2025年4月15日火曜日

アヤワスカ詐欺&アナログ&性の問題

 アヤワスカ関連でいくつか質問があったので回答させていただきます。

1.シャーマンについて

まず、本物のシャーマンというのは、日々宗教的な研鑽を積み、純粋な愛と信心によって神と人とに尽くし、多くの人を救いに導いているが故に人から尊敬を込めてシャーマンだと呼ばれているのであって、自分から「私はシャーマンです」などと自称して高額な儀式の参加者を募集する人が本物のシャーマンなわけがないんですね。その時点で詐欺師だと思って差し支えありません。

もし幻覚剤で精神的におかしくなってしまったら、失うのはお金だけではなく人生全体になるので、幻覚剤を使ったスピ詐欺というのは通常のお金だけ騙し取る詐欺よりずっとタチが悪いのです。幻覚剤を使った儀式は、余程信頼のおける人が主催者でないのなら、参加するのはリスクが高過ぎると僕は思います。

そしてアヤワスカの儀式を受けるには、次のような人は絶対にやめるべきですし、ましてシャーマンなど目指すような資質ではないと知るべきです。

1.信心の薄い人(現実主義・物質主義・唯物論・無神論の人)
2.統合失調症など重篤精神病を抱え、自我を正常に保てない状態の人
 (憑依体質で邪霊・動物霊に乗っ取られやすい人)
3.エゴが強すぎる人・エゴが主目的の人(金稼ぎ・人気稼ぎなど)
4.健康に問題がある人(特に心臓・脳などの疾患)
5.臆病な人
6.自分と向き合うのを拒否している人・許せない人
 (自他に対して寛容さに欠ける人)
7.超能力・神通力などを得ようとしている人(呪術等)

詳細はアヤワスカの儀式を受ける前の心構えをご参照下さい。

やりたい人は周囲が止めてもやるでしょうから、ここで注意喚起する意味はあまりないかも知れませんが、周囲にそういう人でアヤワスカの儀式を受けたい人がいたら何とか止めてあげて下さいね。

そして上記の項目に当てはまるようなシャーマンの下では儀式を受けるべきではありません。「儀式を受けたい」という強い希望があると、「この人はマズそうだ」という自分の直感をねじ伏せてしまいがちなのでご注意下さい。

スピリチュアルなことでお金を稼ぐのは余程注意しないと、カルマを積んでロクなことになりません。それは僕の知る限り例外がありません。スピをお金儲け目的に使うと、まず家族から先に悪影響が現れるので本当に残酷です。それで現地では「結婚したいなら(自分の家族を持ちたいなら)シャーマンはやるな」って言われているぐらいです。シャーマンというのは基本的に巫女・覡(おかんなぎ)なのであり、神と結婚しているというぐらいの気持ちがなければやるべきものではないのです。「家族を養うためにもっと稼がなければ」などと考えるような人間ではダメなのです。

よく誤解されるのですが、僕は一度たりともシャーマンを自称していませんし、シャーマンになる気も全くありません。界隈で「日本人シャーマン四天王」などと呼ばれて自称シャーマン詐欺師たちと同列に語られるのは不本意でしかありません。信仰心もなく、自殺者や発狂する人が出ても平気でボッタクリ料金の儀式を続けているような詐欺師たちとは絶対に一緒にされたくないです。

僕はアヤワスカ短期修行についてに書いた通り、note&質問箱の内容に共感してくれる読者の方に限り、希望があれば基本的にアテンドさせていただいていますが、一対一でしかアテンドできませんし、今までもこれからもそれで儲けようとか生業にしようという気は全くありません。

自称シャーマン詐欺師たちは費用を公にはしないで、自分の信者にだけ「選ばれたあなただけに」みたいな感じで特別感を演出しつつ、限定で明かすようです(1、信心がない。2、シャーマンを自称。3、高額な儀式料金を一般に明かしていない。はスリーアウトです)。明らかに詐欺的な高額料金なので、公にしたら確実に叩かれますからね。そして日本人が現地のアヤワスカ儀式の相場を知らないのをいいことに、現地で一週間で60万円も請求する日本人自称シャーマンもいるそうです。往復の交通費なども入れたら100万円をゆうに超えるでしょう。現地では外国人セレブ向けのボッタクリ料金の儀式でも20~30万円程度で、その倍以上なんですから、どんな理由をつけようと詐欺としか思えません。その自称シャーマンにもそこで儀式を受けた人たちにも今後どんな悪影響があるかとても心配してます。

先住民は「信じていない」
幻覚を求める欧米人が熱狂した「アヤワスカ・ツーリズム」の実態

上のリンクの記事にある通り、現地に行けば必ず本物のシャーマンの儀式を受けられて素晴らしい経験ができるなどと考えているのなら大間違いです。現地はアヤワスカブームによって外国人から多額の金を得ることを目的とした「自称シャーマン詐欺師」だらけであり、彼らの儀式によってネガティブな経験をする人がとても多いのです。

シピボ族みたいな原住民たちがみんな「聖人である」みたいに勝手にイメージしないで下さいね。彼らの殆どはきっと「奪われ続けて来た悲しい歴史」のせいで「お金に頼るしかない」という考え方になっているのだと思いますが(同情すべきことですが)、異様にお金にがめつく、アヤワスカを受けに来る外国人など完全にカモとしか認識してなくて、それによってカルマを積んでいる人がとても多いのです。

冷静に考えて下さい。金になる外国人ばかり相手にして、金にならない現地人を相手にしていない・現地人から相手にされていないようなシャーマンが本物なワケがないんですね。

何より日本人が、確たる信心もなく、現地の神々を知ろうともせず、現地の言葉を覚えようともせず、現地の人たちと人間関係も築けていないのに、唐突にアマゾンの奥地にポッと行って本物のシャーマンに出会い、大金を払うことでその金額に見合った素晴らしい経験ができるなどと考えるのは非常に安易だと僕は思います。そんな感じでも運よく素晴らしい経験ができる人もいるかも知れませんが、リスクはとても高いと思います。例えその場では良い経験ができたとしても、カルマを積むことになって遅かれ早かれ痛い思いをすることになると思います。人が騙されるのは己のエゴに埋没して愛がないからであり、悪いのが騙す方で騙される方は無辜(イノセント)の被害者だと思うのなら大間違いです。


2.アヤワスカ・アナログ(疑似物)について

日本のアヤワスカユーザーは、日本で本物のアヤワスカが手に入らないので、ほぼ確実にアヤワスカ・アナログ(疑似物)を使っています。要するに偽物・紛い物を使っているわけです。大抵はアカシア・コンフサと市販のMAOIとの組み合わせのようです。そのように有効成分の化学式が同じなら同じものだろうと考える時点で、スピリチュアルでは全然なく、信心もアヤワスカに対するリスペクトもないのです。

アヤワスカは科学的には幻覚成分であるDMTと、その体内分解を阻害するモノアミン酸化酵素阻害薬(MAOI)の組み合わせできています。DMTというのは人間の体内で生成されているものであり、また人間だけではなく殆どの動植物に分泌されているものなのです。それが意識拡張効果を発揮するのは体内分解を阻害するMAOIの働きによるものなのです。

現地で特に神聖視されているのは、MAOIが摂れる貴重なカーピの方なんですね。ブラジルでは多くの場合アヤワスカのDMTはシャクローナと呼ばれる植物などから取られているのですが、別にシャクローナじゃなくて他の植物でも全然代用が利くので、特別に神聖視はされていません。アヤワスカはDMTよりもMAOIを何から取るかによって大きくその効果が異なるのです。

アナログユーザーというのは、その特別に神聖視されているカーピの代用として市販の薬(製薬会社による金儲けのための化学薬品)であるMAOIを使っているのですから、スピリチュアル的にとてもリスクの高い(冒涜的な)行為をしているのであり、ロクなことにならなくて当然なのです。

魂の成長プログラムである人生において、金儲けや現実逃避(エゴ)を目的に幻覚剤を使うことはバッドエンドを選択することであり、ロクなことにならないのは当然のことなのです。それは極度の人見知り(大麻・LSD)に書いた通りです。

自称シャーマン詐欺師の元で、アヤワスカ・アナログで儀式をやるなんていうのは僕から見れば狂気の沙汰であり、発狂する人や自殺する人が出るのも当然のことではないかと思います。何とか止めたいですが、今のところこうして警告を発する以外に処置なしです。

アカシア・コンフサと市販薬のMAOIの組み合わせによるアヤワスカ・アナログは材料費的にも手間的にも非常に低コストであり、知識のない人を騙して高額な儀式代をボッタクる自称シャーマン詐欺師たちに後々どれだけのカルマ清算が待っているかは想像もつきません。まともに社会でやっていけないために幻覚剤の詐欺をするしかお金を稼ぐ方法が思いつかないことには同情しますが、騙す方も騙される方も不幸になっていくのは見たくありませんし、何とか救いに導きたいので、早めに気づいて改心して貰いたいです。


3.アヤワスカと性

アヤワスカというのは自然由来の神聖なメディシン(医薬)であり、化学薬品でも毒でもありません。現地の界隈では妊婦の方やお子様も普通にアヤワスカを飲んで何の問題も起きていません。もちろん心配なら妊婦の方やお子様は避けるに越したことはありませんが。心配しながらやっても良いことはありませんし、何かあった時にアヤワスカのせいにしてしまうのは本人にとっても主催者にとっても不幸なことですので。僕の方でも「絶対大丈夫」と言って保証して結果責任を取ることはできません。何事も信じる信じないは自分次第であり、結果責任を負うのも自分です。

それとペルーの現地において、生理中の女性はアヤワスカを飲んではいけないと(ピルで儀式と生理が被らないようにと)参加希望者に伝えている日本人自称シャーマンがいるという報告を受けました(上記の一週間60万円の話と同一人物です)。しかし僕は「生理中はアヤワスカを飲んではいけない」などと言う儀式主催者に出会ったことがありません。ペルーの一部の部族では生理中の儀式参加を禁止しているところもあるらしいですが、それでもピルを使って儀式のために生理の日を調整するなんてことはさせるはずがないです。生理中にアヤワスカを飲んだことが原因で何か問題が起きたという話を僕は聞いたことがありません。そして生理を理由に儀式に参加するのを止めたという人の話も聞いたことがありません。みんな生理中でも普通に儀式に参加していると思います。

そもそも儀式というのは神(自然)との調和のためにやるものであって、ピルで生理の日を調整するなんていうのは明らかに神(自然)との調和に反している話であり、僕からすれば冒涜的にすら感じます。もちろん生理が重い人は生理中に無理に儀式に参加すべきではないと思いますが、さりとて主催者側が儀式が生理と被る可能性のある女性全員に対してピルを飲ませて調整させるなんていうのはめちゃくちゃな話だと思います。

以前僕が自分のファミリーの長に確認したところ、ピルの使用自体はアヤワスカに影響がないと言っていましたが、個人的にそんなものが身体的にもスピリチュアル的にも良いわけがないと思っています。僕は男性なのでピルとアヤワスカの薬物相互作用について自分で試すわけにもいきませんし、儀式参加者の女性に対して性に関することをあれこれ質問してその統計を取るってわけにも行きませんが、何かしらの悪影響が必ずあるはずだと思っています。

もし避妊具を使わずに性行為をするという完全な快楽目的でピルを使用するというのであれば、その考え方からして神(自然)との調和に反しているように思えてなりません。これはあくまでも僕の個人的な意見ですけどもね。もちろん皆さんそれぞれ色々事情はおありでしょうから「ピルを飲んでいるなら儀式を受けてはいけない」とまで言うつもりはないですが、わざわざ南米まで来て儀式に参加しようとしているというのに、避妊具なしの性交(エゴ)のためにあくまでもピルを飲み続ける(神・自然の意思に反する)という方を、僕は正直あんまりアテンドしたくないです。お互いにカルマを積んでしまいそうなのでね。

通常、儀式の2~3日前から性行為は禁忌になりますが、それは道徳的な理由ではなく、自分の意識を上位へと登らせるのに性のエネルギーもあった方が良いからです。短期の禁欲によって神に敬意を示す、という部分もあると思いますけどね。儀式はエネルギーを消耗するので、儀式中・儀式後は(通常)性的なことはあまり考えられなくなります。

しかし中には悪徳シャーマンがいて、性的な目的のためにアヤワスカを使う人もいるそうです。さすがに儀式中に無理やり性的行為に及ぶというような話は直接は聞いたことがありませんが(被害者以外全員がグルじゃないとまず無理ですからね)、儀式を手伝う女性たちに対して指導的(優位)な立場を悪用し、儀式外で二人きりになった時に性的行為を半ば強要してくる主催者がいるという話は結構よく耳にします(そういう加害者も被害者も知っています)。とても残念なことです。そういう噂がある主催者には関わらないのが一番です。もちろんそれは南米の現地でも日本でも同じことです。

それと僕は個人的に宗教・スピと性を過剰に絡めた教えが大嫌いで、タントラだのクンダリニーだのを性的快楽の追求のためにやるような人を信用していません。密教でも性を重視するようなものがあるみたいですが、僕は全く興味すらありません。そんなものが神仏の心に適うわけがなく、悟りに繋がるとは到底思えませんので。釈迦やキリストがそんなことを教えていたわけがありませんしね。

2025年4月10日木曜日

極度の人見知り(大麻・LSD)

【質問】20歳・男性 ダイビングインストラクター

初めまして!真也さんの質問箱を見て、あ、僕も完全に思考のループに入ってると思ったので是非真也さんのご意見を聞かせて頂きたいです🙇🏻

最初に基本情報をかかせて下さい🙇‍♀️
LSD使用:娯楽程度
大麻使用:ないと寝れないレベル

最初にループに入った経緯なのですが、18の時に初めて北海道という田舎から飛び立ち一人暮らしを始めました。北海道で元々ガンジャは友達といる時に吸うレベルでした。ですが、一人暮らしを初めてから中々大学に馴染めず「極度の人見知り」、その時大麻友達しか探してなかったため当然友達もできませんでした!

