんな無茶なことまでしなくても創造主から僕を通じて覚りについて無償で教えてもらえるということに対し、できれば感謝の気持ちを持っていただけると幸いです。

何より「悟りとは何か?」に書いた通り、答えは結局自分が経験を通じて自分で出したものでなくては意味がありません。他人に聞いて済ませようとするのは怠惰であり成長の放棄なのです。僕らは魂の成長のために生まれてきているのですから、成長に反するベクトルはすべからく不幸に導かれるように世界は創られているのです。

それでは、お互いに成長を目指して人生を頑張りましょう。

2023年7月23日日曜日

悟りとは何か?

【質問】20代前半・男性
真也さんこんにちは、田中と申します。

ブログやnoteを読ませていただきましたが、結局悟りとはなんですか?また、巷でよく言われる目覚めとの違いを教えて下さい。

非二元やらスピリチュアルで様々なことが言われているので、結局悟りが何のことかわからなくなってしまいました。回答のほどよろしくお願い致します。


【回答】
 ご質問ありがとうございます。そしてnoteや質問箱を読んでいただきありがとうございます。僕は20代どころか40代になるまで「悟りとは何か?」なんて探究したことはなく、田中さんはとても知性の高い方だとお見受けします。

「悟りとは何か?」それは究極の問いですね。

「悟り」は「覚り」とも書きます。つまり悟りとは目覚め(気づき)と全く同じことです。もちろん何を悟り何に目覚めているかは人それぞれですし、巷でそれがどう言われてるのか僕は知りませんけども。

「悟りとは何か?」を言葉で説明するのは、眠っている人の夢の中で「目覚めとは何か?」を説明して目覚めさせるが如くであり、とても困難な上に実際あまり意味はないのかも知れませんが、全力で目覚めに導きますのできっと最後までついてきて下さいね。


僕が普段「さとり」を「悟り」ではなく敢えて「覚り」と書くのは、「悟り」という言葉に固定化されたネガティブなイメージがあるような感じがするからです。何か尋常じゃない厳しい修行が必要で、きっと大多数の人からすれば「他人事で自分には関係ない」ってイメージなのでしょう。

そして「自分は悟っている」みたいな感じの人に対しては「まだまだ全然煩悩まみれのくせに一人で勝手に(小乗的に)悟った気になっている」みたいな「偉そう」「気取った」「いけ好かない」「面白くない」「真面目腐った」「説教臭い」「辛気臭い」「抹香臭い」といったとにかくネガティブな感じがして、無視か否定かをせずにはいられなくなってしまうのでしょうね。

それは僕がこれまで覚ってきたこととはまるで真逆のイメージであり、僕自身そのような固定観念で他人からニヒルな目で見られて粗探しをされて、エゴに埋没して全く覚ろうとしない人たちの自己正当化のために小バカにされることを好まないので、「悟り」より「覚り」と書きたくなってしまうんです。

「さとり」は真理を目指す経験・成長の道であって、答えそのもの(ゴール)ではありません。そして「さとり」というのはこの世界にログインしている人全員が例外なく目指すべきものであり、無明の闇を照らす一筋の光の如きものです。それは人生という航海を明るく・楽しく・面白く・幸せへと導く灯台の明かりなのです。もしそれを目指さないというのなら人生は無明の闇の中を彷徨い、不幸へと導かれることになるだけです。

そして覚り+悟り=覚悟であり、「さとり」とは「覚悟」を持つことがスタートです。それはどんな覚悟でしょうか?それは衆生(世界)を救う主人公(メシア・菩薩)としての覚悟です。仏教ではそれを菩提心と言います。人生はRPG(ロールプレイングゲーム)なのですから、主人公として目覚めなければ自分はNPCでしかなく、ゲームが本当の意味でスタートしないのは当たり前です。

また「さとり」とは「差取り」でもあり、すべての存在は一つ(ワンネス・非二元)であるという真理に向かっていくことが「さとり」なのです。そのゴールが悟りの彼岸(真理への到達)ということになります。

より悟りが進んだ側からは相手がどれだけ悟っているかがよく見えますが、自分よりも悟りが進んでいる側がどれだけ悟っているかは決して見えません。大学生は小学生の勉強の進捗をすぐに見抜けますが、その逆はあり得ないのと同じです。相手がどれだけ悟っているかわからないのに、悟っている風に見える人から教えて貰えば自分も悟れるだろうという考えは安易なのです。悟りは説明すれば手渡しにできるようなものではなく、また説明されれば悟りが得られるのなら人生経験に意味はなくなります。

人生はRPGそのものであり、この仮想現実・ネットゲームにログインしている時点であなた(自分)が主人公です。そしてゲームにおける他人の進捗は意味がありません。覚りというのは他人と進捗スピードを競う競争ではなく、先に覚った方が偉いとかそういうものではないのです。RPGの価値は自分が主人公の成長の物語を楽しめるかどうかです。

あなたがオシッコを我慢している時に、僕が替わりにトイレに行っても意味がないように、他人である僕がどれだけ覚ろうと、主人公であるあなた(自分)が経験を通じて覚らなければ意味がないのです。

登山だって自分が苦労して頂上を目指して登るその経験に意味があるのであって、僕がいくら自分が上った山の頂上の様子を今登山中のあなたに語ってもあまり意味がありませんし、ましてヘリで頂上まで連れて行くのは迷惑でしかないでしょう。

もちろん僕も人間(プレイヤー)の一人であり、全知全能などであるわけがなく、あなたよりほんの少しだけゲームを先に進めているかも知れないというだけであって、まだまだ覚りの道(ゲーム)の途中です。

それでも僕がこれまで覚らされてきた真理を全部説明するとしたらものすごく長くなる上に、結局は同じレベルまで覚れている人にしか理解されることはないでしょう(だから全部書くのは億劫です。長くなり過ぎて殆ど誰も読みさえしないでしょうしね)。まぁあなたにとって僕はNPCなのですから、僕の覚り(ゲーム)の進捗はあまり気にしないで下さい。

僕らは「真理(答え)とは何か?」を「自分が」経験して覚るために生まれてきています。どんな真理(答え)も経験を伴わなければそれは概念に過ぎず何の価値もありません。全ての真理(答え)を知る全知全能の創造主にとって真理(答え)自体には何の価値もないのです。だからまず「経験(人生)が真理(答え)を価値ならしめる」ということを大前提として知っておいて下さい。「愛」という真理にしても、経験が伴わなければそれは言葉に過ぎません。創造主はそれを経験して知るために大変な苦労をして我々とこの世界を創り運営しているのです。

創造主は真理(答え)への道を無数に用意しています。そしてあなた(自分)という主人公だけにアレンジされた貴重で尊いシナリオを用意してくれているのです。それをNPCである他人のものと比べても意味がありません。その無数に用意されたシナリオの中から、あなたはより素敵なシナリオ(成長・学び・覚りの道)を選ぶ権利(自由意志)が与えられているのです。それなのに自分が主人公であることにさえ目覚めようとせず、常識とエゴに埋没しながら人生を終えるとしたらそれはとても残念なことです。

今のあなたはまだ真理(ワンネス=すべての存在は一つ)という答えだけを他人である僕から聞かされてもまず理解できないでしょうし、理解したところで受け入れられないでしょうし、受け入れられたところで「へー・・・」という感じで何の感慨もないでしょう。まだ主人公として目覚めていない・物語(経験)を進められていない段階のNPCにとって真理(答え)というのはそういうものであり、実践経験を伴わない「さとり」はただの言葉であって何の価値もないのです。

ネットは便利で僕も大好きですが、そこにはあなたにとって自身の経験を伴わない伝聞情報しかありません。そして経験もなしに伝聞情報を集めることは自分のネガティブな思い込みを強化し、経験・失敗を恐れて臆病・怠惰になってしまいがちです。

もちろん伝聞情報を参考にすること自体は必要悪であり、宗教や科学など知識を得ることは人生の楽しみであり大事なことではあるのですが、真理(答え)までネットで探し、既に悟っているっぽい人に質問すればそれがわかるかも知れないと考えているのならそれは「さとり」というものを根本から誤解していると思います。真理を誰かに聞いて全部わかるぐらいなら世界は最初から救われていて、それはゲームの電源を入れるなりエンドロールになるようなもので、プレイ要素がなく無意味です。

真理(答え)を伝聞情報で済まそうとするのは、自分が経験して知る覚悟・主人公として物語を紡ぐ覚悟を放棄した怠惰であり、成長の拒否なのです。それはテストで答えだけをカンニングして済まそうとするようなものであり、たとえ答えが合っていたとしてもそこに至るまでの自分で考えた過程が書かれていなければペケなのです。