ですが、その退屈を紛らわすために1人で大麻やLSDを使用するようになったのがきっかけです!そこから自分の心の中に漠然と「なぜ自分は生きているのだろう」や「人生に意味はあるのか」などループから抜け出せず、気持ちを変えるために1回帰省しました。

その後、友達とLSDを食べた時に、今も続くことに関係する大BADに入りました。自分がLSDを食べた時に人との喋り方を忘れてしまいました。元々人に気使いすぎて気楽に人と話すのは中々時間がかかる人でした。

その時にその思考が加速したのか自分が発言する前に「今自分が喋ろうとしたこと」を言葉に出す前に「相手がどう思うかや、「どう伝えたらわかりやすいか」「相手の反応」「相手に嫌われたくないけどめんどくさいと思われたくない」などを考えてしまって言葉を出す事ができなくなりました。

簡単に言うと常に最善策を探してるのですが、脳内で最善策が見つからず言葉がでてこない感じです。それからLSDはほぼ使ってないのですが、そのループが抜け出せません。

以前は人や友達と普通に話せてたのですがそれからというもの友人、家族、職場の人間すべての関わる人に対して距離を置いてしまい中々前のように話すことができないのです。普通に話せるようになりたいです。

真也さんの質問箱を読んで思ったのですが、この感覚をここまで言語化できる人に出会ったことがありません。

ここまで長文失礼しました。まだまだ描きたいことはあるのですが、それすらも思考に入ってる感覚に陥ってるので、一旦ここまでにしときます(笑)ぜひ真也さんのご意見を聞かせて頂けたら幸いです🙇🏻

【回答】
ご質問ありがとうございます。お気持ち心より同情申し上げます。

アヤワスカとLSDの違い」「LSDの後遺症についての両記事を読んでいただいた上でのご質問ということで話を進めさせていただきます。

僕も大学に入ってしばらくは馴染めず鬱状態でした。当時の僕は世の中で「麻薬」と言われているものに対する抵抗感が強く、まだネットも普及してなくて、誘惑されたり手に入れたりする伝手がなかったので手を出すことはありませんでしたが、もし今の時代に大学生だったらあなたと同じようになっていたかも知れません。辛い時にそれをごまかせる手段が身近にあれば、それに依存してしまうようになるのは無理もないことだと思います。実際多くの人が麻薬ではなくとも酒や精神薬に依存しています(精神薬も麻薬の一種です)。

だから決してあなたを責めるつもりはありません。僕は魂の兄弟であるあなたを自分自身のように考え、心から同情し、ただただ幸せに導きたいだけで、決してあなたを偉そうに責めて説教して傷つけたいのではないということをどうか最初にわかって下さいね。ただ課題を正しく認識していただかなければ、課題を乗り越えられるように導くことはできないので、冷静に読んでいただけるようお願いします。

それで、人間関係から逃げたくなるあなたの気持ちはよくわかるのですが、それでも逃避手段として薬(大麻や幻覚剤、酒や精神薬も含めて)を使用することは、とてもとてもリスクが高く、人生を破滅させる恐れがあるのです。

恐らく大麻は急には止められないのでしょうけども、止める方向性で考えてみて下さいね。そしてLSDには絶対に手を出さないで下さい。それだけバッドに入ったのならそうそうやらないでしょうけども。

人生は愛と勇気を試して成長を促すためのRPGであり、もし逃げることで幸せになれるように創られていたら、それは成立しないのです。だから当然逃げ道というのは一見安全でラクそうに見えて全てトラップなのです。そちらを選択するとかえって難易度が上がり、その先は必ず行き止まり(バッドエンド)に創られているということです。実際、違法薬物がなければ眠れない・人と話せないというのでは働けず、まともな社会生活を送れませんし、いつか逮捕されてもしまうでしょう。行き詰まって孤独に心を病んでどうしようもなくなる未来が目に見えているでしょう。「逃避」を選択することは、バッドエンドを選択をすることなのです。

人生は成長のためにあるのですから、死ぬまで成長課題を乗り越える苦労が続くのが定めであり、幸せはその中にあるのです。それなのに逃げ道があると思うから恐ろしくなって逃げたくなるのであって、逃げ道なんて最初からないのだと腹を決めれば腹が据わります。この点についてはカルマの良化法をぜひ読んでみて下さいね。

>一人暮らしを初めてから中々大学に馴染めず「極度の人見知り」

僕も元々は人見知りでした。あなたはきっと自分を誰か(世間一般のイメージ)と比べて自分が「極度の人見知りである」というのを「生まれつきの変えられない性質」だと思い込み、「乗り越えられない・ごまかして逃げるしかない」と思い込んでいるのだと思いますが、決してそうではないのです。

人生というのは魂成長のために与えられている機会なのであり、「人見知り」というのはあなた個人に与えられている課題であって、それはあなたが乗り越えていかなければならないシナリオ・伏線なのです。最初から「人見知り」というのを盾(言い訳)にして逃げ腰になっていたら、人付き合いをしても上手くいくわけがないのです。ちょっとでも嫌なことがあればすぐ逃げ出すようになるのが必然ですからね。

自分の課題はどれだけ逃げてごまかしても、いつかは乗り越えなければ結局はどんどん辛くなるだけです。逆に乗り越えれば楽しくなるのですから、乗り越える以外にないんです。あなたはただそれが辛く恐ろしく絶対に乗り越えられないものだという世界観で生きているからその通りになっているだけで。

コミュニケーションというのは、小学校の鼓笛隊みたいなもので、みんなと一緒に毎日練習していれば、どれだけ才能がなかろうと誰でも否応なく上手になるのです。そして自分が全体のハーモニー(調和)の一部となって、みんなと楽しくやれるのです。それなのに「自分は生まれつき才能がないのでできません」と練習を拒否して逃避してしまっていては、いつまでたっても上達するわけがなく、楽しくなれるわけもないのです。

>その時にその思考が加速したのか自分が発言する前に「今自分が喋ろうとしたこと」を言葉に出す前に「相手がどう思うかや、「どう伝えたらわかりやすいか」「相手の反応」「相手に嫌われたくないけどめんどくさいと思われたくない」などを考えてしまって言葉を出す事ができなくなりました。

それはコミュニケーションのイップスみたいなものですね。薬物によってそれがブーストされてしまったのでしょう。そうなると当たり前にできていたはずのコミュニケーションが、とても難しく感じられてしまうのですね。楽器の演奏でも「自分は音痴だ」とコンプレックスを持って、ミスしないよう一音一音考えながら演奏するようになったら、まともに演奏できなくなってしまうでしょう。その状態の時に普通にできている(ように見える)みんなと舞台に上がるのは恐怖でしかなく、過度に緊張して実力が発揮できず、逃げたくなるのは当然ですよね。それと同じことです。

楽器と同じで続けてさえいれば自然と身に付いたものが発揮されるのに、一つ一つ頭で考えようとすると頭の処理が追い付かなくなってしまいます。プロのミュージシャンが一音一音考えながら演奏していると思いますか?コミュニケーションも同じで、一つ一つ考え過ぎたらうまく行かなくなるのは当然なのです。理屈ではなく感覚(流れ・調和)でやるものなのですから。

もし心が愛(善意・思いやり)に満ちていれば、考えなくてもそういう言動・行動になるわけで、いちいち考えなければならないのは、心がエゴに満ちていてそれをいちいちごまかさなければうまくやれないからなのです。だから本質的な対策は己の心の愛を実践から育てていくことなのです。

ただそのあなたの今の考え過ぎ(&エゴへの埋没)というのは典型的なLSDの後遺症であって、あなたの本来(主人格)の性質ではないのです。あなたは元々普通に友人とコミュニケーションが取れていて、特別いじめられたり仲間外れにされたりはしていなかったのでしょう?誰でも奥底には内向的な人格を持っていますし、エゴのない人というのもいません。従って元々の人格のせいとは言えません。しかしLSDは精神を分裂させて、主人格を差し置いて隠れた人格の方を自我のメインにしてしまうのです。あなたは自分が小中学校の頃、どうやって友人とコミュニケーションをとっていたか、どのぐらい人に思いやりがあったか、今はよく思い出せないのでしょう?あなたは夢の中にいるのと同じで、普段の自分がどのようだったか思い出せなくなっていて、今の病んでいる自分を本当の自分だと思い、今認識している世界を本当の現実だと思い込んでいるのでしょう。

コミュニケーション・イップスというのは、他人を鏡にした思考のハウリング(無限反射増幅)現象なのです。他者に対してすぐに「嫌だ・つまらない・面倒臭い・許せない」などというネガティブなレッテル貼りをして傷つかないよう自己防衛で身構えるために、相手からも警戒されて身構えられ、お互いに同じように思われるのを恐れて嫌い合うというループ(思考の無限増幅)が起きてしまうのですね。

誰でも自信満々になれる方法をぜひ読んでみて下さい。どれだけ嫌われようとあくまでも自分を愛し抜こうとする人を嫌い抜ける人などいないのです。つまり出会った人を愛し抜く覚悟さえ自分が持てば、人から嫌われることを恐れる必要などないのです。人を恐れるのは鏡に映る自分を恐れるが如くです。

>そこから自分の心の中に漠然と「なぜ自分は生きているのだろう」や「人生に意味はあるのか」などループから抜け出せず、気持ちを変えるために1回帰省しました。

実を言うと「存在意義」を求めるというのは「全存在(=創造主)」の本質なのです。「存在意義」を求めるという原理によって全ての創造は成されているのであり、本当は全ての存在が存在意義を求めるのがデフォルトなのです。人生は存在意義を生むための(愛と成長の)物語だとも言えます。僕らは人生という物語の中で、自分という主人公の経験の中から「存在意義」の答えを自分で創造させて貰えているのです。そこで自分に与えられている課題を拒否していたら物語が前に進みませんし、物語が進んでないまま自分の存在意義を突き詰めて考えたところで答えなど出るわけがありません。ただただ堂々巡りを繰り返すだけになるのは必然です。

そのように人生という物語がまだ途中なのに自分の存在意義を厳しく突き詰めて考えると、ただただ苦しくなって物語が前に進みませんから、人には心を保護するためのプロテクトがかかっていて、あまり存在意義を厳しく突き詰めて考えないようにされているのです。そのお陰で人は存在意義がわからないままでも精神が安定し、人生という物語を経験する中でその答えを見つけさせて貰えているのです。しかしLSDを使用すればそのプロテクトが外れることになり、人生という物語がまだ途中で存在意義の答えが自分で出せていないうちに、己に存在意義を厳しく問い詰めてしまう思考ループにハマってしまうのです。

世の中というのは全て関係性の中で存在しているのであり(諸法無我)、もちろんあなた自身も関係性の中で存在しているのです。だからこそあなたの存在意義はその関係性の中にある(与えられている)のです。一人ぼっちで「存在意義」をグルグル考えていても決して「存在意義」などわかるわけがありません。あなたは関係性の中で存在しているのですから、関係性を知る(築く)ことが己の存在意義を知ることなのです。他者を理解することによって自分を(存在意義・存在価値を)理解できるようになるのです。そして自分を成立させている全ての存在に心から感謝し、愛を発揮することが大事なのです。「人見知り」を言い訳にその貴重な経験機会を拒否し、そのペナルティーである孤独や退屈をごまかすために薬に依存すれば、更にペナルティーを重ねることになるのは当たり前です。

しかしそれはこの宇宙が因果応報という大原則によって創られているからであり、決して意地悪で与えられている罰ではないのです。創造主の本心はあなたに己の過ちから自発的に真理に気づいて学んで成長して感謝して欲しいのです。それを創造主が直接的に教えてしまっては自由意志を与えた意味がなくなり、人生経験に意味がなくなってしまうのです。このあたりの話は自由意志の仕組みと存在意義をご参照下さい。

<LSD後遺症の本質>
なぜ多くの人はLSDによってコミュニケーション・イップスと「存在意義」思考ループの状態になってしまうのでしょうか?それは自他が存在するということ(創造主の創造)に対して、そして人生という経験機会が(自らが強く望んだが故に)与えられているということに対して、その価値がわからず、心から感謝していないからなんですね。そして心が不平不満と被害者意識に満ちていて、現実逃避のためにLSDを使用しているからなのです。冒頭に書いた通り「逃避」を目的に幻覚剤を使用する事はとてもとてもリスクが高いのです。逃避は成長プログラムである人生における成長拒否なのですから、そこにペナルティーがないのならそれは成立しないのです。

いつも言っていることですが、与えられたものの価値がわからず感謝しない人にもっと与えたいと思う人はいないでしょう。そこは創造主も同じであり、世界はそのような原理で創られているのです。だから与えられたものの価値がわからず感謝しない人は、既に与えられたものまではぎ取られ続け、失うことでその価値を思い知らされるような悲しい人生になってしまうのが必然なのです。あなたは他人とお互いを理解し合い、許し合い、問題を乗り越え、愛し合うためのコミュニケーション能力を「そんなに要らないのなら」と剥ぎ取られかけているということに気づいて下さい。

そして全ての全てを創りし創造主の存在意義というのは、自由意志を与えられた僕らが人生の中で存在意義(存在価値)を感じられるかどうかに依存していると知って下さい。僕らは偉大な創造主に存在意義を与えられる偉大な存在なのです。

本当は僕らこそが全てを創った創造主自身なのであり、その(仮想的な)分離なのです。本当は唯一の存在であり究極に孤独な存在なのに(あなたはLSDでそれを経験したはずです)人間として自分と同等の他者がたくさんいて愛し合えるという夢のように素晴らしい仮想現実を経験させて貰えているのです。「自分が存在し、他者が存在し、人生経験の中でその価値を創造し実感できる」という機会を与えられていることを決して当たり前だと思わないで下さいね。

他者というのは、合わせ鏡に写った無数の自分のようなものであり、創造主がその無数の自分に個性・分離意識・自由意志を与えて、自分と同等でありながら別な存在だと思わせて、それによって人生という物語を成立させてくれているのです。人間は自分自身が見えないようになっていて、他人を理解し愛することで、自分自身を理解し愛することができ、他人からも理解され愛さされるようになる仕組みになっているのです。そうでなければ人生に存在意義はありません。

世界は創造主によって、自分の解釈次第に創られているのです。ですから意地悪で与えられている罰ゲーム(クソゲー)のように解釈すれば、本当にそうなってしまいます。クソゲーにしているのは自分自身なのだと気づいて下さい。それで人生に不平不満を持って被害者意識に陥るのはお角違いなのです。

自分の解釈(世界観)次第のこの世界で、自ら心を閉ざして逃避することで孤独で不幸になるのは、閉じたままの電動チューリップにパチンコの球が入らないのと同じぐらい当たり前のことなのです。

今のあなたは、鏡の存在である他者を「自分の自尊心を下げて傷つける恐怖の存在」と認識してしまっていて、その世界観通りに自分の認識世界が創られているのでしょう。

自分が心を閉ざせば世界が自分に対して閉じられ、自分が心を開けば全ての扉が自分に対して開かれます。これを僕は経験から実感しています。あなたにもそれを経験から実感して欲しいのです。これを経験なく頭で理解しようと思っても無理です。

己のエゴの殻に閉じこもって自分のことばかり考えている段階にある人が、いきなり自分自身も他人も世界も人生も愛せるようにはなりません。日々己の愛を実践から育てていくことで、段々と全てを愛せるようになり、感謝できるようになっていくのです。それが「存在意義」を経験から理解するということです。

あなたが出会う人はみんなあなたの魂の兄弟であり、孤独を救ってくれるありがたい存在なのです。その存在に心から感謝の気持ちがあれば、「創造主はなぜこの人と出会わせてくれたのだろうか?」と興味(関心)が湧くはずです。興味(関心)は愛の入り口であり、興味がないのに愛しているということはありえません。自分がどう思われるかばかりを気にするのは、関心が自分にしか向かわなくなっているからです。

かといっていきなり世界中の人に興味(関心)を持つのは無理です。あくまで実際に出会った人に例外なく興味(関心)を持ち、無条件で許し愛せるように努力すれば良いのです。出会いさえすれば愛せるようになれたら、それは世界中の人を愛していることに等しいのです。

もし話すのが難しくなっているのなら、今はとにかく相手に興味を持って聞きに徹して相手を理解することに努めて下さいね。

嫌だと思う人でも、人生には悪役も必要なのですから、自分の人生という物語で悪役をやらされているだけで本当は良い人なのだと信じて目覚めさせてあげて下さい。嫌なことを言われても、創造主が自分に何を気づかせたくてその言葉その出来事に出会わせたのか、愛で解釈してみて下さい。それができるようになることが魂の成長なのです。

LSDは決して娯楽で手を出して良いようなものではありません。それは魂成長の努力なくして神に近づくチート行為であり、RPGのプレイヤーでありながら制作側の意識にアクセスするチート行為なのです。その代償こそがあなたが陥っているコミュニケーション・イップスであり、「存在意義」の思考ループなのです。

LSDによる現実逃避は、ドラクエで目の前のスライムを攻略できないのにボスのダンジョンに逃げ込もうとするようなもので、そんなことをすれば全く前に進めず、わけがわからない(因果・シナリオがわからない)まま、再起不能なほどボコボコにされるのが当前です。決してあなたを責めているわけではなく、いかに愚かなこと(逃避)をしたのかに気づいて欲しいのです。そして心から自分自身(人生)の存在と他者の存在に感謝し、興味を持ち、理解し、他者と物語を紡いで欲しいのです。

そして何よりも信心を持って下さい。何の神仏でも構いません。それは創造主の分離であり、創造主は神仏を通じてあなたを救い、それによってあなたにも神仏にも存在意義を与えているのです。信者にならなくてもいいので、できれば一度世界救世教か真光あたりで浄霊(お清め)を受けてみて下さいね。今の状況を神仏の助けなく一人で解決できると思わないで下さい。そもそも今まで神仏の加護なく自分の力で生きて来れたと考えるのは驕りでしかなく、それは愛(信心・感謝・信頼・尊敬)の欠如なのです。創造主は常に我々を信心・真理へと導いてくれているのであり、あなたの辛い経験も信心・真理への導きなのだと知って下さい。

<最後に>
法(真理)というのは、みんなを幸せにするものです。しかし因果応報の大原則は、知っているか知っていないかに関わらず存在して例外なく適用されるものであり、「知らなかったから」という言い訳によって適用されずに済むものではなく、そういう意味ではとても厳しいものなのです。ストーブが熱いと知っていて触る子供より、知らないで触る子供の方がより大きな火傷を負ってしまいます。法(真理)に対する無知(無明)は人間に与えられた罪(原罪)なのであり、人生の中で法(真理)を悟ってその無明の闇を払うことが宿命なのです。そしてそこにこそ幸せがあるのです。

ただその法(真理)を知らないことによる苦しみの経験も人生には必要だから与えられているのであり、20歳の時の僕が今の僕からこういうことを言われて理解できるとは到底思えないのですが(経験してみてわかることです)、いつかは伝わることを願って止みません。

関連質問:「コミュ障を克服したい

2025年4月3日木曜日

悟りと営業職

【質問】31歳・男性 ペンネーム:オガ 職業:営業職

初めまして。2ヶ月ほど前から記事や発信を見させております。

質問なのですが、結果主義や競争をせざるを得ない環境はやはり悟り、ワンネスとは相性が悪いのでやめるべきでしょうか?

私は3年ほど前から収入UPを狙うという完全なるエゴ動機で人材、広告系の営業をしています。業務としては、毎月のノルマを達成しなければ当たり前のようにネチネチ詰められたり、残業続きの環境なのでキツ目ではありますがなんとか続いており、日本人の平均年収以上の収入を稼げるようになりつつある状態です。

ただ最近自分のやっている仕事が本当に顧客に納得してもらった上で成り立っているのか疑問に思い始めて(私の職場、ひいては営業では数字、利益を取ってくるのが何より至上命題なので時にはお客さんにとって不都合な状況や契約内容になってでも数字を作らざるを得ないことがあります)色々考えたり、ネットサーフィンをしている中で真也さんの発信を見つけました。私の本心とまさに共鳴するような内容で感動しました。

本音としては自分や会社の都合、利益云々よりももっとお客さんに深く向き合って、先方にとって本当に必要な商品だけを最適なタイミングで提案してお互い心から笑い合える仕事をしたいと思ってます。その働き方の方が結果としてパフォーマンスも上がり収入も増えるのでは?とすら思います。

人の立場や心情を想像したり、人の話を引き出すのは比較的得意な方だと自負しているので営業の仕事自体は好きだし続けたいと思っています。

ただ前述した通りで、ご存知とは思いますが営業は何よりも結果が全ての仕事なので、本当の意味でお客さんのためになる(タイミング、勧める商品等)ように仕事をしようとすると自分の毎月の目標数字が未達になることが頻発することが予想されます。当然未達は許されず、あり得ないという空気があるので詰められたり、会社に居づらくなってしまう未来も見えます。

人生において結果や見返りを求めず、ただ自分と周りの人の幸せのために生きること自体を愛するという悟りや真理とはかなり相性が悪い仕事なのではないかとも感じてしまいます。

また、こんなことを言っておきながらまだエゴ(旅行に行ったり車を買うためにお金が欲しい)に塗れているので営業でないにしても何かしら仕事をしてお金は稼いで行きたいと思いますが、同時並行で少しずつでも悟りの実践を取り入れていきたいとも考えています。

ただ、他責思考の言い訳かもしれませんが今の環境ではなかなか難しさも感じています。

そこで選択肢として
・今の仕事を辞めてもう少し悟りと相性の良さげな仕事に就く。
・仕事のパフォーマンスを圧倒的に高めてお客さんに寄り添いながらも自身の数字を達成し続けられるようにスキルアップをする。
・お客さん志向を徹底して、未達で詰められたり村八分にされるのを前提に(その内慣れるのを見越して)今の仕事を続ける。

どの手段が最適かご意見をいただきたく存じます。

正直、自分のエゴの強さが今の状況を招いていると言えばそれまでかも知れませんが、まだお金を稼いでそれで旅行に行ったり欲しい物を買いたいという気持ちがどうしても捨てきれません。

世界を救う主人公として命を与えられている身として自分よりも他人のエゴを満たすべきと頭では分かっていても、まだ31歳だしもう少し自分も楽しみたいな…と思ってしまう部分もあります。

30も越えて何言ってんだとか、言い訳するなと言われればその通りですが、いつか本気で自分よりも他人の心を救うために人生を生きたいと思えるようになる瞬間を見据えてまずは全力で後悔のないようにエゴを楽しみ、満たし切りたいと思っています。

また、男は稼いで結果出してなんぼという風にどこかで思っている自分もいまして、これについてはどう思いますでしょうか。

男として、30超えたらこれぐらいやって当然という価値観も捨てるべきでしょうか。

情けないまでにエゴが強く、自分勝手ではありますがアドバイス願います。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