「悟りとは何か?」という問いは人生という大学における共通の卒論テーマのようなもので、いくら他人の意見を参考にしても問題ないのですが、書いて提出するのはあくまでも主人公たる自分であり、教授・試験官は全知全能の創造主なのですから、他人の意見を丸写しにして提出したら即バレであり落第は確実です。

そして以前の僕のように「自分は覚りなど目指していないから関係ない」と、卒論(覚り)の存在すら否定したところで、ひたすら落第を繰り返し(輪廻転生)、課題(カルマ)を重くし続けていつまでも卒業できなくなるだけです。

人生というのは誰にとっても「目標さえわからないままいつの間にか始まっている航海」であり、与えられている羅針盤は生まれた環境における常識でしかありません。そしてその羅針盤(常識)は一面真理のように思えて必ず間違っているものなのです。常識(初期設定)が正しいのなら人生というRPGのゲーム性はゼロです。

初期設定(常識)を知ることはゲームの大前提ですが、物事をいつでも他人を基準にして考えるのが当然と考えて常識を妄信していては主人公になり得ず、NPCとして人生を送るしかなくなります。真理(答え)とは悪しき常識の海の中に隠されているからこそ見つける喜びがあるのです。もしも真理(答え)が常識(初期設定)で、みんなが経験・成長なしにそれをわかってしまうようなら、人生は真理(答え)を探す経験・成長の物語にはなりえず、生きる意味がありません。主人公である自分の存在理由がなくなりますからね。

ただ常識というものは間違いでありながら、誰しも一応は納得せざるを得ないような一面の真理であり、それはちょうど一面だけ揃ったルービックキューブのようなものです。

もしもそれが誰でも間違いであると気づけるようなものであれば常識には成り得ず、舞台設定として成り立ちません。他人(NPC)たちがみんなそれを真理であるかのように思い込んでいるからこそ、それを覆す主人公(自分)の物語の舞台設定が成り立つのです。

その「一面真理に見える間違った常識」の最たるものが、みんながエゴ(我欲・保身・虚栄)のため金のために生きているのだから自分もそう生きるのが当前だという考えです。これは本当の真理(愛・ワンネス)とは真逆にあるものですが、NPC達はみんなエゴのために生きることを常識として疑わず、故にみんな責め合い争い合い奪い合って、結局それでみんな鬱っぽくなって不幸な方向に進んでいます。そこであなたという主人公が真理(愛)が何であるかかを悟り、説明ではなく実践を通じて彼らを導かなければならないのです。それはこのRPGのシナリオ上の必然なのです。

愛・ワンネスが真理だと言われても、当然あなたも周囲の人もそれを信じられないのが初期設定です。僕らはこの物質・肉体次元にいる限り「自分と他の存在は別なものである」という分離意識から完全に離れることはできないのです。だからこそ僕らは人生を通じて愛・ワンネスを全力で目指し続け、その過程に経験・成長の物語を生み続けることができるのです。

僕らは一般的に男女愛のような「条件付きの愛」を愛だとイメージしていますが、「条件付きの愛」というのは本物の愛とは真逆にある概念「エゴ」なのです。本物の愛というのはすべての存在(ワンネス)に対する慈愛なのです。我々はこの物質次元・肉体次元にいる限りエゴから完全に離れることはできませんが欲は悪いものですか?に書いた通り、エゴがなくては愛は存在意義がないのです。愛とエゴは磁石のSN両極のようであり、コインの裏表のようなものなのです。愛が僕らをつなぐ引力であり、それが存在するためにはエゴ(我欲・保身・虚栄・分離意識)という反発力が必要悪のものなのです。エゴが愛を価値ならしめる物語を生んでいるということです。

愛とエゴだけでなく、この次元においてすべては陰陽二元的にしか存在しえないのです。なぜすべてが陰陽二元的に作られているかというと、この世界(人生)は創造主が我々(分け御霊・人間)を通じて存在意義(存在価値・存在理由)を経験的に知るために作られたものであって、一元の点では位置が確定できない=価値が確定できない=存在意義が確定できないからです。

すべての存在が陰陽二元的に存在するこの世界を愛一元(非二元)に変えていくことこそがワンネスに向かうということです。それは粉々に砕かれた磁石がまた数珠つなぎに一つになるようなものです。ただ単に完全な一つの塊(創造主意識)に戻ってしまっては我々に存在意義はありません。我々はお互いの個性を尊重し、個性を保ったまま愛により数珠つなぎに一つになっていく、その過程に物語があり存在価値があるのです。そしてそれは流れる砂絵のように永遠に繰り返されるのです。

人生という真理を探す(悟りを求める)真夜中の航海において、他人(NPC)たちはみんな他人を基準にして考えて自らこさえた常識に流されて漂流しています。それが舞台設定なのですから当然です。その無明(エゴ・愚かさ・迷い)の闇の中で、目印とすべき北極星こそが真理(愛・ワンネス)であり、羅針盤は幸福(心からの笑顔)なのです。

先にある究極の答えがワンネス(本当は出会う人みんなが自分自身である)だと見通し、常に自分から実践を通じて出会う人みんなに愛を伝え、お互いが心から笑顔になるように思考し行動するなら、決して大きく道を誤ることはないのです。

真理(ワンネス)は目指すこと自体に意味があるのであり、この物質・肉体次元においては絶対に完全には到達できないものです。だからといって覚りを最初から諦めるのは、船で北極星には辿り着けないから目指さないと言うようなものです。

自分も他人も幸せにならないようなネガティブな覚りは確実に間違いであり、それは大抵は心の傷が原因の自己防衛手段であり、自らの臆病・怠惰の自己正当化なのです。そして「自分は正しい」と思えばそれ以上の成長はなく、成長を放棄しているも同然で、不幸に導かれるのは当然です。人生というRPGは魂の成長のために存在しているのであり、成長に反しても幸せになれるように設定されているのなら、誰も成長しようとはしないでしょう。

だから創造主はわざと人間を無明の闇(愚かさ)の中を彷徨うように設定し・常識通りに生きれば不幸になるように・本人が覚りを進めれば進めるほど幸せになるように人生・世界を設定しているのです。そうでなくては経験・成長・覚り・真理に存在意義がありません。

宇宙の仕組みに書いた通り、自分で作ったRPGは全てを忘れ、レベル1からスタートしなければ楽しめません。無明(エゴ・愚かさ・迷い)分離意識(自分と他の存在は別のものである)という幻が与えられているからこそ僕らは人生というRPGをプレイヤーとして楽しめるのです。本当は僕らこそがクリエイターなのであり、すべての存在は一つ(ワンネス=創造主意識)という真理を完全に認識できてしまったら物語は成立しません。だから僕らはそこには絶対に至れないようにプロテクトがかかっているのであり、それゆえに僕らは愛と勇気によってワンネスを全力で目指して成長し続けることができるのです。

覚りというのは無数に段階があって、スタートは人それぞれですし、今現在も人それぞれ違う段階にいます。それはロシアのマトリョーシカ人形のようなもので、自分は目覚めた・悟ったと思っても、それはまたより大きな覚りの内側であり構成要素なのです。(それでも真の覚りを目指し続けるのだ!というのが般若心経の最後のマントラの本来の意味です)

でもたった一つ殻を破れただけで人はすぐ「自分は目覚めた・悟った」などと言います。それが喜びなのであればきっとベクトルは間違っていないのでしょうが、それは法華経の化城宝処のようなものであり、真の覚りがあまりにも遠いために途中で挫折しないように、神仏は我々が何かを覚って一回り大きくなる度にまるでゴールにたどり着いたかのような喜びを与えてくれて、真の覚りへと導いてくれているのです。

何かの覚り(気づき)を得た時の喜びに浸ることも、その覚りをシェアして他人を導くことも良いことなのですが、自分が既に真の覚りを得たかのように慢心したり、他人に偉そうに語って自尊心を満たそうとしたり、覚りを金儲けなどの自己利益に利用しようとするのは覚りの道と逆行したものであり、自分だけでなく他人まで真の覚りから遠ざけ、それだけカルマを積んで後から清算させられることになります。