お気持ち、大変よくわかります。まさに過去の自分を見ているようです(笑)僕らの魂って本当に同源・同一のものなのだなと痛感させられます。


僕がいた職場はかなりホワイトだったので、そこまで結果主義・競争原理が強い職場で働いていたわけではありませんが(ノルマみたいなものも殆どありませんでした)、営業・企画部門のサラリーマンだったので、本質的には全く同じだと思います。

基本的にあなたに言いたいことは、同種の質問カッコいい車が欲しい執着の乗り越え方と同じです。

今はみんなにとって物質的に必要なものはもう十分に行き渡っている時代で、本当に必要なものを売っているわけではなく、お客さんの側からすれば大して必要でもなければ、別に他所の商品・サービスでも良いのに、自社の利益ため・自己利益のために何とか売らなければならず、興味のない人にまで必要だと思わせるように必死で欲望や不安を煽り、そのためには嘘や隠し事も当たり前って感じになって、それができなければ無能扱いされて必要とされず、自尊心を保てなくなるわけですしね。サラリーマン時代は僕も出世・保身のために人の醜い部分をいっぱい見せられました。今では「営業」だの「人材」だの「広告」だのといったワードを聞くだけで吐き気がしてしまいます(笑)

ただ僕が過去の自分に対して何か言うとしても、それはとても難しいというか、言えないことが多過ぎるんですね。なぜかというと、全てが自分に必要な経験だから与えられているってことが今は確信的にわかるからです。そして自分の人生をトータルに愛しているので、過去の自分に何かを伝えることで自分の人生を変えたいなどいう願望はないんです。経験しなければ理解できないことを経験させてもらえたのですから、過去に遡ってその経験を避けさせたいとは思いません。だから過去の自分と同じような状況にいるあなたに今の僕の考えをダイレクトに言ってしまえば、せっかく天から与えられている経験機会を邪魔することになってしまう気がして、すごく難しく感じてしまうんですね。

悟りとは何か?に書いた通り、悟りというものは競争ではありません。先に悟ったから偉い(高得点)というゲームではないのです。答えに価値があるのではなく、それを追い求めるあなたの経験(感情)に価値があるのです。そしてあなたがどういう考え方・行動を選択するかが、あなたという存在を形作るのであり、人生というのはそういう芸術であって、それこそが価値なのです。あなたの価値は存在そのものにあるのであって、あなたの考えや行動の選択が正しいかどうかにあるわけではありません。


>結果主義や競争をせざるを得ない環境はやはり悟り、ワンネスとは相性が悪いのでやめるべきでしょうか?

人生は人それぞれにシナリオがあって、全ては悟りに向かう過程(プロセス)なのです。覚る前に「悟りとはきっとこういうものだろうから」という勝手なイメージを創り上げ、それを無理やり自分自身に押し付けないで下さいね。「自分の経験を通じ、現時点で自分の魂が納得できていない考え方・行動に、無理やり自分を従わせて生きること」こそが不幸の元凶であり、鬱の人はほぼ確実にそれをやっているのです。その「自分自身に無理やり強制している考え方・行動」の内容が正しいか間違っているかは関係ありません。自分の魂が納得していない考え方・行動を自分自身に押し付けて生きること自体が不幸なことなのです。

まぁただいくらあなたにとって今の仕事経験が必要な過程だとしても、「社会の利益より自己利益が完全に優先(目的化)になっている営利活動」を奴隷のようにずっと続けたままでは真理(=愛)なんて悟れるわけがありませんし(=主人公になれるわけがありませんし)、どんどん自分を嫌いになってしまうと思います。自分を嫌いなのに幸せというのはありえません。

しかしそれだけの自己矛盾を抱えているあなたが、今の仕事をそのまま一生続けるわけはないでしょう(そのまま続けたらきっと病気になってしまうでしょう)。最終的には正しい決断を下せる自分自身を信じ、天の導きを信じて下さい。人生には人それぞれシナリオが用意されていて、どんな経験にも無駄はなく、今後何をしようと必ず今までの経験が生かされますから、何も心配は要りません。

そして本当にやめるべき時には続けるという選択肢はなくなっているはずで、他人に「やめるべきでしょうか?」などと尋ねてしまっているうちは、きっとまだ魂がその環境での経験を欲しがっている(シナリオを知っている自分の魂が辞めることに同意していない)ということですから、きっとまだやめるべき時ではないのではないかと思います(きっと「辞めるんじゃなかった」と後悔すると思います)。


その「自己矛盾に苦しむ」という経験もとても大事なものなのです。もしその苦しみが全くなく自己実現できてしまったら、自己を実現することの価値を実感を通して知ることができなくなってしまいます。僕も仕事で散々嫌な思いをしましたし、自分らしく生きられない苦しみを経験しているからこそ、自分らしく生きられる今の喜びを心から味わえているのです。

人生というのは、あなたをプレイヤー(主人公)とするRPGなのであり、ドラクエで「道具屋」として何の自己矛盾も感じず社会にビシっとハマれるぐらいだったら、NPCとして一生を送ることが確実で、主人公には成り得ません。だからその自己矛盾を胡麻化さず、いつか目覚めるその日まで大事にして下さい。


そして世の中とても多くの人がその自己矛盾に苦しんでいるのですから、それに対して心から同情できる優しい人になって下さいね。そしていつかその自己矛盾を解消し、主人公として目覚め、みんながそうできるように導ける存在になって下さいね。今はまだそこまで考える必要はありませんが、これは僕からの祈りです。


>情けないまでにエゴが強く

あなたはまだエゴを悪者のように思っている感じがしますが、エゴは愛のマテリアルなのであり、それ自体が悪いわけではありません。悪いのはエゴを暴走させてキリなく求めて愛を失うことです。エゴを無くすことではなく、エゴのエネルギーをいかに愛に昇華できるかが悟りの道なのです。それはエゴ(欲)とは何か?に書いた通りです。エゴの存在を理由に自分や他人を嫌って責めないで下さいね。

基本は、目の前のことをただ全力でやって、全力で楽しんで、そのことに心から感謝できれば良いんです。あなたは経験するために生まれてきたのであり、経験したいことを今まさに経験しているのですから。ただあなたの価値はいくら稼げたかとか、どれだけ他人から評価されたかとか、どれだけ正しい考え方をしているかではなく、存在そのものにあるということは絶対に忘れないで下さい。人生という経験機会を与えられていること自体が尊いことなのだと知って下さい。


>他責思考の言い訳かもしれませんが今の環境ではなかなか難しさも感じています。

お金の時代の終らせ方(新六波羅蜜)はぜひ読んで実践してみて下さいね。今の仕事を辞めなくてもできる事ばかりです。大事なのはいきなり変な正義心で社会をひっくり返そうとすることではなく、自分の中の愛を実践から育てていくってことです。


そしてどうか自分自身と深く向き合って下さいね。どうすればその自己矛盾を解決できるのか、自分で考えるからこそ価値があるのです。


>30も越えて何言ってんだとか、言い訳するなと
>男として、30超えたらこれぐらいやって当然

僕がそんなこと思うわけない・言うわけないですよ。人生のシナリオは人それぞれで、少なくとも悟りの進捗に関して、年齢なんか気にして焦る必要は全くありません。僕なんて30代でドロップアウトして海外に逃亡し、40代も半ばから4年近く乞食をやっていて、今も実質無職ですからね。世間からすれば「何やってんだ?」って感じでしょう。

でも僕はもう世間の人からどう思われどう言われるかによって自分の信念を曲げたりはしません。自分には自分だけのオリジナルのシナリオが与えられているのであり、他人と比べ、自分の魂が納得していないのに「こうあるべき」なんて頭で魂を無理やり押さえつけるのは良くないと思います。自分で気づいた時、魂レベルで覚悟が決まった時がベストタイミングなのです。どうか勇気を持って下さい。


>自分のエゴの強さが今の状況を招いていると言えばそれまでかも知れませんが

僕自身がかつてそうだったからよくわかるのですが、きっとあなたは欲が深いわけではなく、本来愛情深い魂を持った人なのに、他者評価依存によって自尊心が低くなっていて、自己防衛手段として今のエゴ優先の生き方(魂が納得していない自己利益優先の仕事での金稼ぎ・保身・虚栄)を自分に強いてしまっていることが苦しみの原因なのではないかと思います。

きっとあなたはそういう世界観の中に生きていて、周囲も同じ世界観の人ばかりで、それ以外の世界観で生きるなどということはきっと思考の枠外なのでしょう。まだあなたは自分の世界観が自分の世界を創っているということに気づかれていないのだと思います。その世界観はその外に出てみないと客観的に見ることは不可能なのですけどもね。

実に多くの人が当たり前のように他者評価依存症に陥っていて(社会病理です)、あまりにも「世間・他人からどう思われるか」を気にし過ぎていて、それが心の本音を押しつぶすブロックになっているのです。あなたは本当は人の役に立ちたいという愛が心の底から湧き上がってきているのに、この(嫌な)仕事でお金を稼がないと世間体が悪い、他人から見下されバカにされる、旅行したり良い車に乗ったりして豊かさを他人に誇示することで自尊心を維持できないと考え、エゴ(損得勘定・執着)から離れられず、自己矛盾に苦しんでいるのでしょう。世界の本質はワンネス(愛)なのですから、エゴを優先すればするほど人間は深い部分で自分を嫌いになるようにできているのです。そして人生で自分を嫌いになるほど、苦しく不幸なことはないのです。脳は得をしても損をしてもストレスダメージを受け、自分を嫌いになるという最大の損をするのであり、損得勘定で生きること自体が不幸の元凶なのです。実際、そんな風にして心に愛を失って嫌な奴になってしまえば、自分で自分を愛せず、人からも愛されず、心を病んで人生自体を投げ出してしまったら、それは最大の損だとは思いませんか?

旅行とか車とか、それはあなたが本当に欲しいものなのでしょうか?それは世間体を気にして保身のために嫌な仕事を我慢している自分を納得させるための口実・自己正当化なのではないでしょうか?実際大してお金なんかなくても旅行はできますし車も買えます。他人より贅沢な旅行や車を欲しがるから他人よりお金が必要になるだけで。

またそれらが本当に好きならそれらを提供することを仕事にして人に貢献しながら自らが楽しむこともできます。でもあなたはそれを選択肢として考えないのはなぜでしょうか?つまり、あなたはなぜ本当にやりたい仕事で自己実現(=愛を実現)しようとしないのでしょうか?自分が本当にやりたいことを通じて人の役に立ちたいと思いませんか?そんなことをしても稼げない・そんな自信はない・そんなことは綺麗事だ・・・などと考えているのでしょうか?だとしたらそれはやはり他者評価依存による自尊心の低さ・自信のなさが原因なのだと思います。

もう一度言いますが、あなたの価値はあなたの存在そのものにあるのです。あなたがどんな考え・行動を選択するか、いくら稼げるか、どれだけ他人から評価されるかは関係ありません。もっと自分を許し、愛し、真の自尊心を手に入れて下さい。そうすれば世間・他人がどう思うかから離れて本当に自分が納得できる決断を下すことができるようになりますから。この辺りの話は誰でも自信満々になれる方法をご参照下さい。


>男は稼いで結果出してなんぼという風にどこかで思っている自分もいまして、これについてはどう思いますでしょうか。

そのように思っているのはあなたの世界観ゆえであり、多くの人の常識でもあるのでしょうけども、僕は全くそのようには思いません。みんながそんな風に考えて「稼げない男は情けない」などと見下し、同時に貧困によって見下されることを恐れるから、お金の為に嫌な仕事で奴隷のように働かなければならなくなるのでしょう。

僕は存在するだけで無条件で尊敬することを心がけていますし、誇りを持ちながら幸せな乞食生活を経験しているので、貧困など全く恐れませんし、お金のために嘘や隠し事で人を騙して自己利益に繋げようなんて全く考えません。そんなことをすれば自分で自分を嫌いになってしまいますから、そんなに損なことはありません。そんな風にして稼いだお金と、人に喜んで貰って感謝の気持ちでいただくお金とでは同じように見えても価値が全く違うと思いますし。

他人よりお金を稼がないと自尊心を保てないという考え方では不幸になるのが必至だと思います。あなたはそうしてエゴ(我欲・保身・虚栄)のためにお金をキリなく求め、そのために社会・他人の利益に反することをして、そのせいでどんどん自分を嫌いになって、あなたの心は悲鳴を上げているのでしょう。


あなたはその他大勢のNPC同様、この世の幻の如き物質主義的な価値観に捉われ過ぎているのだと思います。しかしそれは成長課題なのであって、乗り越えて行くべきものなのだと思います。

あなたの言う「結果」って何ですか?お金?他者評価?そこに何の価値があるのですか?もしあなたが今死んだらそれらは全部失われて、ただ「自分で自分を嫌う魂」だけが取り残されてしまうのですよ?