例えばただこの世界が仮想現実であることに気づいただけで既に悟りを開いたかのように勘違いし、その存在理由などが全然わかってないまま真の悟りから遠ざかっている人や、引き寄せの法則のような法則性を理解したつもりになって、本質をまるで理解していないままエゴの願望を引き寄せようとしたり、またその法則を人に教える事でお金儲けをしようとする人がいますが、そういう人たちを覚者だと誤解して頼ってはいけません。ワンネスが真理なのですから、自分や誰か特定の人だけが得をして、誰かが犠牲になり損をして不幸になるような考え方が真理であるはずがないのです。

人間にとって世界はわからないことだらけですから、人間は何かを信じることと無縁ではいられません。何も信じていないという人は、自分が他人を基準にして築き上げた自分勝手な常識を信じているという自覚すらがないだけです。何を信じるのか?それを決める主体こそが「自分」という存在なのです。

真理というものは万能であり、覚りが開けて真理に近づいてくると、何についても本質が見えるようになります。だから覚りが開けるほど、お金というシステムが覚りとは相反するもの・克服すべき課題(初期設定)だということが見えてきます。

人間の行動の動機には2種類しかなく、愛とエゴだけなのです。人がお金を欲しがるエゴを原動力とすることが前提なのが資本主義であり、主人公はそこから愛を原動力とする社会をへ自分から実践を通じて実現していかなければならないのです。できるかどうかではなく、目指そうという覚悟が大事なのであり、その実現過程に成長の物語があるのです。

お金というのは権力(強制力)の分譲券であり、真理ではないことを他人に押し付けるためにあるものです。真理というものは、自分がそれを実践する事で相手に自らそれを真理だと悟らせることさえできれば、相手は自発的に従う以外の選択肢をなくすような絶対的な理なのです。だから強制力が必要な時点でそれは真理ではなく、また真理であっても強制したらそれは真理ではなくなってしまうのです。お金は権力の分譲券なのですから、それを嫌な事を我慢してまで欲しがれば欲しがるほどお金は力を増し、権力者の権力を増してより嫌な事を他人から強制されるようになり、愛(真理)から遠ざかってしまうのが定めなのです。

というわけで「悟りとは何か?」ですが、それをまだ若いあなたが全然わからないのは当然のことであり、それは自ら経験・成長して知るべきことなのだとわかっていただけたでしょうか?その「悟りとは何か?」を自ら経験して知る人生という物語は、その道程に必ず苦難(課題)を伴うのですが、おぼろげでも北極星(真理・ワンネス)の方角がわかり、進むべきベクトルさえ見えていれば、必ずその苦難(課題)を乗り越えて成長し、人生はきっと素敵な物語になることでしょう。そのようにあなたが覚りを目指すという確たる覚悟さえ持つなら、「真理」というターミナル行きの電車に乗るように、どれだけ遠かろうといつかそこに辿り着くのは約束されたようなものなのです。

2023年7月9日日曜日

「引き寄せの法則」の真実

 【質問】20代後半・男性
引き寄せの法則について教えて下さい。


【回答】
ご質問ありがとうございます。

スピ界隈の人は本当に大好きですね「引き寄せの法則」(笑)でも僕はそれを聞く度にとても残念な気持ちになるのです。決して「引き寄せの法則」自体を否定しているのではありません。「引き寄せの法則」は確実にあります。でもそれは決してエゴのために意図的に利用するべきものではないのです。

あなたが引き寄せたい願望はどんなものでしょうか?恐らくお金持ちになりたいとか、社会的に成功して周囲から評価されたいとか、異性からモテまくりたいとか、何にせよそれはエゴ(我欲・保身・虚栄など)でしょう。

欲望は悪いものですか?に書いた通り、エゴの存在自体が悪いわけではなく、僕はそれをなくすべきだと言っているわけではありません。エゴというのは成長課題なのであり、それを乗り越えて愛を発揮するところに魂の成長があるということが言いたいのです。

「引き寄せの法則」を使ってエゴによる願望を思い込みの強さだけで引き寄せようとすることは、その魂の成長のベクトルと逆行するものであり、うまくいかないか、うまく行ったとしても器に合わない幸運を手にすることでカルマを積んでそれが借金のようになり、後々大きな利子付きで返済を請求されるかのどちらかです。

究極の真理はワンネスであり、すべての存在は一つ(創造主)なのですから、エゴによって「自分」という個体にだけ都合の良い現実を無理やり引き寄せようとすれば、ゴムを引っ張るのと同じで大きな反動が起きるのは当然です。もしあなたが「引き寄せの法則」を使ってうまく行っていないのなら、それは守られているのであり、むしろ感謝すべきかと思います。

「引き寄せの法則」を教えることでお金を稼ぐ人は多いですが、それは僕に言わせれば「情報商材詐欺」と何ら変わらず、確実にカルマを積んでいると思います。「思考は現実化する」で有名なナポレオン・ヒルからして著書で有名人にこそなりましたが、結局は全然お金持ちにも幸せにもなっていないですからね。エゴの願望を引き寄せたいからといってそういう人達にお金を払って教えて貰うのは醜く愚かなことなのだと知って下さい。エゴを目的に行動すると、自分より能力・権力を持った人間のエゴの餌食になるのは必然のことなのです。

人間というのは成長を楽しむためにわざと愚かに作られていて、我々はいつも原因と結果を短絡的に結び付けることによって法則性を見つけ、それを使って自己利益を期待し、成功したと思ったら例外を無視してその法則をこの世の本質であるかのように思い込みます。「引き寄せの法則」もまさにそういった類のものであり、それを利用しようとする人は思考が短絡的で本質というものが見えていないのです。なのでこれからその多くの人が見えていないこの世の本質について語ります。

僕がいつも言っていることですが、自分に都合の良いものなら赤ん坊でも愛せます。真に大人になるということは、自分に都合の悪いものも魂の成長のために与えられた課題だと信じて感謝しながら乗り越えていくことです。


どうか何かを望む前に、まず既に与えられているものの価値に気づいて下さい。存在し、経験し、愛せるということの価値に。何かを望むということは、基本的に現状に対して不平不満を言っているのと同じことなのです。あなただって自分が与えたものに感謝せず不平不満ばかり言う人にもっと良いものを与えたいとは思わないでしょう。それは創造主も同じなのです。何かを望む前にまず既に与えられているものの価値に気づけず心から感謝できない人は、願望が叶うどころか逆に与えられていたものをはぎ取られ続け、失うことで価値に気づかされるような悲しい人生になってしまうことでしょう。

あなたが欲しいと思うものは、何も言わなくても全知全能たる創造主はみんな知っています。それなのに創造主がそれを敢えて与えないのは、
1.まだシナリオの伏線の回収(課題の克服・カルマの解消)ができていないから
2.信心がなく、既に与えらえれているものへの感謝がないから
3.願望がエゴでしかなく、愛がないから
です。

愛のない生き方をしていて器が小さい人は、幸運を与えても受け取り切れずにカルマを積んでしまうので、それを防ぐために・成長を促すために敢えて願望が叶えられていないのです。成長してない人にご褒美を与えては人生は成長の物語にはなり得ません。

だから我々は創造主に対してエゴで何かを求めたり期待したりせず、エゴを乗り越えて創造主の愛に適った生き方をしてその愛が受け取れるように自分の器を大きくしていくこと(魂を成長させること)が大事なのです。

全知全能の創造主は全ての必要性を自分で満たせるので必要性自体が存在せず、我々に一切見返りを求めずにただ与えるだけの偉大なる贈与者なのです。我々が彼のために直接できることはなく与えられたものに感謝するのみで、もしその感謝を形にするのなら、創造主の分身である人間みんなを無条件で愛し無償で奉仕することです。創造主と同じように見返りを一切求めず人に無償で奉仕できるようになったら、すべての存在の根源である創造主から愛されないわけがありません。

僕らは人生という映画の主人公なのであり、俳優がやるべきことは目の前の物語を全力で楽しみ感謝しながら一生懸命に紡いでいくことです。なのに監督たる創造主に対して配役やシナリオに不平不満を言ったり、努力・善行に対して何かの見返りを要求すれば、監督(創造主)からの愛を受け取れないのは当然です。それでいざとなれば降板(自殺・安楽死)しようと考えながらテキトーに演じている役者に対して、監督(創造主)がより良い役柄やシナリオを与えるということはあり得ません。

僕らは主役を与えられた役者なのですから、物語の結末は監督(創造主)に任せて気にせず、ただ何事も楽しんで、配役(経験機会)を与えられていることに感謝しながら、一生懸命自分という役の使命を最後まで果たせば良いのです。それが創造主の愛を受け取る最善の方法です。それは聖典バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが力説していることでもあります。