結局、信心がないことが一番の問題で、それゆえに「自分はお金がなければ自尊心が保てず確実に不幸になる」と考えて必然的に拝金主義(悪魔崇拝)になり、キリなく稼ぎ続けなければならなくなって、心に愛を失い、自分自身も人生も嫌になってしまうのでしょう。それは魂の成長に必要な人生のトラップなのです。神とお金の両方に仕える事はできない、というのはキリストの語った通りです。


>どの手段が最適かご意見をいただきたく存じます。

今すぐに仕事を辞める必要はないと僕は思います。なぜなら覚悟が決まっている感じがしないからです。もし覚悟が決まっていれば、他の選択肢は実質的になくなっていて他人に意見を求めるまでもなくなっているものなのです。

そしてそのぐらいに覚悟を決めるためには、その前に逃げることなく自分自身と向き合う過程が必須なんですね。それなしに覚悟なんて決まるわけがないですし、覚悟が決まっていれば、どうすべきかはもう自明なのです。逆に先に書いたように、決して自分で魂レベルで納得できていない考え方に無理やり自分を従わせようとしないで下さいね。人生が自分のものではなくなってしまいますから。

だから「目の前のことを一生懸命全力でやる」というのは基本なんですけども、さりとて残業代で稼ぐためにプライベートの時間を犠牲にし、自分と向き合うことから逃げるために今の仕事に埋没し過ぎないで下さいね。

人は成長を経験するために生まれてくるのですから、ラクをするための苦労は報われない定めです。どっちにしろ苦労するのなら、好きなことで苦労した方が楽しく幸せに成長できます。能動的に苦労するのと受動的に苦労するのとどちらが楽しく成長できるかは自明だと思います。人生は愛と勇気を試すRPGなんですから、より愛と勇気が必要な方が正解なんじゃないかと思います。

今の僕はあなたの問いに対して明確な答えを持っていますが、それはあくまで僕が経験から得た僕の答えであり、もしあなたがそれに影響されて心から納得できてないまま決断を下すなら、僕はせっかく天からあなたに与えられた経験を邪魔して自由意志の価値を下げてしまったことになってしまうでしょう。

僕はあなたに、例え相手が誰であれ「他人がどういうか?他人からからどう思われるか?」によって自分の人生の決断を下して欲しくないのです。自分なりにたくさん失敗して、たくさん悩んで、たくさん試行錯誤して、魂レベルで納得しながら前に進んで下さい。

それでは、あなたの悟り・幸せを心から祈っています。






2025年4月1日火曜日

ヒマラヤ密教の大聖者に入門

【質問】29歳・男性 ペンネーム:けいいち 職業:会社経営

初めてのご相談・質問になります。普段からShinyaさんのnoteやTwitterを読み学ばせていだいています。

私自身、小さい頃から死への恐怖や真理を知りたいという好奇心、突き動かされる感覚を頼りに読書や経験を通じ、自分なりに探究を重ね生きてきました。その中で、ユングの深層心理学やトランス心理学という学問を通じ、個人の深い潜在意識の可能性に触れ、また、神秘体験の場面で自分一人の身で悟りへ道を歩むことの難しさを感じていました。

そんな折にアヤワスカという植物を知り、Shinyaさんのブログに辿り着いて、それ以来愛読させていだいています。また、LSDの服用を通して神秘的な体験や逆に人生最大の辛い体験(ある種、それも神秘体験ですが...)も経験し、Shinyaさんの記事を見てそういった形での修行は辞める事にしました。

そしてShinyaさんが仰るように、まずは身の回りにいる人達へ慈愛の心を持って接することが一番普段からできる修行だと思い、日々自分に関わる人へ感謝し利他心を持って過ごすことを心がけています。

前置きが長くなってしまい申し訳ないのですが、ここから本題に移ります。Shinyaさんのブログを知ったのと同時期頃にある友人から相川圭子(ヨグマタジ)さんという方の存在を教えて貰い、また、パラマハンサ・ヨガナンダの「あるヨギの自叙伝」という本をお勧めされ、自分が今まで科学や宗教(仏教、キリスト教など)を通して学んできた事が統合された形で言語化されている事に大変驚き、ヒマラヤ密教に深い関心を抱くようになりました。

そして、自分なりに調べた結果、経歴やスピリチュアリティの世界での評価(インド最大の霊性協会、ジュナアカラにて最⾼指導者の称号を得るなど)など、信頼に足ると判断し、また、究極の悟り(サマディ)に達したヒマラヤ大聖者から力をいただける機会があるなら、一度試してみて、自分の身で持って経験してみたいと思い、入門してみる事にしました。

入門する際に、秘法やマントラの伝授と共に、ディクシャ(瞑想秘法伝授)というものがあるらしく、それを受けてみたいというのが一番大きい動機でした。

しかし、実際に入門するためにスタッフの話を聞いていくと、入門するためには〇〇万円のお金がかかることや、月に収入の〇〇%を支払わなければならないことなどを聞き、不安になってきてしまいました。

宗教には様々あり、本心から衆生を救いたいという思いで活動されている方も多くいることは知っているのですが、その一方で金銭の授受を目的とした悪徳宗教も同じだけ存在しているだけに、どうなんだろうという気持ちが拭えなくなってきました。(運営費などにかかるというロジックは分かるのですが…)

そこで質問なのですが、Shinyaさんは相川圭子(ヨグマタジ)さんやヒマラヤ密教についてご存知でしょうか?

また、上記についての判断の糧になるようなアドバイスをいただけますと幸いです。

長文になってしまい、ご負担をおかけしてすみません。どうか、ご回答いただければ嬉しいです。よろしくお願い致します。

【回答】
ご質問ありがとうございます。

>相川圭子(ヨグマタジ)さんやヒマラヤ密教についてご存知でしょうか?
いえ、全く存じ上げませんでした。「ヒマラヤ密教」とかいうものにも全く興味がなく、今回あなたから質問されるまでその存在自体が僕の思考の枠外でした。

恐らくあなたはものすごく根本的な部分で僕を誤解されていると思います。僕は自分が悟りに至りたいと思って修行をしているのではなく、世界(みんなの魂)を救うために修行をしています。悟りはその手段に過ぎません。そういう考え方なので
>究極の悟り(サマディ)に達したヒマラヤ大聖者から力をいただける機会
なんて聞くと、正直鼻で笑ってしまいます(ごめんなさいね)。まず自分のプロフで「大聖者」なんて自称して恥ずかしいと思わない感性からして悟りから遠い感じがします。ましてそれでお金儲けをしているのならね。まるで稲中のテッシンみたいです(彼もまさに詐欺師でしたしね)。

もし究極の悟り=世界(みんなの魂)を救うための方法」を知っている人がいたら世界は既に救われているはずですから、それは直接人から習えるものではなく、自分で探求する以外にないものなのだと僕は思っています。人生は自分をプレイヤー(主人公)とするRPGなんですから、それは仕方のない(もとい、有難い)ことなのです。だから僕はこの世の全てを先生のように思って学んでますが、悟りについては誰か師匠的な人に弟子入りして教えを受けようとは思っていませんし、どこの宗教・スピの団体にも所属するつもりはありません。また弟子を取ったり宗教団体を作るつもりもありません。組織は腐敗が必然であり、悟りは組織化できるものではないと知っていますから。そして創造主と自分の関係は一対一なのですからね。

そしてもし世の中に「究極の悟り=世界(みんなの魂)を救う方法」を知っている人がいたとしたら、その教えを秘密にするべき理由はないはずです。みんなを救うためにはその教えを遍く伝えなければならなくなるのが自明ですしね。実際、釈迦はそうして完全無償で教えを説いて回ったのでしょう。釈迦が「秘密の教えを伝授する代わりにお金を払って下さい。払えない人には教えられません」なんて言うと思いますか?

だから僕は「〇〇万円を払って入門し、収入の〇〇%を払い続けられる人だけに秘密の教えを特別に教えます」なんて言う人を絶対に信用しませんし、そのような人にもその教え・悟りにも全く興味がありません。悟りというのは衆生を救うためのものであって、己のエゴ(我欲・保身・虚栄)のために利用するようなものじゃないんです。

「覚り」というのは文字通り「目覚め(気づき)」であり、自ら覚るべきものであって、お金を払ってその対価として得られるようなものではないのです。僕自身、真言密教から学ばせていただいていることは非常に多く、多大な敬意を持ちつつ自発的に寄付もしていますが、あなたのように「世に認められている密教の大聖者に入門すれば悟れる・神通力を得られる」などという発想はありません。悟りは登山と同じで自分の足で登らないなら意味がないものであり、例え相手がどれだけ立派な人でもその人が自分の魂の課題を飛ばしてくれるなどということは本質的に有り得ないのですから。

それに「何をすれば必ず何を覚れる」なんて事前にわかるわけがなく、事前に相手を値踏みして得られる自己利益(覚り?神通力?)をあらかじめ予測し、結果(見返り)を期待した努力をするなどというのは、(バガヴァット・ギーターが教えてくれている通り)創造主の思い(愛)に反したエゴであり、結局同じような相手を引き寄せ合ってお互いにエゴのために利用し合うだけでロクなことにならない感じがします。

ゆえに僕はアンチ権威主義であり、「権威がある人だから・周囲が大聖者扱いしていて、大金を払ってでも教えを乞う人が多いから」みたいな理由で信用するような考え方とは真逆なのです。そもそも権力者が権威を与えるということは、権力(支配)に都合が良い存在だということじゃないですか?だから権力者が権威を与えている時点で、僕なら「反面教師として以外に学ぶことは何もない」と即判断しますね。まぁ実際は本当に権力者が権威を与えているのではなく、本人が勝手にそう自称しているだけだと思いますが、どっちにしろ僕が権威に頼るよるような人に教えを請いたいとは思わないことに変わりはありません。

「さとり」は「差取り」でありそれを権威権力のヒエラルキー構造=利益構造を作って内部で権力争いをやっているような宗教団体で覚れるとは思えませんからね(だからどこの宗教団体にも属さないのです)。ヒエラルキー・利益構造を作ること自体がエゴ(分離・差別)のベクトルであり、「愛(融和・差取り)」とは真逆のベクトルなのです。

だから自分の権威をこれ見よがしに見せつけることで信者と金を集めようとする人物って僕は全然信用できないんですよね。麻原彰晃だってダライラマの権威とヨガの知識を利用して信者と金を集めていましたし。もし自分で教えを実践することでその素晴らしさを伝えられず、権威に頼って信用させるような宣伝をしてネットで地引網みたいに信者と金を集めようとしているのなら、本物かどうかの答えは自明かと思われます。

釈迦やキリストをイメージすればわかると思いますが、本物は
①自称しない
②権威を頼らない
③金を取らない
です。誰かさんはスリーアウトですね。もしあなたがどうしても行きたいのなら僕は止めませんし、結局あなたが行きたければ行くのでしょうから止める意味もありません。仮に僕が止めることであなたが難を逃れたとしても、あなたが自分で経験を積んで判断できるようにならないのなら、結局はまた別な人に騙されることになるでしょうからね。

あなたが実際その方のところに行ってみて良かったと感じるか騙されたと感じるかは僕にはわかりませんが、人生にはその人にとって一番必要な経験が与えられるのだと信じています。だからあなたが経験したいことを経験して下さい。

僕もスピ系の誰かを「この人は信用できますか?」みたいに聞かれる度に逐一調べて判断する「スピ詐欺チェッカー」みたいにして使われたくないですし、その結果責任も取れません。名指しで語ることでスピ詐欺師本人やその信者たちから敵扱いされて攻撃されても面倒臭いですしね。ChatGPTにでも聞いてみて下さい。

あなたはとても好奇心が強く、興味があることは実践してみないと気が済まない方なんだと思います。それ自体はとても素晴らしい気質だと思います。ただあなたは修行によって何か特別なを手に入れて、特別な人間になって優越感を感じ、それによって自尊心を満たそうとしている部分はありませんか?それを自覚して向き合う勇気を持たない限りは、結局また同じような誰かを引き寄せて騙されることでしょう。人は己のエゴゆえに自ら騙されるものであり、人を騙そうと思ったらそのエゴを刺激するだけで相手の方から勝手に騙されてくれるものなのです。