引き寄せの法則を意図的に使うということは、何かをするより先に結果を期待しているということであり、それは我々にすべてを与えし創造主に対して「これをするからあれをください」というように交換条件を出して見返り要求しているに等しく、それは醜く愚かなことなのです。

自分が全額を出して養っている子供から「お金を出すから○○して」などと言われたら腹が立つでしょう。我々はすべてを与えてくれている創造主に対して交換条件など決して出してはならず、ただ与えられたもの(自他の存在・経験機会)に心から感謝して、自分のなすべきことを愛して真心を込めて一生懸命やるべきなのです。

宇宙は因果という大法則で成り立っており、善因善果・悪因悪果です。しかし善行が必ず報われるという結果が予め確実にわかってしまうと、善行の動機が結果を期待したエゴになってしまい、醜くなってしまいます。

例えば貧しい人に寄付したら必ず倍になって返ってくると確実にわかっていたら、寄付行為が美しい無償の愛ではなく利益を求めた醜いエゴになってしまいます。善行というのは見返りを求めない(結果を期待しない)からこそ創造主から愛される美しい慈愛の発露となるのです。

そして悪因悪果があまりにダイレクトに反映されたら悪い事をする愚かな人は誰もいなくなるでしょう。それは創造主が人間に善行を強制しているに等しく、それでは魂が成長しません。そして「自発的かつ見返りを求めず善行を積む」ということに価値がなくなってしまいます。

だから創造主は善因善果・悪因悪果がダイレクトに反映されないよう、時間差を設けているのです。それゆえに我々が世の中を短期的・短絡的に見れば、善行をしても報われず仇で返されたりする人もいれば、悪いことをして社会的に成功して幸せになっている人もいるように感じられるのです。

しかしそれはこの魂成長のRPGプログラムにおいて必要不可欠な設定でありトラップなのです。それに見事にひっかかって、善行を積んでも無駄だと考えたり、欲深でお金にがめつく意地汚くなるのを恥とも感じず、何とか悪い事をしてでも・他人を犠牲にしてでも自己利益を得よう・願望を実現しようなどと考えることは、すべての存在である創造主の愛に反した考え方であり、それによって壮大なカルマを積み、今生か来世かあの世か、いずれにせよいつかは必ず清算させられるのです。

旧約聖書のヨブ記にはこんな話が語られています。善人であるヨブに突然すさまじい災いが次々に降りかかり、財産も家族も全て失いました。しかし最初は創造主を恨んだヨブも、最終的にはすべてを試練として感謝しながら受け取ったために、後にはそれまで以上に幸せになった、と。

結局、ネガティブな事が起きても成長課題・試練だと思って誰のことも恨まず感謝しながら乗り越え、見返りを一切期待せずに出会った人みんなに愛を与え善行を積む姿こそが美しいのであり、より創造主からの愛を受け取れるのです。

創造主はその愛を受け取るかどうかを僕らの自由にしてくれています。本物の愛というのはそのように相手を自由にするものなのです。それに対してお金というのは権力の分譲券であり、権力というのは強制力であって、自分のエゴを満たすために相手の自由を奪うものです。だからお金というのが愛と相反する概念であり、人を幸せにしていない人が器に合わない大金を求めれば愛を失うのが自明なのです。

そういう本質が見えてくれば、宝くじに当たった人の大半が当選前より不幸になるのも当然であるとわかるでしょう。宝くじなんてものは、例え当たらなくても買っている時点でカルマを積んでいるようなものです。それは人に奉仕して幸せにせずにラクして自己利益を得ようというエゴの表れなんですから。

日本の昔話は本当に子供の頃から我々に真理へ導く大事なヒントを与えてくれています。「はなさかじいさん」の話は知っていますか?これはきっと事実が元になっていると僕は思います。

成功者が手にした幸運だけを表面的に見て、自分もそれが欲しいと結果を期待して引き寄せの法則を使おうなんて考えるのは、この物語の意地悪おじいさんのように醜く思考が短絡的で愚かなことなのです。主人公のおじいさんとおばあさんは慈愛に満ちてみんな仲良く楽しく感謝しながら暮らしていたのが創造主の愛に適っていたから幸運を手にしたのであって、結果など何も期待せず毎日をただ幸せに暮らしていただけです。彼らが引き寄せの法則のようなものを必死に学んで願望を引き寄せようなどと考えるような人物だったら、隣の意地悪じいさんのように不幸になっていたことでしょう。

この物語の中で主人公のおじいさんとおばあさんも身の丈に合わない大金を手にしたためにカルマを積んでしまい、かわいがっていた犬を殺されてしまったわけですが、それでも犬を殺した意地悪じいさんを責めたり避けたりせずに許し、犬の痛み苦しみに同情して成仏を祈って丁寧に弔い、そしてみんなを喜ばせようと無償で花を咲かせました。そういう姿が慈愛に満ちていて美しく創造主の愛に適っていたから、更なる幸運を手に入れたのでしょう。

お金が手に入るか入らないか、他人に評価されるかされないかなどはまったく関係なく、主人公のおじいさんとおばあさんは幸せな「存在」だったのであり、意地悪じいさんは不幸な「存在」だったのです。この世の出来事は全てその人が「どういう存在なのか?」に応じて与えられるものなのです。

科学的調査によって、お金など何かを手に入れることで得られる幸せ(快感)というのは3~6カ月でなくなり、元々の幸福度に戻ることが明らかになっています。つまり今の普通の状態で幸せでないのなら、何かを手に入れることで幸せにはなれず、逆に今の普通の状態で幸せなら(幸せな「存在」になれていたら)、何が手に入るか入らないかに関係なく幸せになれるということです。だから何かが手に入れば幸せになれるという「幸せの条件化」はそれそのものが不幸なことであり、何かを手に入れるために躍起になって生きても、逆に幸せを犠牲にしてしまうことになってしまうのです。だから何かを手に入れることよりも、「今」幸せになれるような考え方(哲学・価値観・世界観)を育てることの方が大事なのです。

「引き寄せの法則」で言われているようなことは概ね正しいと思います。しかしその法則を使ってエゴの願望を引き寄せようとするのは、最初から結果(見返り)を求めて努力をするということであり、せっかくの善行もエゴ由来の醜いものにしてしまうことになるわけで、わざわざ創造主の愛に反する愚策だと思います。

というわけで、引き寄せの法則は存在はしていても決してエゴのために意図して使うようなものではないということがよくよくお分かりいただけたでしょうか?結果(見返り)を求めない慈愛こそが創造主の御心に適っているのですから「引き寄せの法則」なんてものはかえって学ばない方が良いのです。それは結果(見返り)を求めることが大前提のもので、本質からズレて道を誤ることが最初からわかっているものですから。日々六波羅蜜を行じることによってエゴを乗り越え全ての存在への慈愛に目覚めていくことの方がどれほど大事かわかりません。


最後に。あなたは創造主の子で天使であり、この世界の主人公(メシア)なのです。他人を不幸にしてでもエゴ(我欲・保身・虚栄)を満たすことで幸せになりたいような人間では主人公には成り得ません。引き寄せの法則でエゴの願望を引き寄せようなんて考えず、自分自身の存在と出会うすべての存在に心から感謝し、心からの笑顔をみんなに連鎖させて下さい。そしてはなさかじいさんが花を咲かせたように、笑顔の花を世界に遍く咲かせて下さい。というわけで・・・

「引き寄せるなら世界の平和と幸福を!」



2023年6月30日金曜日

エンジェルナンバーについて

【質問】年齢不詳・男性
いつも拝見させております。質問したいことがあります。

私は仕事柄、数字を良く見るのですが、ふとした瞬間に何かを見ると、数字のゾロ目を目にします。例えば、777  333 8888 など。特に1111が1番多いです。

俗に言うエンジェルナンバーというものですが、調べてみると恋愛が成就するとか、願いが叶うとかご利益狙いのサイトばかりでしっくりきません。このようなゾロ目を見る意味はどんな意味があるのでしょうか?天使やハイヤーがそばにいてくれたりするんでしょうか?