<さとり四カ条>
①偉くなろうとするな。(自他全ての存在が)尊いと知れ。
②特別になろうとするな。特別(主人公)であると知れ。
③日々愛を実践し、特別ではなくなること(差取り・ワンネス)を目指せ。
 
※他人の事も主人公として尊重し、目覚めを連鎖させよ
④幸せになろうとするな、幸せであると知れ
 ※与えられている価値に気づき、感謝報恩に生きよ。

日々の愛の実践より、神秘体験や神通力のようなものを求めないで下さいね。その姿勢は少なくとも僕の知る悟りとは真反対です。悟りはあくまでも日常の人間関係の中にあるものなのですから、出家や弟子入りみたいなことをして「特別な能力を手に入れなければ悟れない」みたいに考えないで欲しいです。神秘体験や神通力も含めて、その人に必要な経験は必ず与えられるのです。

今回とても厳しい回答になってしまっているかも知れず、大変申し訳ありませんが、魂の同志であるあなたへの愛ゆえですので、どうぞご理解いただけると幸いです。あなたの幸せを心から祈っています。

【関連質問】
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追伸
アマギフの寄付をいただけるのは大変ありがたいですが、質問する際に回答の対価を前払いするみたいな感じで払わないようにお願いします。僕はこの活動で対価を得ようとは思っていません。だから寄付のあるなしに関わらず、常に全力で回答しています。

2025年3月25日火曜日

筋トレ(モチベ維持)について

【質問】30代前半・男性 ペンネーム:ユユ蔵

こんにちは。

以前、ネドじゅんさんについての質問にご回答下さりありがとうございました!あれからまた真也さんのノートと質問箱を日々読み漁り、自己の探求と無条件に周りを愛し続ける事を実践しております。なかなか思うようにはいきませんが清々しい気分で毎日過ごせています!ありがとうございます😌

今回は質問というか、雑談というか…困っている訳ではないのでお手暇の際に、よければご回答頂ければと思います。

筋トレについてなのですが…僕は7年ほど前から自宅トレーニングを開始し、今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。

ですが去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で、たまに風呂上がりなどで身体を見ると確実に細くなっており少しがっかりしてしまいます。それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。

また、メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。

現在はそういった感覚になることは無く、基本的に気分や感情の起伏もそれほどなく安定していますが、なんとなくネガティブな感情というか、未来や過去の出来事を考え思い悩む時間が増えました。

真也さんが柔術をされている様に、僕は幼少期から高校まで少林寺拳法を習っていてそこで「心技体」を習いました。今思えば「三位一体」に通ずるモノがありそうな気もします。

ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。織田信長の時代の僧侶達は自分達や村の皆を守る為に鍛え上げていた話はあるようですが…

スピリチュアルや霊性の観点から見た「筋トレ」という行動についての真也さんのお考えを聞きたくご連絡させて頂きました。よろしくお願いします😌

【回答】
ご質問有難うございます。そしてnoteや質問箱をご愛読いただいて、実践に繋げていただいていてありがとうございます。

さて、「トレーニングをする意味(理由・目的)は?(心身の健康や悟りに必須のものなのか?)」というご質問だと思いますが、あなたが本当に聞きたいことは「運動するモチベーションを維持する方法」であって、それが維持できなくなってるからこそ、やる意味(理由・目的)を探しているのでしょう。そのお気持ちはとてもよくわかります。

ただ僕は純粋にトレーニングが好きだから続けているのであって、健康のためとか悟りのためとかムキムキになるためとか目的を考えてやっているわけではありません。副次的に健康や悟りに繋がっていて筋肉質にもなっている面はあるかと思いますが、それらが目的ではありません。


でももしあなたがそう聞いて、僕が「トレーニングが大好きで、意図せずともモチベーションが体の底から湧き上がって来て、毎日やる気満々でガンガン鍛えている」などと思っているのなら、それは大きな誤解です。僕らの魂が同源・同一であるということを忘れないで下さいね。基本は同じなのです。毎日がモチベーション維持の戦いです。もし誰かがそれを余裕でやってるなどと思うのなら、それは他人の気持ちに対して想像力が欠如していると思います。

僕の若い頃は自尊心に飢えていて、試合で勝って自分の強さを示し、他者評価を得て自尊心を満たす、みたいな単純な(明確で強い)動機で鍛えていました。子供の頃からバカにされたりいじめられりしてきた怨念みたいなものもあったと思います。当時から精神を病んでいたので練習に身が入らなくなることも多くて何度もブランクがあったのですが、その割には大会で何度も優勝し、その(狭い)界隈では有名になるほど強くなることができました。

ただ僕は教えるより教わる方が好きなので、今はその自分の得意な競技ではなく、30歳から始めた柔術を続けています(目覚めるまで鬱で32~44歳の間は殆ど運動すらしていませんでしたが)。年齢と共にどんどん疲労が抜けにくくなって、練習前は「ああ、今日は行きたくないな」って思う日の方が多いです。健康などころか毎日筋肉痛で、ケガで痛い所も常にあります。そしていくら「他人との比較は気にしない」と思っていても、自分は年齢的に目に見えて伸びるなどということはなく、強い選手からはボコボコにされ、伸び盛りの若い選手たちからはどんどん抜かれたりして「こんなことしてて何になるんだろう?」って自問してしまうことも多々ありますよ。

でも練習が終った後は「やっぱり来て良かった」と毎回思います。そしてそういう「苦しみを能動的に乗り越えて心身共に成長して行く」っていう部分も含めて好きなんですね。外で同年代の人と会ったりすると、心身共に若さ・強さに大きな違いが感じられるので、「続けてて良かったな」と思わされます。

苦労というのは放っておいても与えられるものなので、どっちみち苦労するなら受動的に受けるより能動的に(自分で選択して)受ける方が、自分で楽しみながら成長できますし、かえってラクなんですね。

僕は強くなるためではなく、弱くなりたくなくて鍛えているって感じですね。歳をとるほど成長よりも衰えのスピードの方が早くなってきますし、疲労やケガの回復もどんどん遅くなって蓄積していってしまいます。だから体のケアの重要性が増しますし、練習量も若い時よりずっと少ない中で、その割合も体のケアや技術練習に充てる時間が多く、実践練習は少なめですし、ケガしないよう・疲れ過ぎないよう・加減して練習しています。そうしないと続けられなくなるので。

例えば今が全盛期のプロスポーツ選手は、元々その競技が本当に好きで、才能があって、一緒に戦う仲間と素晴らしい練習環境があり、競い合うライバルがいて、たくさん応援してくれる人がいて、実力がアップすればその分成績が上がって人気とお金が稼げて応援してくれる人達も喜んでくれるという環境にいて、それでモチベーションを維持して努力できているわけです。

だから「モチベーションの維持」に限定して言えば、たいした才能がないアマチュアで、年齢もとっくに全盛期を過ぎていて、体を鍛えたところでほとんど誰からも注目も応援もされず、異性にモテて良い思いができるってわけでもなく、例え競技に出たとしてもなかなか勝てるわけでもなく、勝ったとしてもたくさんの人から喜ばれてチヤホヤされてお金が稼げる舞台でもなく、年齢でどんどん体が衰えていく中で、仕事など他の事と両立しながら時間を捻出して、楽しみながら黙々とトレーニングを続けている人の方が凄いのです。それは神の視座から見れば、ある意味で人気のプロスポーツ選手の努力より尊いことをしているのです。かつてトッププロだった偉大なスポーツ選手たちでも引退したら運動すらしなくなってマラドーナみたいにブクブク太るような人が多いですしね。それだけ我々は難易度が高いことにチャレンジしているってことです。誰から評価されなくても自分で自分を評価しながら努力できるってとても尊いことなんですよ。


>去年鎖骨を骨折し、約1年(現在も)トレーニングが出来ない状態で
>メンタル面でも筋トレを続けている時は日常的に短気とまではいきませんが、常に何かに追われる様な感覚でせかせかしていて何かとイラッとくることが多かった気がします。

それはきっとあなたが己の自尊心を求めて焦燥感に駆られながら筋トレをしていたからであって、筋トレそのものが好きなわけではないからでしょう。筋トレを続けたくなくなったがために、自身の精神的な問題を筋トレのせいにしてしまっていませんか?


>それに反して身体は軽く、自分の思い通りに動くというか…重い荷物を下ろした時の様な身軽さを感じております。

トレーニング期間中は疲れが蓄積しているので、トレーニングの効果を感じるのがトレーニングを休んでいる間になるのは当たり前です。そしてしばらくトレーニングを止めていればその効果がどんどん薄れていくのも当たり前です。

ただ単に筋トレするだけなんてつまらなくないですか?あなたはきっと深層心理でそれを止めたかったからこそ、ケガをしたのではないかと思います。そしてほぼ素人の方が、ほぼ何となくイメージ(思い込み・我流)だけで、誰にも習わず独りぼっちで鍛えていれば、ケガをしやすくなるのも当たり前の事ではないかと思います。まして焦燥感に駆られるようにしてハードにやっていたのであれば。


「運動を全くしない」というのが心身にとって不健康なのはほぼ確実でしょう。しかし「運動さえすれば必ず心身共に健康になる」かというと、そういうわけでは全くありません。やり方次第です。当たり前です。なので「筋トレ(運動)することの良し悪し」など一括りには語れません。そのやり方というのも人によって個性があって合う合わないががめちゃくちゃあるのですしね。そして自分に合わないやり方をすればかえって不健康になってしまうでしょう。そして「別に運動は体に良いわけではない」などと考えて運動を全くしなければ確実に不健康になります。


だいたい何事も、それをする意味(理由)を「好き(楽しい)」以外に求めてしまうと、それが「目的化」してしまい、それが満たされないと「何でこんなことしてるんだろう?」みたいに考えて必然的にやる気を失うことになってしまうんですね。やる意味(理由)などは、人生を満足いくまでやり切った後で見えて来るものなのではないでしょうか?

僕は日々の練習で、「今日はこの技を覚えよう」とか、「この黒帯の人を極めてやろう」とか、「大会にチャレンジしてみよう」とか、ごく短期的には「目標」を持ちますが、それはあくまでその日一日を楽しむためであって、「目的化」はしないようにしています。


多くの人が気づいていませんが、この「目的化」というのはものすごい害悪なんですね。それは結果を求めることにつながり、結果が得られないと不満を抱いたりやる気を失ったりすることになるのですから。

「結果を求める」ということは、自分の努力(嫌なことを我慢する)に対して「見返りを求める」ことなんです。それは全てを与えてくれている創造主に対して「あれをするからこれを下さい」と交換条件を出しているということであり、それはとても不遜なことなのです。

「努力できること」自体が、とてもありがたいことなのだと理解し、心から感謝して愛し「やらせていただいている」と考えながらやることが大事です。そうすればどんな結果も「今の自分にとってこれがベストだから与えられたのだ」と理解して心から感謝しながら受け取って愛することができるはずです。


だから「何のために(意味・理由・目的)」なんて考えず、「ただ自分のできることに感謝し愛しながらやる」ことが大事なんだと思います。これはトレーニングに限らず、全てにおいてです。

考えてみて下さい。見返りを求めて人間関係を築く人は、見返りがないと人間関係が続けられませんし、そもそもそういう人は嫌われますし、実利で築いた人間関係は実利がなくなれば縁が切れるのは当然です。恋愛だって例えば将来の安定とか世間体などという目的を持ってしまうと、純粋に好きな気持ちを維持できず、目的が満たされないと「なんで付き合ってんだろ?」別れることになりますから。仕事も好きじゃないのにお金のためにやるのは苦しいことですし、お金にならなくなったらどんどん嫌になって辞めたくくなるでしょう。みんな資本主義に心まで毒されて損得勘定で考えるのが当たり前になっていますが、何の見返りも求めず「人のために何かできる」ってこと自体を愛することが大事なのです。

僕がいつも言っていることですが、与えられたものに感謝できない人間にもっと良いものを与えたいとは思わないのは創造主も同じであり、人生・世界はそのような原理で創られているのです。


与えられているものの価値に気づかず感謝していない人間は、既に与えられているものまではぎ取られ続け、失うことでその価値を知らされる悲惨な人生になってしまうのが必然なのです。努力できること・人のために何かできることも、創造主からの贈り物ですからね。


>今ではたまに初対面の方に「何かスポーツされてます?」と聞かれる程度には身体が大きくなっているようです。

もちろん僕も人間の男なので、鍛えた体を人から褒められたりして嬉しいと感じる気持ちはよくわかります。しかし他者評価を得ることで自尊心を満たすのが目的のようになってしまえば(それは他者評価依存症です)、ケガをして休んで急に細くなっただけで虚しく感じられてしまうのは必然だと思います。


もし本当に筋トレが好きだったらケガをしててもできる筋トレはあります。そしてマッスルメモリーという言葉がある通り、ブランクがあっても鍛えればちゃんとすぐに戻るのです。それなのにあなたがケガを理由に筋トレをパッタリと止めてしまっているのは、やはり筋トレそのものは好きではなかったからではないでしょうか?