【回答】
ご質問ありがとうございます。

大変申し訳ありません。僕は占いや数秘術の類のことは全く存じ上げません。なぜなら(宇宙の仕組みにも書いた通り)興味がないからです。

なぜ興味がないかというと、大きくは三つ理由があります。
一つ目は占いが覚りの本質とは関係がないと覚っていること。
二つ目は運命を完全に天に任せていること。(僕は一度捨てた命を助けられているため、自分個人の運勢には全く興味がわきません)
三つ目は自分の使命とこの世界のシナリオの大枠を既に覚らされていること。(些末な運勢で一喜一憂する理由がありません)

僕が目覚めてからは毎日が奇跡の連続で、とても幸せです。もちろん不運だとも思えることが起きたりはしますが、それは成長のために与えられた試練だと思っているので、運勢なんて全く関係ないと思っています。そういう僕が占い師を頼りにしたり、自ら占いを勉強して他人を占ってどうこうするということはありえません。更なる目覚め(覚り・世界の平和と幸福の実現)のために必要な勉強がたくさんありますから。

ただ占いや占い師を全否定するつもりは毛頭ありません。多分目覚める前ならエンターテイメントとして面白いものだろうとは思いますし、世界に偶然は存在せず、科学的にはまだわからない法則性というものは必ずあり、星の巡りや様々な事象から神々の意思・運命を読み解くことは可能だと思うからです。

しかし占いで他人の過去を言い当てたりすることはできても、結局は他人の未来を正確に知ることはできないと思います。大震災の前にそれを正確に予言して被災するはずだった人を避難させることができた占い師が一人でもいたでしょうか?そういうことなんです。

僕は目覚める前で鬱だった頃、よく当たると評判の占い師に見てもらったら「あなたは人間関係が苦手で直接人を動かすのがうまくない人だから、そういうのが得意な人を下につけると良い」などと言われました。(人を動かすのが苦手な人の下に得意な人がつくとは思えませんが)それも二回見てもらって二回ともほぼ同じ内容で、当時は結構落ち込みました。しかし目覚めてからは占いには興味をなくしていたのに、縁あってその占い師と友達になって無料でもう一度見て貰ったら「あなたは何をやっても人を導くリーダーになるでしょう」と言われました(笑)

運勢なんてそんなもんなんですよ。人生というRPGは全部が主人公たる自分次第にできているのです。あなた自身が事象をどう解釈するかが大事なのであり、その解釈によってあなたも周囲の人も幸せになるのなら、それが正しい解釈だということです。

もし占いが励みになるのなら励みにすれば良いでしょう。人を元気にして良い方向に導ける占い師なら、良い仕事をされていると思います。ただ人をガッカリさせたり悪い暗示にかけて脅したり不安に陥れたりして結局自己利益につなげようとする占い師や、ネガティブなオーラが前面に出ている占い師は避けた方が良いと思います。自分自身すら幸せにできていない占い師に何を見てもらうのかわかりませんからね。

>天使やハイヤーがそばにいてくれたりするんでしょうか?

まず自分自身がこのRPG世界の主人公なのだと気づき、また天使でもありハイヤーセルフと同体でもあるのだと実感を伴って気づくと、自分の果たすべき使命がわかりますし、人生がどんどんドラマティックになって楽しくなりますよ。

そのためにはエゴ・霊障の穢れを日々祓っていくことです。具体的には信心を持つこと、浄霊をすること、自分の体や身の回りを綺麗にすること、人の幸せを心から願い無償で奉仕すること、感謝の気持ちと心からの笑顔を常に忘れないことなどです。詳しくはnoteの諸々の記事を読み返してみて下さい。

更に仏教の六波羅蜜を行じると良いと思います。仏教の修行を古臭いとか厳しく難しいとか堅苦しいとか自分には無縁だなどと先入観だけで決めつけないで下さいね。本当はこの世に生まれてきた人間全員が修行のために生まれてきたのであり、乗り越えられない試練は与えられないのですから。


この創られたRPG世界に、クリエイターが意図していない事象・存在は出てきません。つまり偶然は存在しません。エンジェルナンバーだけでなく、すべての事象・存在が創造主からのメッセージです。すべて愛で与えられているものですから、すべてを愛で解釈できるようになれば、創造主のメッセージを正確に読み解けるようになると思います。

最後に、創造主からのメッセージを代理であなたに贈ります。
「偉くなろうとするな、(全ての存在が)尊いと知れ。特別な人間になろうとするな。特別(主人公・メシア)であると知れ。そして愛(真理)を実践し、特別でなくなること(世界の目覚め・ワンネス)を目指せ。」

2023年6月6日火曜日

運命への呪い

 【質問】40代・女性
子供時代、私の姉は意地悪で長年執拗に無視や嘲り馬鹿にされるなど嫌われたことがとても辛かったです。親は私の心を守ってはくれず、学校でも同級生とうまくいかず段々とノイローゼ・無気力・過剰な焦り・恐怖・憎しみなどに支配され自分をコントロールができなくなり成績もガタ落ちしてその後は本当に惨めな思いをしました。

具体的には良い大学に浪人しても行けなかった、正社員になれなかった、職を転々とニートばっかりやっていた、ご縁がなく嫁にもいけないどころか恋愛すらまともにしたことがない、もうそろそろ子供を産むこともできない、身体もあまり強くないのにこのまま独身で孤独であくせくと働いても貧乏なまま超低空飛行で生きていくしかないのかと思っています、、。こんな惨めな思いをするとは10歳の時の私は想像もしなかったでしょう。

一方で姉は勉強をしなかったから良い学校には行けませんでしたが、すんなり良い会社に入り、すぐに今の夫を見つけて子供も産んで楽な範囲でパートで働いて自分の小遣いを貯めるというという女性が一番楽に思われる人生を歩んでいます。私は姉の就職する迄を見ていますが彼女は勉強などの努力をしたことはありません。いつも彼氏と遊び呆けてました。姉の人生は正直全部運なんじゃないかと思えます。何でこんな人をいじめる裏の顔の汚い女が何の困難もなく幸せで私ばかり心を病んで苦労するのか、姉と自分を比べては落ち込み、姉を憎むことを長年続けました。姉さえいなければと何度も思いました。

スピリチュアルを勉強していく中で人生をRPGだとして姉のような悪役AIは本当は嫌われる悪役なんかやりたくないのに私を成長させるためにやっているんだ本当は愛しかないんだとかそんな学びもありますが、そうはいっても現実に戻れば自分が惨めだから姉を憎んでしまうのでした。姉を意識指数という物差しでみれば確実にかなり低い人だと思います。

姉を憎む時、子供の頃どれだけ悲しい辛い思いをしたか、その苦しみから心を病んでその後の人生でどれほどの悪影響があったか死んでからでもいいからちゃんと味わって欲しい、姉が生まれ変わったら私と全く同じ目にあって欲しい、いや罰としてもっと辛い思いをしろよと思ったのです。

だけどそう思った時一つの考察が浮かび上がりました。例えば姉が私に呪われて姉が生まれ変わり呪いが成就して私と同じような辛い体験をする時、それは私と同じような人間でなくては体験しようがないものです。私と同じ人が未来に作られるってこと?もしかして姉の生まれ変わった未来が私ってこと?私の過去が姉?と思ったのです。本来時間など存在しない、未来も過去もない時系列もないとしたら、つまり私が姉を呪うほどに今生きている私が辛い人生を歩むかもしれない?人を呪わば穴二つとはこういうことなのか?という考察です。分かりにくかったらごめんなさい。でももしこの考察が正しければ私は姉を憎む事を自分のためにやめられそうです。違っていたら小っ恥ずかしいですが訂正をお願いします。

【回答】2024年10月22日更新
ご質問ありがとうございます。

僕も子供の頃は姉や兄からよくいじめられましたし、同級生や先輩たちからも常にいじめられていましたし、親や先生や大人たちからも叱られてばかりで、とても自尊心が低く育ち、精神を病んで職場にも全くなじめず鬱が悪化して会社を辞め、40歳過ぎまで半ひきこもりでダメダメな人生を送ってきたのでお気持ちはとてもよくわかります。

>人を呪わば穴二つとはこういうことなのか?という考察です。
>もしこの考察が正しければ私は姉を憎む事を自分のためにやめられそうです。

まさにその通りかと思います。輪廻の仕組みについてもあなたの認識は概ね正しいと思います。

世界はワンネスであり、私もあなたも同一の存在であり、創造主(存在・事象の全て)と同一なのです。つまり我々は全員が同一人物のようなもので、それが分離意識を与えられ創造主意識・前世の記憶を失うことで、それぞれの配役を主人公とする見地から物語を経験し、シナリオを超時空的に上書き更新しているのです。