>ネットで調べてみると筋トレはメンタルに良いとか、思考もポジティブで行動的になる等の効果はあるらしく、実際それは僕の体験として確実に実感しましたが、お釈迦様や神仏に仕える僧侶さん達で筋肉ムキムキだったという話はあまり聞かない様に感じます。

あなたは自分が体験を通して覚ったことより、釈迦やその他の僧侶たちがどうだったか?(伝聞情報)の方を信じるのでしょうか?それでは生まれて来た意味がなくなるのではありませんか?あなたはただ単に運動習慣がケガで途切れてしまって、怠けるのが習慣化してしまい、また筋トレ生活に戻るのが辛くて、やらない言い訳を探しているだけではないでしょうか?

僕は好きでトレーニングをやっているので、釈迦やその他の僧侶たちがトレーニングしてたかどうかなんてどうでも良い話です。人には個性があり、それぞれの悟りの道があるのですし、まして時代背景も全然違う人たちがどうだったかを気にして、僕が自分が好き・良いと思っていることを止めることはありません。止める時があるとしたら、自分で好き・良いと思えなくなった時です。

僕は柔術をみんなに薦めるつもりはありません。前述した通り人には個性があるのですからね。柔術は他の格闘技よりはケガのリスクが少ないのですが、そうは言っても格闘技ですからケガはつきもので、大ケガをしてトレーニングを続けられなくなり、仕事や私生活にも多大な負の影響を及ぼしてしまう人もいます。だからそういう意味でも無責任に他人には薦められないんですね。

それでも柔術の素晴らしいと思うのは、実際に体を合わせて戦うので、自然とコミュニケーションが密になって精神的に安定することです。そういう練習仲間が常にいて、教え合ったり競い合ったり励まし合うことができて、そういう友達に会いたくなりますから、モチベーションを維持しやすいんです。そしてスパー中は常に集中していないとすぐヤラれてしまうので、脳が余計な事を考えず、リフレッシュになるんですね。だから反芻思考傾向の強い人には特に良いのではないかと思います。そして柔術は技術は途方もないほど開発されていてこれからも開発され続けるので、自分の個性に合った技術を見つけて自分で考えながら向上させ続け、色んな個性を持った人たちと競い合う面白さもあります。大会も体重や帯や年齢で細かく分かれてるので同じレベルの者同士で競い合いやすいですし。

僕はただ筋トレするとか、ただ走るとかは、あまりにも退屈過ぎてモチベーションが維持できないんです。そして本当は好きじゃない運動を心身の健康を目的にすると、ある程度心身が健康になったらあとは維持するだけになって何も面白くなくなってしまいます。僕の性格上、発展性がないと維持もできないんです。やはり技術など、何か「年齢で衰えても、歴と共に向上して面白くなっていく要素」がないと、続けるのは難しいと思うんですね。

柔術に限らず「一緒にやる仲間がいる環境に身を置くこと」がモチベーションを上げる最適な方法だと思います。そしてそこでコミュニケーションを大事にすることです。他人の努力を認めてあげると同時に、存在そのものに価値があるのだと「尊敬ある態度」で示すことです。つまり心からの笑顔で存在を承認し、話を否定せずに同情・共感的に聞くこと、です。己の愛のなさゆえに周囲に嫌われ、自分の成長・健康を人から喜ばれないようでは、どんな素晴らしい大会結果を残そうと虚しいだけです。


一人でトレーニングしても、色々教えてくれたりケアしてくれる人がいませんし、どうしてもデタラメな鍛え方をして成長が遅く、ケガもしやすくなります。ただ一人で黙々とトレーニングしていても何のコミュニケーションも生まれませんし、面白くなくてモチベーションが維持できないのはごく当たり前のことだと思います。

あなたには何か運動の習い事ができないような、何か時間的・経済的な理由があるのでしょうか?もしそうでないなら、やはり何か運動の習い事をするのが良いと思います。そうすれば先生や練習仲間からできるだけケガをせずに効率的に鍛えられる方法も教えて貰えるでしょう。「家族との時間を大事にしたい」などの理由で一人で筋トレするにしても、週一ぐらいパーソナル・トレーナーにお願いしてみるのはいかがでしょうか?

決して他者比較・他者評価などをモチベーションにせず、仲間とのコミュニケーションを大事にして、自他の体を十分にケアしながら続けてみて下さいね。

それでは、あなたが何か好きな運動を見つけて、周囲のみんなと楽しく健康的に心身を鍛えながら幸せに導かれることを心よりお祈り申し上げています。

















2025年3月20日木曜日

LSDの後遺症について

【質問】30代・男性 ペンネーム:ビタミンD
こんにちは。突然ですが真也さんに相談したいことがあります。

過去の人間関係(元彼女)のことが、ずっと頭から離れなくて苦しんでいます。

僕は過去に、強い不安やパニックに襲われることがありました。そういうとき、助けを求めても「なんでそうなるの?」「子供みたい」「もう嫌いになった」「帰って」と突き放されました。

でも、相手(元彼女)がパニックになったときは「ちゃんとケアしてほしい」「見捨てないでほしい」と求められました。僕が同じようにしんどくなったときは冷たくされるのに、相手がしんどいときは支えることを求められる――その理不尽さが受け入れられなくて、今でもずっと頭から離れません。

最後には「好きだった気持ちが壊れた」と言われて終わったのですが、僕の中では納得できなくて、何度もその出来事を繰り返し考えてしまいます。そのせいで「僕はクズだ」「何の価値もない」「消えたい」と思うことが増えました。でも、本当は「みんなに優しくしたい」と思っています。振り返ると、自分も防御しすぎて、相手とちゃんと向き合えなかった部分がありました。だから、これからは少しずつでも変わりたいと思っているのですが、どうすればこの苦しさを乗り越えて、人とちゃんと向き合えるようになれるのか分かりません。

現在、この相談について考え続けてしまい、仕事が手につかず、実家で引きこもっている状態です。外出や入浴もできず、毎日朝起きた瞬間から思考のループが始まり、寝るまで止まりません。睡眠中も夢の中でこのことを考えてしまい、心が休まる時間がまったくありません。

今の僕の気持ちを、誰かに聞いてほしくて送らせてもらいました。もし何か思うことがあれば、教えてもらえると嬉しいです。

※後から僕とのメッセージのやりとりで、質問者様は
・元々躁鬱病を患っていること(今は通院しておらず)
・LSDの使用歴があること(躁鬱と憂さを晴らすため・遊び)
・LSD使用のきっかけはシャーマンRという有名詐欺師であること
・元彼女にも勧めて、一緒にLSDを使っていたこと
などを正直に告白してくれました。


【回答】
ご質問ありがとうございます。お気持ち、心よりお察し申し上げます。

この件に限らず、僕は僕に救いを求めて相談してくれる質問者の方を責めることは決してありません。欠点も過ちもない人は存在しませんので「何か落ち度がある人は自業自得だから救わなくて良い」みたいに考えたら、誰のことも救えませんからね。僕に救う使命のある人だけが、僕の元に訪れるのだと信じています。だからどんな悩みでも気軽にご相談下さい。

さて、あなたのその症状は典型的なLSDの後遺症であり、ほぼ統合失調症状態になっているのだと思います。あなたの元々の性格は直接的には関係ありません。そしてそれは元彼女の理不尽さが直接的な原因でもありません。もしあなたの元々の性格がどうだったとしても、もしその元彼女と出会っていなかったとしても、あなたはきっと何かをぐるぐる考え続けて苦しんでいたことでしょう。もう二度とLSDには手を出さないで下さいね。他の幻覚剤にも。


LSDの後遺症である「思考のループ」というのは、まさに目が覚めているはずなのに悪夢の中に閉じ込められるようなものです。その辛さは僕も何度も経験しているのでよくわかります。それは程度の差こそあれ誰にでもあるような「反芻思考(嫌な過去を選択的に何度も思い出して追体験して自分を責めてクヨクヨしたり他人を恨んで怒りを増幅する)」とはレベルの違うものなのです。あれがずっと続いている状態というのはさぞかし辛いことでしょう。

あなたはまず冷静になって、それがLSDの後遺症(悪夢)なのだということを認識して下さい。「これは元々の自分の性格が原因だ」とか「元彼女の理不尽さが原因だ」などと考えないで下さい。

そしてそのように「今の自分の考えは正しい」と考えるのを止めて「今は病んでいてまともな思考能力は無くしている」ということを自分で認めることです。それは夢の中でそれが夢だと気づくぐらい・酔っぱらっている人が酔っぱらっていると自覚するぐらい難しいことです。そして例えそれを自覚してさえも、醒めるまでは普段の思考回路には戻らないのです。

人は誰でも「自己防衛のプライド」があって、どうしても自分で自分を正当化してしまうので、「今の自分の考えは(LSDのせいで)おかしくなっている」などとは認められないものなのですね。しかしLSD以外の原因を探し、その今の自分の考えを「まともである」と正当化しようとすればするほど思考ループの深みにハマってしまうので、まずそれをやめることが肝心なのです。今の思考パターンを続けることでその回路が脳で固定化されるのは非常に良くありません。

人の価値とは?に書いた通り、あなたの価値は存在そのものにあるのであって、あなたの考えが正しいかどうかにあるわけではないのだと知って下さい。そして過去について考えることは止めてください。とにかく思考よりも感覚・感情を大切にすることです。自然や動物に触れたり、散歩程度から運動を始めたり、音楽や工作などの集中力が要るような・気が紛れるような趣味に没頭してみて下さい。

僕も自分で試さないと気が済まない性分のため、1年程LSDを修行目的で使用していましたが、もう既に必要な経験は得られて「LSDとは何か?」ということもよくわかりましたし、あなたのようになっている人たちからもう何件も相談を受けていて、今は完全に反対派です。

かつてLSD使用者を救い・悟りに導く目的でアヤワスカとLSDの違い(※加筆修正中)」という記事を書いたのですが、思ったより反響が大きく、またそれによって使用を抑制するどころか余計に興味を引いてしまった部分があり、余計に「後遺症に苦しむ人たちを救わなければいけない」という因縁を自分で生じさせてしまった責任を強く感じています。だからこの記事が本当にLSD使用者の救い・悟りに繋がるように心から願っています。

あなたの過去の出来事はすべてあなたの悟りの過程として必要だから起きた必然なのであり、あなたなりのベストを尽くした結果なのですから、自分の過去について「何が悪かったのか?どうするべきだったのか?」などと自分一人で思い悩みながら、原因や解決策を探さないで下さい。特に病んでいる状態の時には、決していい考えにはつながりませんから。問題というのは別に解決などしなくても、自分も他人も許す事で乗り越えることができるのです。

だから決して自分を責めてはいけません。同じように元彼女のこと誰も責めてはいけません。まして自分の運命や創造主を責めて恨んでもいけません。誰を責めてもただ自分自身が苦しくなるだけです。あなたが自分や誰を否定しようと、それはそれを創った創造主の否定になるのであり、全部自分自身に返ってくるだけなのです。

あなたの人生RPGに起きることは全て必然であり、クリエイターがあなたの魂の成長のために必要だから与えている経験なのですから、誰のことも責めず、決してネガティブに解釈しないで下さいね。「問題の原因(犯人)探しをして誰かを責めることで思考と感情の整理をつけようとするのを止める(自分の経験を物語として愛する)」ということです。これはLSDとは関係なく、真理です。

そして以下の文章を読むのは、もう少し落ち着いて「思考ループ」が止んでからにして下さい。必ずです。







さて、前述したように、あなたは自分も誰も責めてはいけないのですが、しかしそれと同時に、あなたの人生の主人公はあなたなのですから、結局はあなたが変わらなければ何も変わらないということをあなたは知らなければいけません。「すべての因縁は今の自分を(超時空的に)起点としている」のです。そうでなければ自由意志を与えられた意味がありません。悪い因縁を断ち切ることができるのは主人公たるあなただけなのです。

人生というのは魂の成長プログラムなのであり、あなたが自分の因縁(カルマ・成長課題)を悪化させている理由は、究極的に言うと「自他に対する愛(慈愛・思いやり)の欠如」であり、「存在に対する(創造主への)感謝の欠如」です。

逆に言えば自他の存在に対して慈愛と感謝の心を持ち、生き方を通じてそれを示せるようになれば、あなたの悪夢は終わります。それが魂の成長(人生の目的)なのですから。

僕らはこの仮想現実世界において「自分は孤独ではない」という夢のように素晴らしい経験をさせて貰っているのです。「自分」が存在し、それと同等の「他者」が存在し、愛を経験させて貰っています。そしてまるで「孤独ではない」というのがデフォルトのように錯覚させられて貰っています。基本的にはみんな両親の愛によって生まれ、血縁という強い絆が存在し、周囲に愛されて育つのですからね。もし誰からも愛されていなければ、子供というのは育たないのです。あなたが育っているということ自体が、みんなに愛されてきたという証なのです。

ただそれは「愛」というものを僕らに経験させるため・実感を通じてその価値を知るために「創られた幻想」でもあるのです。本当は僕らは唯一の存在である創造主自身なのであり、絶対的に孤独な存在なのです。つまり本当は「孤独である」方がデフォルトなのです。

我々は創造主意識の分離意識なのであり、本当は絶対的に孤独な存在であることを敢えて忘れさせられ、人生の中で愛を経験させて貰いつつ、それとは相対にある孤独感を創造主と共有し、また「孤独ではない」という経験をさせて貰っていることへのありがたみを理解し、その感謝を通じて、創造主と繋がっているのです。

僕らは「孤独ではない」ということの方を「デフォルト(当たり前)である」と錯覚させられていて、自分がみんなに生かされているということを「当然である」と考えて意識さえできないものなのですが、その傲慢さを乗り越え、感謝できるようになることが魂の成長なのです。

人がLSDによって強い不安・パニックに陥る根源的な理由は「他人というのは全員が自分の鏡のような存在であり、本当は自分が唯一の存在である」という事実に、人間としての心が耐え切れなくなってショートするからなのです。

あなたは「自分と他者が存在することの本当の意義・価値」が全然わかっていないから、創造主がそれを悟らせるために、そのような経験を与えたのでしょう。全ての出会いは自分自身の反映なのであり、自分自身を覚らせるため、そして愛を経験させるために、創造主が派遣している存在なのだと知って、まずはそこに心から感謝することが大事です。

僕ら意識にとって人生を与えられるということは非常に稀なことなのであり、人生を与えられていない意識(霊)たちは常に人生(肉体)を欲しがり、人を被害者意識から自己嫌悪・厭世観に陥れて「そんなに要らないなら貰ってやる」と常に乗っ取りを狙っているのです。だから自他が存在することに感謝のない人間が「自我を手放させる幻覚剤」を使うことはその乗っ取り行為を助長することになり、非常に危険なのです。それは憑依現象(霊障)についてに書いた通りです。

孤独に苦しむ人はみんな「誰も自分を理解してくれない」などと言いますが、当たり前です。何かを言葉で説明をしたぐらいで、自分という存在とその経験・感情とそこから築いた自分の考え方について本当に他人から理解されるぐらいなら、「自分」という「経験主体者」に存在意義はありません。それを本当の意味で理解できるのはあなたと一緒に人生を経験している創造主だけだからこそ、創造主には存在意義があるのです。

孤独との向き合い方に書いた通り、人は孤独感に苛まれていると、まるで「こんなに孤独を感じているのはこの星で自分だけなんじゃないか」みたいな感じに思ってしまうものですが、孤独感というのは人間に平等に与えられているものなのです。もし人間に孤独感が与えられずに、独りぼっちでも幸せになれるように創られていたならば、無理して人付き合いをする必要はなくなり、人間関係から逃げてしまう人ばかりになって、愛も成長も経験できないでしょう。「孤独感」こそが人生という愛と成長の物語を成り立たせているマテリアルなのであり、僕らをつないでいる接着剤なのです。

実際、僕が質問箱・電話相談をやっていても孤独に関する質問・相談はとても多いです。そしてみんな一様にそれをまるで自分だけのことのように思い込んでいます。しかしそれこそが孤独に陥っている根本的な原因なのではないかと思うんですね。

実に多くの人が「誰も私のことを理解してくれない」などと考えて、人付き合いをしていても心を開けずに精神的に引きこもっていて、他人の気持ちを全然理解しようとしないために傷つきやすいくせに平気で他人を傷つけ、他人からも自分の気持ちを理解されず、理解したいとも思われないのでしょう。他人の孤独を心から思いやれるような思いやりに満ちた人から、孤独に関する相談を受けた例がありません。

そういう人たちはきっと他人の孤独など全く眼中になく、孤独そうな人を見ても「この人は嫌な人で自業自得だから仕方がない」とか「この人はきっと孤独に強い人で、自ら孤独を求めているのだろう」などと考えて、自分がその孤独を救おうなどという考えは完全に思考の枠外なのでしょうね。まるで自分だけが救われようとして自ら地獄に落ちる「蜘蛛の糸」のカンダタの如くに。なぜ自分の孤独とばかり向き合って、周囲の人たちの孤独とは向き合おうとしないのでしょうか?

そのように自分の孤独に埋没している人というのは、エゴの卵の殻に閉じこもってそこから出られず、その卵の殻が割れないように自己防衛に必死で、些細なことも悪く受け取っていちいち傷つき、人目ばかり気にして疲れ果て、自尊心を保つ為に誰かを見下したり責めたりして嫌われ、内心自分を責めて罪悪感と劣等感に苛まれ、どんどん独りぼっちになって心を病んでしまうのですね。鬱というのは自分のエゴに埋没することを原因としており、同時にそれを症状(結果)ともしている悪循環構造なのです。かつての僕もまさにそのようでした。

わかりますか?「他人から理解されたい」というのもエゴなのです。「エゴ(欲)とは何か?に書いた通り、エゴはそれ自体が悪いものではないのですから、なくすべきではなく、なくそうと思ってなくせるものでもないのです。エゴを乗り越え続けるその過程にこそ成長があり、愛は生まれるものだからです。

自分が他人から理解されないことを嘆くより、ただただ他人を理解することに努めて下さい。それが愛なのです。そうすることであなたはより自分自身を深く理解し、自分も他人も愛することができるようになるのです。そういう人間こそが他人から理解され、愛されるのです。

愛は無償でなければ意味がありません。創造主は僕らに何も強制・強要せず、完全に自由にして(自主性に任せ)、ただありのままを愛しくれています。何の見返りも求めず、ただ与え続けてくれています。僕らも創造主の子供として、その「愛し方」を「自発的に」見習っていかなければなりません。

「私があなたを理解するので、そのかわりに私を理解して下さい」というのは「私が愛する代わりにあなたも私を愛して下さい」というのと同じであり、相手からの愛を交換条件のようにして強要していることになり、心は何かを強制・強要されると反発するようにできているのですから、反発は必至なのです。

「こいつは俺が辛い時に助けてくれようとしなかったクセに、自分が辛い時ばっかり助けを求めやがって。絶対に助けてなんかやるもんか」などと考えるのはあまりにも愛が欠如していると思います。それで相手からの愛を失って別れに至るのは理不尽ではなく至極当然のことかと思います。どうかあなたが辛い思いをした分だけ、あなたに助けを求めて当たるしかなかった元彼女の辛さをわかってあげて許してあげて下さいね。元彼女があなたを支えられなかったのは、その時は経験がなくてわからなかったのですから仕方がないですし、あなたもその時既に正常な状態ではなかったのですから、そのような愛に欠けた考え方をしてしまったのは致し方のないことなのです。

あなたの症状は本当に典型的であり(同じような状態で苦しんでいる人がたくさんいます)明らかにLSDのせいでおかしくなっているのです。「今の自分はおかしくなっている」と自分で認めることがどれだけ勇気の要ることなのかはよくわかります。きっとあなたは優しい人だからこそ、自分の思考ループや不安やパニックの直接的な原因がLSDだと認めると、元彼女のことを引きずり込んでしまったことへの罪悪感に耐え切れなくなるために、自分の元々の性格がダメだからこうなっているのだと考えたり、罪悪感を元彼女の理不尽さへの怒りに転嫁してたりしているのでしょう。

しかしLSDというのは厳しいもので、その「自己正当化」を許さず、思考ループに陥れて深みにハマらせるのです。だからその「自己正当化」を止めない限り(自他共に許さない限り)その悪夢から出ることができず、良くなりようがないのです。

全ての創造は、創造主が内なる己を知る(内観する)ため・愛を経験するために創造したものであり、「自己正当化」というのは深い内観・許し(愛)に反する意識であって、それに対してLSDはとても厳しいのです。だから深く内観し、自他を許す以外にないのです。

鬱状態の時にあなたがLSDという気分を変えれるものと出会い、そのデメリットを良く知らずに良いものだと思って彼女にも勧めてしまったことは、カルマであり仕方のないことだと僕は思います。全ては運命であり、実際あなたも誰も何も悪くありません。もし僕があなたと同じように鬱まっ盛りだった頃にLSDに出会っていたら、きっと同じ事をしていると思います。欠点も過ちもない人はいませんし、罪を犯さない人間もいません。だからまず自分を許し、元彼女のことも許すことです。許すことが愛です。

あなたは自分を責めて落ち込んでいる場合ではありません。ただ自分が主人公としてその経験から学んで、他人の苦しみに心から同情して許し愛せるように成長し、その悪い因果のループを(愛を悟り・実践することにより)断ち切らなくてはならないのです。強くなって下さいね。

もう他人が自分に何かしてくれる(理解してくれる・辛い時に支えてくれる)などという期待は一切しないことです(もし相手が気持ちを一部でも理解してくれたり、自分に対して何か自発的に良いことをしてくれたら、心から感謝することです)。

そしてただひたすら「自他が存在すること」「人生という経験機会・世界という経験舞台が与えられていること」への感謝を、「出会うすべてをありのままに愛すること(相手が欲するものを与え続けること)」で示し続けることです。それは自分が理解されなくても相手を理解しようと努めることであり、どんな話にも共感・同情を素直に示せるようになることです。

そして何より、信心を持って下さいね。何の宗教でも良いので。何の神様であれ、それは創造主の分身であり、あなたが神仏とその教えに対して尊敬と感謝を示すなら、その存在を通じてあなたをきっと救いに導いてくれますから。

あなたに今まで信心がなかったとしても、それはあなたが悪いからではありませんから、それを神仏や誰かから咎められて救われないなどということはありません。むしろカルマに負けずに改心して信心を持ってくれたことをきっと喜んで迎えてくれて、救いに導いてくれることだと思います。それは聖書の「放蕩息子の譬え」や法華経の「長者窮子の譬え」が証明してくれています。どうか改心して「自発的に」信心を起こして下さい。誰かに強制されたりして信心を起こしても意味がないのです。

混乱が収まるまで「南無妙法蓮華経」を唱えてみて下さい。そして混乱が収まったら般若心経の究極解説をぜひ読んでみて、日々般若心経を唱えてみて下さい。きっとあなたを悪いカルマに引きずり込んでいる霊障が祓われますから。

それでは、あなたがそのようにしてLSDの後遺症である「思考ループ」の地獄から抜け出し、愛(慈愛・尊敬・感謝)に満ちた自分に目覚め、幸せ・悟りに導かれることを、心よりお祈り致しております。

※祈りが伝わりますように、ぜひ僕の読経動画も見てみて下さいね。

後悔・自己嫌悪ばかりで努力できない

【質問】20代・男性 ペンネーム:ロダン 普段noteを拝見させていただいて「宇宙の仕組み」「ピラミッドの存在意義と仕組み」の二つは、これまで読んできたnoteの中で一番衝撃的かつ興味深い内容で、何度も読み返してしまうほどの内容の素晴らしさでした。 これまでの人生、何か成し遂げた...