あなたがそこに既に気づきかけているのであれば、僕から言うことは何もないのですが、それだけでは回答にならないので、詳しくご説明させていただきますね。

あなたは鬱状態にあるようですから、きっと人の話をまともに聞ける状態じゃないのは僕も経験があるのでよくわかるのですが、できるだけ元気な時に読んでいただけると幸いです。

まず人生というのは魂成長のためのプログラムであり、成長のベクトルに向かうほど幸せに導かれ、成長とは反対のベクトルに向かうほど不幸に導かれるシステムによって、我々は真理に気づいて自発的に成長していくように作られているのです。

成長課題を与えている創造主が課題を解決したり、答えを直接教えてしまっては誰も成長しません。人生は魂の成長のためにあるものですから、人間が自発的に課題に気づいて自分で乗り越えていけるようになっているのです。

そのために我々は成長とは対極に流されるように初期設定されています。そうでなくては成長に価値は生じませんからね。初期設定というのはすべて課題を含んでいるものであり、それを乗り越えることによって魂は成長するのです。そして当然そこには努力が要るのです。

人間、成長と逆のベクトルに進んでしまうのが初期設定(普通)ですので、あなたが悪いのだと責めようとしているわけではありません。だから自分を責めて落ち込まないで下さいね。自尊心を下げれば思考・行動もネガティブになる悪循環に陥ってしまうので。本当はあなたは創造主の子であり天使なのですから、常に自尊心は高く保って下さい。

僕は上から目線で説教しようとしているのではなく、同じ苦しみを味わい、そしてそこを乗り越えている人間として、あなたが自分の課題に気づけるようできるだけわかりやすく伝え、幸せに導こうと努力しているだけなので、どうか僕に対して怒ったりしないで下さいね。

学校ではそこの生徒のレベルに合わせた課題が出されます。生徒が絶対に解けない問題を出しても成長にはつながりません。人生という学校でもそれは同じで、乗り越えられない課題は与えられません。与えられた苦難が大きいということはそれだけ魂のレベルが高く、より成長が期待されているのです。

<成長と対極にある要素(課題)> には主に以下のものがあります。
1.怠惰
2.臆病
3.被害者意識
4.自己正当化
5.依存(逃避)

それぞれ、詳しく解説していきますね。

1.怠惰
僕らは人生という映画の主人公なのですから、怠惰な役者では使い物にならず、良い物語を経験できないのは当たり前だとわかりますね?

なぜ怠惰に陥るかというと、元々面倒くさがり屋という素養が課題の人もいますが、あなたはとても頑張ってきた人なので、きっとそうではないのでしょう。

多くの人が怠惰に陥るのは、努力してもうまくいかなかった経験の蓄積から自尊心が下がって思考・行動もネガティブになり「どうせ自分なんて何をどんなに努力したところで無駄だ」という諦めにより腐って怠惰に陥り、更に悪い運命を引き寄せる悪循環を起こしているからであり、それは「自己効力感の低さ」だと言い換えることもできるでしょう。

世界というのは自分という主人公次第に作られているのですが、多くの人は行動の選択・努力によってより良い結果を得ようとします。しかし僕らは自分の認識(解釈)が作り出す世界の中を経験しているのであり、当然世界をネガティブに解釈している人には、訪れる選択肢も自分が作りだしたネガティブな世界の中にあり、何を選んでもハズれしかないヤクザの夜店のクジの如く、何をどうしようとネガティブな結果になってしまい、自己効力感を感じられなくなってしまうのです。

だからどんなネガティブな人・出来事との出会いも創造主からの愛で与えられている課題なのだと解釈し、どんな意味・理由があるのか愛によってポジティブに考えて乗り越えて成長していかなければならないのです。もちろんあなたの姉や親との出会いもそうであるということです。

簡単に許せる人を許し、簡単に愛せる人を愛しても成長はありません。許し難きを許し、愛し難きを愛するところに成長があるのです。楽器の演奏と同じで今までやっていなかったことを最初からうまくできるわけがありません。それで心が折れて諦めてしまっては上達しようがないのです。しかし日々心掛けることでどんどん上達していきます。ベクトルが逃げ・諦めではなく許し愛するベクトルに向いていれば、途中でどんな障害があっても(時には逃げたりしても)乗り越えていけるのです。

あなたはきっと自分など大した存在ではないと思っているのかも知れませんが、あなたは宇宙の主の分身であり、見えないだけであなたの思考・行動は宇宙にとんでもない影響を与え、それが全部自分に返ってきているのです。

漫画家の井上雄彦さんが「キャラクター設定さえしっかりしていれば、物語は勝手に生まれていく」とおっしゃっていましたが、人生という物語も全く同じで、「自分がどんな存在であるか?」に応じてシナリオが自動的に更新され、その主人公に最もふさわしい出来事が起き、その主人公に最もふさわしい物語になるのです。

男はつらいよの寅さんの如く、映画の中ではしがない庶民役でも天界では超有名人であり、人生という物語の主人公であるあなたは行動だけでなく思考までもがすべて常に神々から見られ、そして導かれているのです。

だから世界・人生をネガティブに解釈をする存在になってしまっていたら、ネガティブな人・出来事を引き寄せ、ネガティブな経験ばかりを積み上げ、更にネガティブな考え方・世界観になるという悪循環に陥ってしまうのです(それも成長過程として必要だから与えられているの経験なのですが)。

あなたは受験に失敗したそうですが、自分自身を嫌っているのに、脳や体がその主であるあなたのために全力で働いてくれるわけがありません。それは僕も同じように鬱でまともに勉強できるような状態ではなくて受験に失敗したのでよくわかります。だから自分を嫌いなまま努力してもダメで、自分を許し愛することから始めなくてはならないのです。

そのためには出会った人一人ひとりを許し愛することです。人は自分を許せない・愛せない要素を他人に投影して憎んでいるだけなのですから、出会った人一人ひとりを許し愛することで「自分大好き」というパズルが完成していきます。そしてあなたに愛されなくても今日まであなたを支え続けてきた体をいたわってあげて下さいね。

そもそも結果(見返り)を求めて努力(善行)をすること自体が創造主の愛に反する考え方なのであり、不幸に導かれるのは当然なのです。すべてを与えている創造主に対して、我々は決して交換条件を出してはいけないのです。

>すぐに今の夫を見つけて子供も産んで楽な範囲でパートで働いて自分の小遣いを貯めるというという女性が一番楽に思われる人生を歩んでいます。

それを羨ましがるということは、あなたはそういうイージーな人生を見返りとして求めながら努力してきたのでしょうか?僕らは成長のために生まれてきているのですから、形は人それぞれ違えどどっちにしても死ぬその瞬間まで苦労するのです。だからラクをしようとして努力すれば報われるわけがありません。

筋トレだってずっと辛い思いをし続けなければ体が鍛えられることはありません。だから苦難を与えられていることに感謝し、どこにもラクな道などないと達観して人生の課題を他人と比べず正面から立ち向かって行けば怖い物なしなのです。

結局、与えられた課題を恨みで返し、恐れて逃げるから課題が雪だるま式に大きくなってしまうのでしょう。そしてどこかにイージーな人生があって自分は運が悪いなどと自分の課題を他人と比べるからみじめになり、世界観・人生観がネガティブになってネガティブな世界・人生になってしまっているのでしょう。僕は3年半もホームレス乞食をしていましたが、苦労をゲーム感覚で楽しんで感謝していたので、毎日が幸せで少しもみじめなどには感じていませんでした。もちろん今も幸せです。

努力することは尊いことですが、結果(見返り)を求め、(金稼ぎの)能力=価値と考え、人に序列をつけるような考え方によって努力するのは良くないことなのです。その考え方では自分を他人と比べてみじめになるのが必然です。

あなたは姉が「能力が低く努力家でもなく私をイジメたことを反省もしていないのに運によって幸せになっている」と考えているようですが、僕はそうは思いません。この創られた世界にRPGに偶然は存在しないのです。そして人の苦しみは全て自分自身の考え方によって生み出されているのです。

我々は結果のいかんに関わらず努力(善行)をすること自体を愛するべきなのです。結果次第で愛・幸せが左右されてしまうような考え方をしていては、幸せにはなりようがないのです。

例えば貧しい人に施しをするのは見返りを求めないからこそ創造主から愛される「心の美しさの発露」となるのであって、もし貧しい人に施しをすれば必ず報われると最初からわかっていたら、その施しは善行でも何でもなく結果を期待した「醜いエゴの発露」になってしまいます。貧しい人に施しをすること自体を愛すれば、見返りなど何もなくても幸せになれるのです。そしてそういう人こそすべての存在の根源である創造主に愛され、より幸せな存在になり幸せな人生になっていくのです。

あなたの姉はあくまであなたの認識世界内においての姉のコピーAIが努力もなくラクして幸せになっているようにあなたからは見えているだけで、あなたの姉を主人公とする彼女の認識世界においてはそうではなく、彼女なりの苦労があり、彼女なりの学び・経験・成長過程(シナリオ)があるのです。

「楽は苦の種、苦は楽の種」であり、人生は決してラクをして楽しくはなれないのです。あなたの姉が本当にラクをしているのなら幸せなはずはないのです。他人を見てラクをして幸せになっていると勘違いするのは人生のトラップであり、それを呪えば全部あなた自身に返ってくるだけです。

音と水の存在意義」に書いた通り、世界は波動でできているのであり、それは思念の乗り物なのです。あなたの思念・波動を一番近くで受け取るのはあなた自身であり、その影響を一番受けるのもあなた自身なのです。それは相手がどんな極悪人であっても同じです。だから出会う全ての人に対して愛情は無条件化していかなければならないのです。

あなたが主人公なのに、NPCである他人と与えられたものの違いを比べ、自分に与えられている価値に気づかず、不平不満を言ったり呪ったりしては全部それが自分に返ってくるのは自明なのです。逆にあなたが他人と比べるのを止め、与えられた全てに感謝し、その恩返しに生きるようになったら、魂が成長し、鬱を乗り越えてより大きな幸せを感じられるようになると思います。

2.臆病
臆病ではチャレンジに消極的になりますから、成長に反した要素だとすぐにわかりますね?


しかし人間は基本的に臆病に作られています。そしてその臆病さにより成長より保守(自己保存)を優先してしまうようにプログラムされているのです。それは我々に共通した課題であり、最初から自信満々で何も恐れないようでは、愛と勇気に価値は生じないのです。臆病者が振り絞る一握りの愛と勇気にこそ価値があるのです。

人生は愛と勇気を試すためのRPGですから、怠惰・臆病を乗り越えなくてはいけないのは当然のことであり、怠惰・臆病に陥れば当然悪い運命に導かれるように世界は作られています。

愛と対極にある要素がエゴであり、それは主に我欲と保身で構成されています。臆病というのはエゴ(保身)由来であり、六波羅蜜のように見返りを一切求めず無償で人に尽くし続けることによって乗り越えることができるのです。このあたりの話はエゴ(欲)とは何か?に書いています。

そして自分に自信がなく、自尊心・自己愛が低ければ臆病になるのは当然です。自信の身に着け方は誰でも自信満々になれる方法に書いていますので、熟読をお願いします。あなたは以前の僕と同じように、能力によって自信を築こうとし、それがうまくいかずに自信を失っているのでしょう。そして子供の頃から人に嫌われることで傷つくことを恐れ、自分を愛してくれる人だけを愛し、自分を嫌いそうな人のあら捜しをして予め嫌い、必然的に人の顔色を伺わなければならなくなり、主体性を失って人に振り回されてきたのでしょう。実は世の中そんな人ばかりなんですけどね。

しかし出会う人は全員自分の鏡であり、自分さえ出会った人をあくまでも愛し抜く覚悟さえ持てば、相手の顔色を伺ってビクビク恐れる必要などないのです。どれだけ嫌おうと自分を愛してくれる相手を嫌いきれる人間などいないのですから。

この資本主義の世界ではエゴ(我欲・保身・虚栄)のために生きる臆病さが肯定(むしろ推奨)されていますが、それはこの人生というRPGにおける初期設定であり、本当は臆病こそが最大の罪(課題)なのです。このRPGは愛と勇気を試すためのものなのですから当然です。最初から最後まで臆病なままで成長しない主人公が最終的に報われるシナリオのRPGや映画などありません。

どうかあなたという存在が創造主に愛されて生まれてきたということを知って下さい。あなたはかつての僕と同じように与えられているものの価値がわからず、試練をすべて恨み・呪いで返すことによって不幸に導かれてきたのでしょう。しかしそれも愛と勇気、覚りと幸せを価値ならしめるために必要な経験だからこそ与えられているのです。

あなたが生まれたのは偶然ではなく、必然なのであり、確率で考えたらあなたもこの世界も生まれてはいないのです。すべての病気や事故で死ぬ確率を全部合わせたらあなたはとっくに死んでいます。どうかあなたが創造主の愛ゆえに使命を与えられて「生かされている」っていうことに気づいて下さい。

3.被害者意識
世の中で一番簡単になれるものは被害者です。自分の不幸を他人や運など自分以外のせいにすればすぐなれますから。ただ思うだけで誰でも簡単になれるということは、成長する必要がありませんから、成長とは逆のベクトルであるということがご理解いただけると思います。我々が被害者意識に陥れば不幸に導かれるのは当然なのです。

あなたが主人公のRPGにおいて他人はあなたのために用意された脇役NPCであり、あなたの鏡でもあるのです。それは時間差のある拡大鏡であるので、相手と自分の違い・欠点や過ちを探して、自分が嫌っている相手は自分自身などではないという考えにすがるように人間は初期設定されていますが、それこそが人間に与えられた無明(愚かさ)なのです。それがなくては合わせ鏡に映った自分に向かってしゃべり続けるようなもので、物語は生まれようがありませんからね。

出会った相手の問題はあなた自身の課題(カルマ)であり、それを相手の問題で自分の問題ではない→解決しない相手が悪い→自分に嫌なことをしてきた悪い人間なのに自分より幸せになっているのは憎い→だから呪ってやれという考え方は、成長とは真逆のベクトルであり、やはり不幸に導かれるのは必然なのです。

この世界はすべて自分次第に作られているのであり、相手を変えようとしても決してうまくいかないようにできています。しかしそれを自分に与えられた課題と考えて自分が成長すれば(許し愛すれば)、相手も世界も変わるのです。この人生というRPGはすべてが主人公次第に創られているのです。

あなたはご自分の不幸を姉や親のせいだと考えて被害者意識に陥っているようですが、それはあくまであなたが自分の認識世界において悪役にしているのであり、他の人の認識世界においてはそのようではないのです。あなたが姉を許し愛せるようになったら、姉も別人のように変わるでしょうし、それを鏡としてあなたも自分自身を許し愛せるようになり、きっと幸せに導かれることでしょう。これを僕は実体験で経験しています。本当に「出会った人を誰も嫌わない」と決めた瞬間からたった一か月ほどで、それまで嫌だった人がみんな良い人に変わりましたからね。

被害者意識というのは恐ろしいもので、それは「自分は誰かのせいで不幸である」と認めることであり、「自分は不幸な存在である」とクリエイターに宣言しているようなものなのです。前述のように出来事というのは「自分はどんな存在か?」に合わせて与えられるのですから、どんどん不幸な出来事が訪れて人生全体が不幸に満たされてしまいます。

幽霊(霊障)というのは被害者意識で誰かに恨みを持ち、成長を拒否し続けた成れの果てであり、だから「恨めしや~」と出て来るわけです。その被害者意識こそが不幸の元凶であることに気づかずに。そしてその霊障が自分に似た波動の人間に取り憑いて、同じ経験・感情を味あわせて強制的に同情を引こうとするのです。それは憑依現象(霊障)についてに書いた通りです。そのようにあなたはかつての僕と同じように自身の被害者意識によって霊障に深く犯されてきたのだと思います。しかし決してそれに屈してあなたも幽霊のようになっていはいけないのです。あなたはとても困難な修行中なだけで、本当は愛の天使なのですから、どうか愛情を無条件化し、出会った人をことごとく許し愛せるようになって下さい。そして日々霊的に自分を清めて下さい。その方法は悪いカルマの解消法などに書いています。


4.自己正当化
前述したように、人間というのは(個人差こそあれ)基本的にとても臆病に作られています。そしてとても傷つきやすく作られているのです。それ何か問題が起きた時には、自分を守るために「自分は正しい、相手は間違っている」と自己正当化します。それは人間の基本的な自己防衛本能であり、もちろん僕も含めて基本は誰でもそうです。夢の中で自分がどれだけおかしい考え方をしていても、目が覚めるまでは自分でそれを正しいと思っているでしょう。それはこの現実世界においても同じなのです。しかし自分を絶対正しいと考えればそれ以上の成長などあるわけがありません。

どんなに自己否定的な人でさえも、その自己否定的な考えを「正しい」と思って生きています。鬱の人ほどその自己正当化本能は強くなり、他の人の話をまともに聞けなくなります。同じ過ちを繰り返してしまうに書きましたが、多くの人は今の自分の意見=自分自身になってしまっていて(意見のプライド化)、他人から違う意見を言われただけで自分を全否定されたと感じて傷つき、必死で「自分は正しい」と主張して相手を否定して傷つけ返してしまうんですね。

誰でも自信満々になれる方法に書いた通り、自信がない人ほど「自分は正しい=価値がある」と考えます。自信の根拠を能力(他者評価)に求め、それが得られないと自信を失って自尊心を病んで鬱に陥り、そして「正しさ」に依存するのです。正しさに能力も努力も要りませんからね。

ヤクザだって世間的には「悪い」人たちですが、その分「仁義」「筋」などに異様にこだわり、自己正当化しているのです。そして実際、彼らは彼らなりに人情があって筋も通っているのです。彼らは獲物や敵に対して容赦がないだけで、身内に対しては人情溢れる魅力的な人たちであり、またそのように周囲に慕われる人でなければ仁侠界であっても出世はできません。ただ単に悪い人というのはどこにいっても嫌われますから出世しようがありません。

正しさ(正義)は、必ず批判対象としての悪を必要とします。それで常に人のあら捜しをしては責めてばかりで人から嫌われ、人間関係は鏡なので当然自分のことも責めて嫌いになります。悪循環です。

世界はワンネスですから、自分と他人はイコールの存在であり、自分の自尊心と相手の自尊心は連動して上下します。それなのに自分の自尊心を保つため(傷つかないため)に、他人を見下したり責めたりして傷つけることで相手の自尊心を下げて、相対的に自分の自尊心を上げようとしてしまいます。そこれこそが人間に与えられた無明(愚かさ)であり、人間関係の問題というのは殆どがその無明(愚かさ)に起因しているのです。もしそれがなかったら簡単にワンネスが達成されてすぐ物語が終わってしまいます。

その悪循環(監獄・地獄)から抜け出すには、自分と他人を責めるのを同時にやめて許して愛し、お互いの自尊心を上げることです。それが鬱抜けのカギでもあります。

創造主は正義=エゴであると言いました。純粋な悪はみんなに嫌われて連鎖しないので巨悪にはなりえません。巨悪はいつでも表向きの正義の旗に隠されたエゴの連鎖によってなされるものなのです。だから常に正義より愛を優先することが大事なのです。何が正しいか・間違っているかより、自分がどう思考しどう行動するのが相手と自分に対する愛なのかを考えて実践して下さい。真理とは幸せとイコールのものであり、自分も相手も心から笑顔になる思考・行動ならきっとそれが真理なのです。

鬱の人は「自分は自分のモノだから、いくら虐めても構わない」といった感じで自分を責めて虐めるのが趣味というか癖になっていて、しかもそれを正当だと思っているのですが、あなたは創造主の分身(分け御霊)なのであり、自分を愛さないということは創造主(存在の全て)を愛さないということになり、それでは創造主(存在の全て)から愛を受け取れないのです。自分を愛することこそが、創造主(存在の全て)を愛することにつながり、幸運に恵まれるのです。欠点や過ちのない人間などいません。それを理由に人を嫌うことを正当と考えるなら、自分も他人も誰も愛せなくなってしまいます。どんな欠点・過ちにも屈せず自分を愛し、人を愛し、人生を愛し、世界を愛して下さい。

5.依存(逃避)
あらゆる依存は逃避行為であり、これも成長に反するベクトルであるとすぐにわかると思います。

あらゆる存在は支え合って関係性の中で存在しているので、自立より人を頼り頼られること(人を愛し愛されること)を我々は目指すべきなのであり、それがワンネスへの道なのですが、依存はその動機が逃避なので良い結果にはなりません。

特定の人に過度に依存すれば相手に負担になって関係性が悪化して嫌われたり共倒れになったりするでしょうし、人以外のものに依存すれば中毒になってしまうでしょう。成長に反するベクトルなのですから、不幸に導かれるのは当然と言えます。

いわば1~4の全てが依存・逃避であり、あなたの場合は人(家族・友人・医者など)やもの(酒やドラッグや精神薬など)には依存していないと思いますが、1~4に挙げたようなネガティブな思考・行動に依存している状態と言えるかも知れません。

成長というのは能力を上げることではなく、覚りに向かうことです。それは逃避しないということです。どんな時も絶対に逃げてはいけないと自分を追い詰めるのではなく、本当に辛い時は逃げて良いのですが、いつかは立ち向かわなければならないのです。RPGでもレベルが高い敵に遭遇したら逃げるのが得策な時がありますが、いつまでも逃げていては永遠にクリアできません。休憩して体力を回復し、レベルアップして再び難敵に立ち向かえば良いわけで、人生というRPGもそこは同じだということです。

覚りの道は愛・真理を覚り、自分という尊い存在の価値に目覚め、出会った人・人生・世界(つまり森羅万象とそれを創りし創造主)の価値に目覚め、自分も他人も許し、感謝し、尊敬し、愛せるようになっていくことです。

夢を見ている時に夢を見ているという自覚はありません。自覚できるのは目が覚めた後です。よしんば夢の中でそれが夢であることに気づけても、目が覚めている時の思考に戻る事はできません。それと同じように現在鬱であるあなたは、鬱であることを自覚してさえも、鬱でない時の思考に戻ることはできません。それを自覚するのは鬱が治った(乗り越えた)後です。

幼少期から鬱気味だと、鬱をもう自分自身の性格(存在)そのものと思ってしまい、鬱ではない思考というのがどういうものなのか想像さえできなくなってしまいます。しかし生まれた時から鬱の人などいませんから、心配しなくても大丈夫です。あなたはいつかきっと鬱を乗り越え目を覚まします。そして鬱も自分の成長のために必要だから与えられた経験なのだと気づくことでしょう。そうしたら今まで辛い思いをした分だけ、人に優しくなれる菩薩になるでしょう。

あなたは常識・他人の考えを基準にして考え、結婚や出産を幸せの条件だと思っているようですが、そうではありません。僕は実際独身で今年46歳ですが、目覚めてからはいたって幸せにしていますし、むしろ結婚しなくて本当に良かったと思っているタチです。僕には主人公として家族だけでなくみんなを幸せに導く使命があり、それはあなたもきっと同じなのだと思います(だからあなたは僕に導かれたのでしょう)

僕はあなたに結婚を諦めるべきだと言っているわけではなく、執着すべきではないということです。人それぞれ学びの過程(シナリオ)は違うのですし、結婚・出産しないから不幸ということはないのです。幸せを条件化すること自体が不幸の元凶だと気づいて下さい。

ただどうしても結婚したいというのであれば、今までのあなたはかつての僕と同じように解釈によって自分の世界を地獄にし、またネガティブオーラで人を遠ざけ不幸に導かれていると思うので、まず誰でも自信満々になれる方法をしっかり実践して、ポジティブな世界観を手に入れ、恋愛対象だけでなく出会うみんなを愛し愛されるようになって下さい。そうすれば自然と良い縁に結ばれると思うので。

そして宗教を毛嫌いせず、色んな宗教を学んでみて、信心を持って下さいね。エゴのために何かを願うのではなく、与えられているものに感謝の気持ちを示すために行ってみて下さい。無理に勧誘してきたり寄付や奉仕を強制してくるようなところからはすぐ逃げて、良い宗教に通ってみて下さい。信者になる必要はありません。やはり何かしらのご利益を目の当たりにしないと信心は芽生えにくいものなので(信心がご利益目当てになるのも良くないのですが、それはその後の問題です)。あなたにお勧めなのは本門仏立宗で無心にお題目を唱えることか、世界救世教や真光などで浄霊・お清めを受けることです。きっと運命が良い方向に導かれると思います。

なかなか僕の言っていることを感覚的に理解し受け入れることは難しいかも知れませんが、もしできたらアヤワスカをしにブラジルに来て下さいね。そうすればきっとわかって貰えると思いますし、鬱も良くなると思うので。

おつらい中、長文を読んでいただいてありがとうございました。あなたの幸せを心から祈っています。

後悔・自己嫌悪ばかりで努力できない

【質問】20代・男性 ペンネーム:ロダン 普段noteを拝見させていただいて「宇宙の仕組み」「ピラミッドの存在意義と仕組み」の二つは、これまで読んできたnoteの中で一番衝撃的かつ興味深い内容で、何度も読み返してしまうほどの内容の素晴らしさでした。 これまでの人生、何か成し遂げた...